どのくらい、ここにこうして居るのだろうか。
最早、過ぎ去った日を数えてみるのも虚しい行為だ。
「どうした?今度は、断食でも始めてみる気か」
朝もってきたまま、全く減っていない皿を見て、男が皮肉気に笑う。
断食、か。
そうだな、このまま絶食してみるのも、いいかもしれない。
そうしたら、いつ終わるともしれない時が、確実に止まるのだろうから。
「……腹が、減らないだけです」
水だけが減った器にちらりと視線をやって、呟く。
こんな場所で、鎖につながれ身動きもままならない状態で、幾日も過ごしていれば、食欲など無くなって当然だろう。
そんなことも、わからないのか?
いや、わかっていて、言っているのかもしれない。
……どうでもいい、ことだが。
「ふん。一日一食でも事足りるようだな」
そう、言いながらも、男は手にした昼食と、手をつけられていない朝食を取り替えた。
よく、分からない男だ。
大体、虜囚に飯を運ぶ仕事をするような立場では、ないはずだ。
それとも、打ちひしがれた、哀れな俺をあざ笑いにきたのか?
それだったら、期待に応えられなくて、残念だ。
拷問を加えられるでもなく、ただ牢に繋がれただけの状態は、確かに屈辱といえるのかもしれないが、それだけだ。
無為に過ぎていく時をやり過ごさねばならない苦痛さえ、我慢できるのならば、どうということもない。
じゃらり、と重い鎖を鳴らして、すっかり埃っぽくなった髪をかきあげる。
伸び過ぎた前髪が、鬱陶しい。
「……何故、弟を止めなかった」
おそらく、真っ先に聞きたかったであろうことを、囁くような響きで、問われた。
真っ直ぐに、俺を見るその表情は、感情をうかがわせない。
俺も、髪一筋ほども、表情を揺らさずに、答えた。
「何も、知りませんでしたが故に」
そう、俺は檻越しに自分を見下ろす、爵位継承者の弟君に、与したつもりはない。
ただ、何もしなかっただけ。
事が起これば、真っ先に責任を問われるような立場に居ながら、何も。
「そうか、知らなかったか。それでは、言葉を変えよう。何故、弟を見捨てた」
「…………」
ああ、その言い方の方が、しっくりくるか。
そうだ、俺はあの方を、見捨てたのだろう。
本来なら、兄上に叛こうとしているのを、止めなければいけい立場に居たのにもかかわらず。
知らぬふりをした。
その後、どんな事態がまねかれるか、わかっていて。
「フッ。だんまりか。……聞かないのか?」
「何をです」
「弟が、どうなったかをだ」
「…………」
聞いたところで、何になるのだろう。
幽閉されているのか、蟄居させられているのか、それともすでに、処刑されているのか。
知ったところで、檻の中に居る自分に、何かが出来るわけも無い。
だったら、知る必要も無い。
無い、はずだ。
「……殺しては、いない。あんなのでも、唯一の兄弟だからな」
彼らは母を早くに失くした兄弟だった。
最愛の妻を亡くした哀しみから、目を背けるようにして、執務に没頭した領主は、二人の息子のことをほとんど省みなかった。
よりそうように、生きてきた、兄弟だった。
それが、いつから歯車が狂いだしたのだろう。
兄弟の年が離れていたからか。
実母が違ったからか。
どちらに与すれば、自分の得になるのか、損得勘定に余念の無い家臣が、少しばかり多すぎたせいか。
理由はいくつでもあげられるし、どれが引き金になったのかなんて、今となってはどうでもいいことだろう。
弟が、兄に謀反を働いた。
そして、それが鎮圧された。
よくあることだ。
とても、ありふれたことだ。
それ、だけだ……。
「弟は、お前は関係ない、と言っていた。今回の件には、何も関与していないと」
「………っ!」
小さく、息を呑んだ。
かの君が、自分を庇うようなことを言ったせいなのか。
わずかばかりの良心が、痛んだからなのか。
どちらなのか、わからなかった。
だが、その時のあの方の顔は、毅然とした、揺るぎの無いものだったのだろうと、思った。
「弟は、今、自室に蟄居させている。関わった家臣どもは皆地位を剥奪して、処罰した。甘いといわれたがな。でもまあ、無駄に血を流す事もあるまい?」
「お優しいことですね」
「さあな、お前ほどではないさ」
「俺のどこが、優しいと?」
ずるくて、ひきょうで、矮小だ。
己の正しいと思う道を、選ぶことさえ、出来ない。
「今回の件が、すぐに発覚した理由を、俺が気付いていない、と思うなよ?どうしてこうも早く、事が漏れて、比較的穏便にカタがついたのか」
「それは、貴方様が弟君よりも優秀で、迅速だったからでしょう」
「……まあ、いい。そういうことにしておいてやる」
最後まで、何も言おうとしない俺に、男は苦笑するように、口の端を歪めると、薄暗い牢を後にした。
かつかつ、と靴音を響かせ、遠ざかっていく背中を、見送るでもなく見ていると、それが見えてでもいるかのように、ふと立ち止まり、振り返らないまま告げた。
「弟は、自分がどうなるのかよりも、お前の事ばかり聞いてくる。自分はどうなってもいいから、お前を罰してくれるなと。……愚かなやつだ。弟も、お前もな」
「…………」
靴音が聞こえなくなり、また辺りは静寂に包まれた。
小さな格子窓から、細い光が差し込んでいる場所以外は、薄闇に沈んでいる。
鎖を、引き寄せるようにして、俺は膝を抱えて、丸くなった。
愚かなのは、あの方ではない。
自分だ。
自分だけだ。
長子が後を継ぐのが一般的なこの国で、いくら生母の地位が高いからとて兄を差し置いて、弟が跡目を継ぐなどありえない。
わかっていて、ほんの少しだけ、この企みが成功してあの方が領主となる姿を見たいと思ってしまった。
兄君に不満があるわけではない。
彼は、立派にこの領土を治めていかれるだろう。
そして弟君は、嫡子のいない家に養子として入るか、姫君しかいない家へ婿へ行くのだろう。
あの方は、聖職者という柄ではないから。
身分の高い、領主の家柄の次男以降の行く末は、決まりきっている。
後は、王直属の家臣となるべく、騎士にでもなるか。
どの道、この土地へは残れない。
いつか、俺を置いて、いなくなってしまう。
領主付きの家臣である俺は、この場所から離れられない。
いや、離れようと思えば、出来なくは無いのかもしれない。
それを行うには、あまりにも受けた恩が大きすぎる、というだけで。
結局は、俺は、どちらをも、選べなかった。
だから、何もしなかった。
そして、今がある。
「どう、するのが、正しかったのでしょうね……?」
応えるものとてない、静寂の空間に、問いかける。
抱えた膝に、ぽたり、と水滴が落ちた。
―――お前は、お前のしたいようにすればいいんだ。
いつの日にか、寂しげな微笑と共に聞いた言葉が、泡のように浮かび上がり、やがて消えていった。
Fin.
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