006: 手を伸ばして



 どんなに手を伸ばしても、届かないものはある。
 だから僕は、あれは酸っぱいブドウなんだと、自分に言い聞かせる。
 寓話に出てくる、キツネみたいに。
 あんなもの、ちっとも欲しくないよって。


 誰も居ない部室で、窓の外をじっと見つめていたら、背中から声がかかった。
 幽霊部員の、広川だった。

「虚しくねぇの?」

 虚しくないわけ、ないじゃないか。
 だけど、それを認めるわけにはいかない。
 手に入らないものを、指をくわえて見てるなんて、それだけで十分、みっともない行為なのに。
 ほんとうは欲しいのに、気になるのに、全然、ちっとも、興味がない。
 せめて、そういうポーズをとっていないと、やりきれない。
 高い高いところにある、瑞々しいブドウを、難なくもぎとって、やすやすと手に取ることができる者がいるが、それは決して、自分じゃない。
 だったら、あれは、どんなに美味しそうに見えたって、僕には酸っぱくて、食べられないんだって思っていたほうが、精神衛生上、いいだろう?

「………虚しくなんて、ないね」

 なので、僕は極力、表情を動かさないように気をつけて、何でもないことのように、答える。

「ふうん?」

 馬鹿にしたような笑いだ。
 ますます、カチンとくる。
 何だよ。
 何だっていうんだよ!?

「広川には、どうだっていいことだろ」
「まあ、そうだけど」

 あっさりうなずかれる。
 ほんと、何なんだ、コイツは。
 馬鹿にしてるのか、喧嘩売ってるのか、ただ聞いてみたかっただけなのか。
 どっちにしろ、失礼なヤツだ。

「案外、手に入ったかもしれねぇのになあ、と思っただけで」

 ぽつり、と。
 狭い文芸部の部室の窓の下、仲良く歩く一組のカップルを見下ろしながら、広川はつぶやく。
 文芸部は、必ずどこかの部活動に所属しなければならない、という面倒な規則があるウチの学校で、本来なら帰宅部に所属しているような学生が、とりあえず席を置く部だ。
 部員の、大半は幽霊部員だが、僕は違う。
 ……次第に遠ざかっていく、カップルの男のほうも。
 
「ぽっと出のオンナに、かっさわれるとこ、指くわえて見てるだけ、なんて、さ」

 窓の外から視線を戻して、広川はにやりと笑う。

「手ぇ伸ばして、つかみとってみればよかったじゃん。引きずり落としてやる勢いで」

 そう、できたら……。
 いや、違う。
 そう、してみようと、思ったことがない、と言ったら、嘘になる。
 いっそもう、玉砕覚悟で、とか。
 そんな風に、思ったこともあった。

「ごめんだね。そんな、一か八かの勝負を、やろうと思わない。……リスクが、高すぎる」
「リスク?何のリスクだよ」
「それは………」

 自分の性癖が、ばらされてしまうかもしれないという、こと?
 いいや、あいつは、そんなことする人間じゃない。

「友達をひとり、失くすことになる……」

 おもてだっては、何も言われないかもしれない。
 このことで、僕を侮蔑したりするようなことも。
 だけど、きっと、今までのような友人関係は、失ってしまうだろう。
 手に入らない、だけじゃない。
 むしろ、それ以下。
 マイナス状態だ。

「でも、そんなん、野郎がオンナに告っても、オンナが野郎に告っても、同じじゃねぇ?」
「違うよ、全然」

 付き合わなくても、友達で居ることなら出来るだろう。
 異性同士なら。

「わかってねぇな、お前。告って振られて、当たり前の顔して友達でなんか、いられるかよ。おんなじだよ、条件は」
「そう……なのか?」
「決まってるだろ」
「………」

 さっくりと、肯定されて、何だか力が抜けた。
 怖いのは、失うのを怖いと思うのは、誰でも、同じ……。

「要は、取るか、取らないか。それだけだろ」

 残ったのは、とてもシンプルな答え。
 手が届かない、と思っているブドウだって、どうにかしたら、届くかもしれない。
 どうやったって、届かないかもしれない。
 でも、最初から、酸っぱくて食べられない、と思い込むことは、なかったのかもしれない。

「……広川の、言う通りかもしれないな。でも、もう遅いよ」
「そんなの、わかんねぇって」

 文芸部、と言いながらも、蔵書は漫画の方が多いスチール製の本棚から、一冊、少女漫画をぬきとって、広川はパラパラとめくった。

「昔の歌にもあるだろ。あなたが振られるまでいつまでも待つ、とか歌ってるの」
「気が長いな。それに僕は、そんなに執念深くもないつもりだけど」
「もしかして、結構、切り替えが早い方?」
「……さあ、どうだろう」

 未練たらしく、あのブドウは酸っぱかったんだ、と自分に言い聞かせなきゃいけないくらいには、思い切りはよくないだろう。
 でも、樹から落ちて他人の手に渡ったブドウを、奪いに行ったり、運よく手に入るかも……と思うほどには、執着が強いタイプでもないと……思う、たぶん。

「じゃあさー。俺にしとく、とか」
「………は?」

 軽く言われた言葉が、頭を横滑りしていく。
 何が、じゃあ、で、何が、俺、なんだ。

「広川の、言いたい意味がわからない」
「えー。何でわかんないの?俺と付き合おう、って言ってんの」
「はあ?」

 まじまじと、広川の顔を見る。
 変な冗談言うな、と思わず口にでかかる。
 だが、顔を見たら、どうやら本気らしい……ということは、わかった。
 これでからかってるんなら、結構な役者だ。
 しかし、あいにくここは演劇部ではなく、文芸部だ。
 どっちかというと、読書クラブって言った方がいい部活だけど。
 いや、そんなことは今は関係なくて。

「つかさ、何で俺が、お前の好きなヤツ把握してると思ってんの」
「それは………」

 幽霊部員の広川から、僕の好きな人が……、さっき窓の下を、先週付き合いだしたばかりの一学年下の彼女と、通り過ぎていった、同じ文芸部である僕の友人だろうと、指摘されたのは、先月のことだった。
 そんなことを言われて、こいつは僕のことを脅すつもりなんだろうか、と最初は警戒した。
 でもそういった気配は全くなく、ただ、気づいたから言ってみただけ、といった風だったので、気にしないことにした。
 ……友人が告白された後輩の女子と付き合い始めた時は、何か物問いたげな顔で、僕を見ているなあとは思っていたけど。

「そんなの、お前を見てたからに、決まってるだろ」

 呆れた様に言われて、むっとする。

「だって広川、クラスも違うし、部活にだってほとんど出てきてなかったじゃないか」

 それで、僕のどこを見てたって言うんだ。

「クラス違っても、部活出てなくても、お前を見ることくらいできる。気づけなかったのは、お前が俺のこと、眼中になかったってだけだろ。大体、部活なんか出てたら、お前が、あいつのこと、ほんとは欲しいんだけど、全然欲しくありません、みたいなツラして見てるの、間近で見なきゃなんなくて、イライラするんだよ」
「わ、悪かったな……!」
「心配しなくても、部で気づいてたの、俺だけだから。どうせなら、あいつにも気づかれるくらいの勢いで見つめてりゃよかったのに」
「出来るわけないだろ!」
「そうだよなあ、お前って、そういうヤツだもんな。やせ我慢しすぎってか、プライド高いってか」
「大きなお世話だっ!」
「うん。でも俺、お前のそういうとこ、結構好きだよ」

 すごく、さらっと言われたので、またしても、言葉が頭を横滑りしていきそうになった。
 が、今度はちゃんと、意味を持った音として、頭に残った。

「だから、俺と付き合おう」

 に、っと。
 無駄に自信満々な顔で。

「ば……、馬鹿じゃないの、お前!」
「ひでぇな。怒鳴ることないじゃん。俺、本気よ?」

 真っ直ぐに、僕を見ている広川の目に、捕まる。
 一歩、二歩、とこっちに近づいてきて、僕は、はっとして後ずさった。

「ぼ、僕は……」

 頭が、ぐるぐるしている。
 あのブドウには、やっぱり手が届かなかったんだって。
 自虐的に、それを確認していただけだった。
 そうやって、自分の気持ちに、区切りをつけようって。
 それなのに、これはいったい、どんな展開なんだ?
 ブドウの近くに、実は僕にも手が届く果実がありますよ、といきなり告げられた気分だ。

「か、帰る……!」

 机の上に置いていた、鞄をひっつかむと、僕は部室のドアを乱暴に開けて、廊下に出た。

「返事は急がねぇから」

 背中から、愉快そうに、声が追いかけてくる。
 本人は、追いかけてこなかった。


「はあ、はあ、はあ……」

 うっかり、全速力で駆けてきてしまった僕は、下駄箱に手を突いて、荒い息を整えた。
 上履きを、革靴に、履きかえる。

「ったく、何なんだ、広川のヤツ……!!」

 グラウンドから聞こえてくる、サッカー部の連中の声にまぎれるくらいの音量で、僕は広川を罵った。
 好き勝手、言いやがって!
 その上、僕が好きだって……!?
 走ってきたからだけではない、鼓動の速さに、僕は途惑った。
 鞄を抱えなおして、校舎を後にする。
 いつのまにか、火照っていた頬に、夕方の風が気持ちいい。

「…………」

 手を伸ばしても、決して手が届かないと思っていた。
 それが、思っても見なかった方向から、逆に、手が伸ばされてきた。
 欲しかったブドウとは違うけど、同じように、いや、もしかしたらそれ以上に、甘いかもしれない、果実を持った、手が。
 僕はそれを、手にとっていいんだろうか。
 手にしたいと、思っているんだろうか。

「わからない………」

 途方にくれて、僕は立ち止まった。
 だって、ついさっきまで、ブドウのことしか考えていなかったのだ。
 ブドウ以外のものが、欲しいかどうか、なんて………。

「返事は急がねぇって言ったけど、いつまでもは待たないから、そのつもりでいろよー!!」

 頭の上から、声が降ってきて、僕は顔を上げた。
 広川が、窓から身を乗り出すようにして、笑いながら、手を振っている。

「そ……っんなの、知るかー!!」

 きっと、耳まで赤くなっている。
 だけどそれは、夕日に照らされているせいだ。
 性懲りもなく、自分に言い聞かせながら、僕は広川に怒鳴り返した。


Fin.


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