069: 辞書を引く



「キャプテンとマネって、付き合ってんの?」

 練習が終わって、部室で部員達みんなが着替えていた時のこと。
 宮内のその唐突な発言に、ある者は飲みかけのポカリを吹き、ある者はシャツの袖に手をかけたままの格好でフリーズした。
 そして問われた方の、キャプテンとマネージャーは口をそろえて答えた。
 前半までは、同じセリフを。 

「何言ってんだ」
「何言ってるんですか」

 そして後半部分を、キャプテンは笑顔で、マネージャーは呆れたような顔で、

「そうに決まってるだろう!」
「そんなわけ、ないじゃないですか」

 ……と、言った。
 何とも言えない、微妙な沈黙が流れた後、野球部キャプテンはすっとんきょうな声をあげた。

「えっ! 嘘!? 付き合ってるよね、俺達!」
「はあ? 何言ってるんですか、キャプテン。俺とあなたは、野球部マネージャーとキャプテン。高校の後輩と先輩。ただの。それだけ、ですから」

 スコアブックを抱えて、マネージャーは『ただの』の部分を特に強調して断言した。
 それを聞いて、キャプテンが塩をかけられたナメクジのように、しおしおと萎れる。
 見ていて哀れなほどだったが、マネージャーは特に気にした様子もなく、野球部レギュラーである2年生の宮内に尋ねた。

「ところで、どうしてそんな質問を? 宮内先輩」
「相変わらずクールだねえ、ウチのマネは。頼もしい。実に」
「だから、どうして、そんなとっぴょうしもない質問を?」

 若干、イラっとしているのを隠しもせずに、1年生マネージャーは繰り返した。
 宮内は、へらっと笑いながら答える。

「やー、ほら、実際のとこどうなのかなって。キャプテンがマネに惚れてるのは部の公認の秘密……いや、事実だろ? 今後のこともあるし」
「今後、とは」
「合宿の時とかさあ。ふたり揃って夜いなくなっても、気を遣って探しに行かない方がいいのかなとか、そういう」
「部員が合宿の夜に行方不明になったのなら、まずは探して下さいよ」
「馬に蹴られたりしない?」
「蹴られません。というか、部活中に不埒な行いをする部員がいたら、マネージャーの俺が責任を持って蹴り倒しておきますから、安心して下さい」

 にっこり。
 そんな擬音が聞こえてきそうなくらい、鮮やかな笑顔をマネージャーは浮かべた。
 その笑顔は――たとえ男であっても――部員達すべての潤いだ。
 誰よりも野球好きだが、誰よりも野球が下手なこの1年生は、どんな雑事も厭わない、優秀かつ美人――繰り返すが男だ――野球部マネージャーだった。
 この1年マネージャーが来てから、部室はいつもピカピカだ。
 それに、私立の強豪校から数多の誘いがかかるほどのピッチャーなくせに『家から一番近いから』という理由で特に野球が強いわけでも何でもない公立高に進学した、練習嫌いの怠け者のキャプテンが、朝練さえもかかさずに毎日来るようになったのは、マネージャーの存在が大きい。
 というか、マネージャーが今、野球部を辞めたら、さっそく明日から練習にこなくなるだろう。
 期せずに超高校生級なピッチャーが入って来て小躍りしていた監督も、このむらっ気のあるキャプテンを野球に集中させることは出来なかった。
 それでも、地区大会2年連続ベスト4は野球部にとっては十分快挙ではあったが。
 少しでもやる気を出させようと、とりあえずキャプテンにつかせてみても、何の自覚も芽生えない残念な超高校生級ピッチャーだったが、恋は人を変える。
 今年は、もしかしたら念願の甲子園も夢じゃないかもしれない……!
 そんな明るい希望に満ちて練習に励んでいた部員たちは、マネージャーのにべもない言葉に揃って――宮内を除き――青ざめた。

(キャプテン、失恋決定……?)
(ヤバイ。また練習にこなくなるかもしれないぞ)
(そんな……っ! 最後の夏に甲子園に行けるかもしれないと言う俺達3年の夢がっ!?)

 部員たちに動揺が走る。
 マネージャーによって男子運動部員の部室とは思えないくらいピカピカに磨かれた部室のあちこちで、ざわめきが起こる。
 そのざわめきを止めたのは、しおしおの青菜になっていた、キャプテンだった。

「宮内! マネージャーは……っ! マネージャーはちょっと照れてるだけなんだ! 俺とマネージャーはラブラブな恋人同士なんだっ!!」

 拳を握りしめて、キャプテンは力説した。
 それに対し、マネージャーは片眉だけを美しい角度で下げた。

「キャプテン。辞書持ってます? 用語の意味、間違ってますよ。一度ちゃんと、『恋人』って言葉を辞書で引いてみてください」

 淡々としたその声は、15歳男子にしては整い過ぎた顔から発せられているだけに、聞いてる者の心をたやすく折ってしまいそうな力があった。
 しかし、キャプテンはめげなかった。
 すぐに滑舌よく反論する。

「恋人、恋しく思う相手。普通、相思相愛の間柄にいう。ほら、何も間違ってないだろ!?」

 この時のために辞書を引いてきたのかと突っ込みたくなるほどの、素早くかつ正しい返答だった。

「でもそれは、俺とキャプテンの関係をあらわす言葉じゃありませんよね?」

 返ってくるマネージャーの台詞は、どこまでも落ち着いている。
 だが、次のキャプテンの言葉に、マネージャーだけじゃなく、宮内を含めた部員達全員に、衝撃が走った。

「けど……っ! エッチまでしといて、俺とマネージャーが何の関係もない、ってことはないだろ!?」

 水を打ったように、ということわざの使いどころは今この瞬間だ、とばかりに部室が静寂に包まれる。
 こう言う時って、なんかくしゃみしたくなるよね、と宮内は思ったが、何とか我慢した。

「なっ……!」

 部室のフリーズ状態を解除したのは、先程までは落ち着き払っていたマネージャーの叫びだった。

「何でそんなことを、今、ここで言うんですかっ!? 信じられない……っ!!」

 顔が真っ赤だった。
 どうやらさっきの問題発言は、キャプテンの虚言ではなさそうだ。
 部員達のざわめきが戻ってくる。

(そうか、ヤっちゃったのか……)
(ちょっとショックだ……)
(いやここは、素直にキャプテンにおめでとうと言ってやろうぜ)
(だな。あんなにあからさまだったもんな)
(オレなんか、ウチのマネって美人で可愛いっすよね〜って言っただけで、キャプテンから仕留められそうな目で睨まれたんだぜ)
(でもマネって、そんなキャプテンを華麗にかわしてただろ? てっきり、キャプテンの一方通行だとばかり……)

 キャプテンのマネ熱愛っぷりは部内公認だったため、ひそひそ話も遠慮がない。
 マネージャーはそんな部員達をキッとひと睨みすると、キャプテンに向き直った。
 今までの勢いはどこに行ったんだという弱気な声で、もごもごと口にする。

「あ、アレはちょっとした手違いって言うか………」
「手違いで、マネージャーは好きでもない相手とヤるの?」

 間髪いれずに返されて、マネージャーはムッとした。

「失礼な! そんな人を尻軽みたいに言わないでください! あんな……あんなこと、誰とでも、なんて……」

 頬を染めてうつむいたマネージャーの可憐な様子に、部員達に違う動揺が一斉に走る。
 顔を赤らめてうろたえる部員達に、今度はキャプテンが睨みを利かせた。

「おいこら、お前ら、マネージャーを変な目で見るな!」

 部員達はそれぞれ決まり悪そうに、そっと目を反らす。
 諸悪の根源である宮内は、だって可愛いんだからしょうがないよなあ、と開き直ってはじらうマネージャーを堪能した。
 美人マネージャー(男)は、野球部の財産なのだ。

「つまり、マネージャーは、エッチしてもいいかなってくらいは、俺のことが好きってことなんだろ?」

 怖いもの知らずな宮内にガンを飛ばしてから、キャプテンはマネージャーに向かって臆面もなく続けた。
 マネージャーは、だって、と答えた。

「あんな、雨に濡れたワンコみたいな目で見られたら……しょうがないじゃないですか」

 赤い顔のまま、困ったように首をかしげるマネージャーに、部員達は、

(同情……?)
(同情だな……)
(動物愛護精神的な……)

 と、囁き合う。
 常に隙のないように見える美人マネージャーにだって、弱点くらいはある。
 彼は、愛犬家だった。
 そう言えば、マネージャーが飼っているラブラドールレトリバーは、何となくキャプテンに似ている。

「そ、そんな……っ! お情けで1回だけヤらせてやったとか、そういうことだったのか!?」

 哀れなキャプテンに遠慮して、宮内でさえも言わなかったことを、キャプテン本人がマネージャーに向かって叫んだ。
 ああここで決定打が打たれちゃうんだ、と部員すべてが思った。
 が。

「そ……そういうわけでは、ないですけど。それに俺、そこまで博愛精神に満ちてませんし、流されやすくもないですよ」

 意外なことに、マネージャーはキャプテン(と、部員達)の疑問をきっぱりと否定した。
 同情でもなければ、流されたわけでもない。
 と言う事は………。

「なら、好きってことじゃないの、マネージャー」

 部員全員を代表して突っ込みを入れたのは、またしても、最初に付き合ってるのかと尋ねた2年生レギュラー、ポジションはサードの宮内だった。

「そっ……れは、俺は別に、キャプテンのことが………嫌い、とは、言ってませんし」
「ちょっと待って。まとめるから。えーと、マネージャーは、キャプテンのことは嫌いじゃないし、エッチするのもイヤじゃないけど、付き合ってはいないし、恋人同士でもない、と。そういうこと?」
「そうです。最初から、そう言ってるじゃないですか」

 ようやく落ち着きを取り戻したらしいマネージャーが、いつもと同じように涼やかな声で答える。
 その会話に割り込んできたのは、当然と言えば当然な、キャプテンだった。

「それでなんで、俺と付き合ってないことになるんだ!? 合意でエッチ出来たんだから、俺としてはそういうつもりだったんだけど!」

 悲愴な訴えに、マネージャーはあっさりと答えた。

「何を言ってるんですか。俺は高校3年間を、野球に費やすと決めているんです。色恋沙汰にかまけている暇なんてありません」

 そして、力強くこう続けた。

「それにキャプテンとは、今年の夏までしか一緒に野球が出来ないんですよ!? 付き合うだの付き合わないだの以前の問題です! キャプテンは俺の事をとやかく考えている暇なんてないはずです! 夏が終わるまでは、甲子園に行くまでは、野球のことだけを考えてください! 高校生活最後の夏を、完全燃焼して下さい……!!」

 そうだった、と宮内を含めた部員達は思った。
 マネージャーは野球一筋なのだ。
 その情熱は、ここにいる部員の誰よりも熱い。
 兄弟が多いから、私立には行けなかったんですよね……ホントは、甲子園常連の私立K学院に行きたかったんですけど。
 そう話しているのを、確かにみんな、聞いていた。
 そして、だけどこの学校にはキャプテンがいるから、と嬉しそうに続けていたのを。

「甲子園に出場してから! すべてはそれからです!」

 美しい野球部マネージャーは、きっぱりと断言した。
 その決意は、誰の目にも明らかだった。

「……わかった。甲子園だな! 行ってやろうじゃないか、甲子園! 何が何でもマネージャーを甲子園に連れてってやるよ!!」

 キャプテンは、声高らかに宣言した。
 とにもかくにも、夏が終わらければどうにもならないことがわかったからだろう。
 超高校生級ピッチャーに、3年目にしてようやく火が付いた瞬間だった。
 今はここにいない監督も、この言葉を聞けば、感涙にむせぶだろう。
 すでに3年生は泣いていた。

「うおおおっ! 絶対、甲子園に行くぞー!」
「マネージャーを甲子園に!」
「俺たちの熱い夏はこれからだ……っ!」

 部室に歓喜の声があがる。
 その波に押されるように、じわじわと今年の夏に向けての期待と、希望が宮内にもわいてくる。
 宮内は着替え終わってロッカーをバタンと閉めながら、胸を躍らせた。

(もしかしたらこれは、本当に行けるかも、甲子園……)

 いい加減そうに見えて、練習は結構真面目に出ている宮内は、立派な高校生球児だ。
 だからこそ、キャプテンの今後の動向を握っていると思われるマネージャーとの関係が気になって――恐れ知らずにも――つい本人達に尋ねてしまったワケなのだが。

(とりあえず、マネに振られて戦意喪失、ってことはなさそうなのは安心だな)

 ほっとしつつ、かつてないやる気に満ちたキャプテンと、それを頬を染めて嬉しそうに見ている美人マネージャーを交互に見ながら、宮内はこっそり胸の内で考えた。
 キャプテンの夏は今年で終るが、マネージャーの夏は、今年を含めて3回も訪れる。
 ヘタしたら、キャプテンは再来年までお預けなのだろうか、と。


Fin.


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