070: 生まれた街



 懐かしい相手から、電話があった。
 実に15年ぶりだった。
 やっぱり15年前からそこにある馴染みの居酒屋で、俺は彼と落ちあうことになった。


「携帯の番号、変わってないんだね。繋がるとは思わなかった」
「……別に、変える必要もなかったからな」

 俺の番号、消してなかったんだな――その言葉はビールと共に飲み込む。
 15年前から変わらぬ味の焼き鳥をほおばる。砂肝。
 隣は上品な箸さばきで、ねぎまの鶏肉とねぎを外している。

「お前は、変わらないな」 

 俺の知り合いで、焼き鳥をいったんバラしてから箸で食うヤツなんて、こいつくらいだ。

「君は、変わったよね」

 箸でねぎをつまみながら、彼は言った。
 ねぎから先に食べるところも、変わっていない。

「そうか?」
「そうだよ。パパって感じがする」
「………なんだよ、それ。所帯くさいって言いたいのか?」

 俺が顔をしかめると、そうじゃないよ、と彼は笑ってライムサワーを飲んだ。

「あったかい感じがするってこと。15年前より、もっと。あ、昔が冷たかったってわけじゃないからね」
「ますます意味わからん」
「んー。家庭的ってこと。前からずっと、そういうとこ、うらやましかったんだ」

 ぱちぱちとはじけるライムグリーンの中で、角の取れた氷が揺れている。
 15年前に戻ったようだ、と思った。
 あの日々の続きのようだと。
 それなのに彼は、俺が変わったと言う……。

「そういえばアレ、まだ持ってる?」
「……何を」

 何でもないように問われて、俺は聞きかえした。
 だが、実際は何の事だかわかっていた。

「覚えてないかな? クロスのペンダント」
「ああ……、アレか」

 すっかり忘れていた。
 ……そんな風に、聞こえただろうか。
 くだらない意地だ。
 本当は、ずっと覚えていたのに。

「捨てたよ、とっくに」
「そっか」

 素っ気なく答えると、同じくらいあっさりと頷き返された。
 嘘つきだな。
 俺も、お前も。

「……捨ててないよ。人に、やった」
「誰に?」
「お前も知ってるだろ。俺の実家の近所に住んでた、小学生の……」
「ああ。獅子舞にいつまでもついてきて、追いかけてた男の子?」

 俺が生まれ育った地域では、正月に獅子舞が近所を練り歩く。
 そして子供たちを追いかけて、おどして、噛みつく。
 幼児は阿鼻叫喚し、小学生は子犬のようについて回ってはしゃぐ、そんな行事だ。
 獅子舞の中には、適当に若くて体力のある男が前足部分と後ろ足部分に分かれて入っている。
 かつて俺は前足、彼は後ろ足でその獅子舞に入ったことがあった。
 その時、いつまでも追いかけて来たのが、はす向かいの家に住んでいた小学生男子だ。

「そう、そいつ。そいつに、やった」
「なんでまた」
「……本当は、途中で捨てていってやろうって思ったんだよ。けど、なんでかな……。やたら元気に『こんにちは!』とか挨拶されて。こいつにやったれ、と思ったんだよ。深い意味はない」
「それは何と言うか……その子も、困っただろうね」
「要らないなら、捨てていいとは言った。それからどうしたかは聞いてないが……もしかしたら、まだ持ってるかもな。なんせ、ウチの母親が編んでやったマフラー、まだ使ってるからな。確実に10年以上は経ってる」

 これも、嘘だな。
 たぶん、この子なら捨てない――そう思ったから、衝動的にその近所の子にやったのだ。
 捨てられない。でも、俺がこのまま持ち続けることも出来ない。
 だから……。

「今時珍しい……物持ちのいい子だね。ああでも、その子ももうとっくに成人してるか。結婚してるのかな?」
「いや、結婚はしてないようだな。それに……」

 たぶんあの子は、お前と一緒だよ。
 学校を卒業して家を出たらしい、かつて獅子舞を追っかけていた少年とは、今でもたまに近所で見かけることがある。
 顔を合わせれば、挨拶をするくらいのご近所付き合いは続いているが、彼女を連れているところは見たことがない。
 だが同じくらいの年頃の、きれいな顔立ちの青年を連れているのはよく見かけた。
 おそらく、ただの友人ではないのだろう。とても優しい目で、連れの青年を見ていた。

「……まあ、よそ様の事を、あれこれ詮索するもんじゃないからな」

 からあげを追加で注文しながら、そう言うにとどめた。
 単なる世間話だったのか、それ以上の追及は無かった。

「そんな事より、お前は? 元気にやってんのか、向こうで」
「うん。まあ、それなりにね」

 ……こんな風に聞ける日が来るなんて、昔の俺が見たら、信じられないだろうな。
 少しぬるくなったビールで口を湿らせて、俺はぼんやりとあの頃を思い返した。
 蓋をして、すっかり忘れたつもりになっていた記憶を。


 ――――アメリカ? なんだよ、それ!? お前、ウチの院に進むんじゃなかったのかよ!
 ――――そのつもりだったんだけど。教授に、薦められたから……。
 ――――いつ、行くんだ? いや、どのくらい、向こうにいるつもりなんだ?
 ――――来週には。どのくらいいるのかは、今はまだ考えてない。もしかして、戻ってこないかもしれない。
 ――――どういうことだよ! お前、わかって言ってるのか!? このまま、俺と別れるって……!
 ――――そうとってくれても、構わない。

 
 頭が、真っ白になった。
 学生と社会人に道は分かれても、このままずっと付き合って行けると、信じていた。
 それなのに彼は、俺に何も言わずに、黙ってアメリカ行きを決めてしまった。
 裏切られたと思った。許せないと。
 そして言葉通り、彼はアメリカに行ったまま、戻ってこなかった―――。
 クロスのペンダントは、その時に彼に渡されたものだ。
 付き合い始めたばかりの頃、俺が彼にプレゼントしたもの。
 それを渡された――返されたと言うことは、もう終わりという事なのだと思った。あの時は。
 だけど、もしかしたら……本当は違ったのかもしれない。
 そうじゃなかったのかもしれない。
 今さら考えても、どうしようもないけれど。

「俺ね。凄く、楽しかったんだ。15年前。君と一緒にいた頃」

 やや唐突に、彼は語り始めた。
 俺は黙って、耳を傾ける。
 運ばれてきたからあげに、レモンを絞って食べた。

「たまに君んちに遊びに行ったじゃない。獅子舞に入ったのなんてあの時が最初で最後だし。夏祭りでさ、ヤキソバも焼いたよね。屋台で買うんじゃなくて、屋台の中の人になったのも初めてで。楽しかったなあ……」

 両手でグラスを持って、氷の向こうにその風景が見えているかのような眼差しで、彼はつぶやく。
 白い指先は男のくせに相変わらず綺麗で、爪も桜色だった。

「俺さあ、話したことあると思うんだけど、子供の頃は親の仕事の都合で頻繁に引っ越してて。ここが自分の故郷だって言えるようなとこなんかなくて。離婚したせいなのかよくわかんないんだけど、祖父母の家にもめったに連れてってもらえなかったし。地域行事なんてもちろん無縁で。だからかな。なんか、実際に自分が生まれた街よりも、ここの方が、故郷みたいに思えたんだ。こども会のサンタ役までしたしね」
「あれは見事な化けっぷりだった」
「でしょ? 俺、面割れもしてなかったしね」

 俺がサンタしても、阿藤さんとこのにーちゃんじゃん! と子供から指差されまくりだったからな……。

「ていうか、お前ホント、よく付き合ったよな。縁もゆかりもない地域行事に」

 母親からの命令から逃れられない俺の場合は仕方ないことだったとは言え。
 その話をすると彼はいつも、俺も参加させて、と言ってきたのだ。
 物好きなヤツだな、と当時は思ったものだが……。

「だから言ったじゃん。楽しかったって。そういうの俺、やったことなかったからさ。君の母さんもすごい優しかったし。美味しかったなー、ハンバーグ」
「お前には優しかったかもしれんが、俺には別に優しくないぞ、昔も今も……」
「はは、そうなの?」

 むしろ嫁の方に優しいくらいだ。
 アタシずっと、娘が欲しかったのよ! とか言って。
 悪かったな、息子で。
 嫁姑の仲がいいのは結構なことだが。

「……だからね、君には手放して欲しくなかったんだ。俺は持ってないものだったから」

 ぽつりと彼は呟いて、半分残っていたライムサワーを呑み干した。
 手をあげて、店員にウーロン茶を追加する。
 俺のビールもいつの間にか空っぽになっていたが、何も頼まなかった。

「何ひとつ、手放して欲しくなかったんだ」

 空っぽのグラスに添えられた手が、痛いくらいに白い。

「お前……馬鹿だな」

 俺はお前だって、手放したくなかったよ。
 そう言うのは、簡単だ。
 だがそれはおそらく、彼の聞きたい言葉ではないだろう。

「そうかな? そうかも」

 屈託なく、彼は笑った。
 後悔なんて、ひとつもしてないと言うように。
 彼のウーロン茶が運ばれてくるのを機に、俺は席を立った。
 財布から数枚札を取りだして、テーブルの上に置く。

「悪い。俺この後、用があるから帰るな」
「もう? もっと一緒に呑みたかったな」
「見回りパトロールの当番なんだよ。サボるとウチの女連中含めたオバちゃんたちにシメられる」
「あ、ついにそういうトシになったんだ、君も」
「トシ言うな! 同い年だろ、お前も」

 あはは、とおかしそうに笑って、彼は俺を見上げた。
 目が合って、彼は何か言いかけたように見えたが、結局何も言わなかった。
 代わりに、俺が口を開く。

「……しばらくは、こっちにいるんだろ? また、呑もう」
「うん。そうだね」


 さよならは言わずに、そのまま別れた。
 そう言えばあの時も、結局さよならは言わないままだったなと不意に思いだす。
 15年前から変わらない居酒屋を出て、辿り慣れた家路につく。
 あまりにいつもと変わらなかったので、本当に何も変わっていないのではないかと錯覚しそうになった。
 あの頃にはなかった左手の薬指にはまった指輪が、過ぎ去った日々を静かに数えていた。


Fin.


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