071: 霧



「これは完璧に……迷った」

 俺ひとりしかいない車中で、ぼそりとつぶやいた。
 もうちょっといけば、たぶんきっと、知ってる道に出るんじゃないか。
 そんな風に自分をごまかしごまかし走っていたけど、これはもう疑うべくもない。
 きっと、道を一本間違えたのに違いない。
 大体、こんな舗装もされてないような狭い山道を通っている時点でおかしいのだ。
 確かに、日帰り出張へと向かった取引先は、辺鄙な場所にあったが、それでもそこまでの道は、舗装された国道を通ってたどり着いたではないか。
 その帰り道が、狭い山道って、ないだろ、フツー。
 どうしてそれを、いやこれ、近道かもしれないし……とか、思っちゃったんだろう、俺。
 さっきから辺りを白く覆いだした霧が、もう、ほんのすぐ先さえにも迫ってきて、ライトが照らしだしているところ以外は真っ白、という状況になって、俺は車を止めた。
 急に車を止めたところで、誰の迷惑にもならないだろう。
 なんせ、他に車が走っていない……。

「トイレ……」

 しかも、まずいことに、トイレに行きたくなってきた。
 辺りは山だし、いっそのこと、そのへんでそっと済ましてくる、というのも、この際アリかもしれん……と思ったが、いったん外に出て、ちょっと藪にでも入ったら最後、止めている車の場所さえもわからなくなるのではないか、という恐怖が湧いてくるくらいには、辺りは霧に包まれている。
 不用意に、外に出たくない。
 別に、山に強いとか、そんなアウトドアな特技の持ち主じゃないし、俺。
 ああ、こんなことなら、たとえ自腹を切ることになろうとも、どこかに一泊してくれば良かった。
(ちなみにこの不景気、ギリで日帰りできるような場所に行くのに、出張費なぞというものが出るはずもない)
 とはいっても、ビジネスホテルなどと言う気のきいたものもないような、辺鄙、かつ中途半端な場所なんだよなあ……。
 たぶん、探せば、民宿くらいはあると思うんだけど。
 この辺、沢釣りができるとか聞いたことあるし。
 ああ、そういえば、知る人ぞ知る避暑地で、別荘なんかもあるって、取引先での世間話で聞いたっけ。
 貸別荘とかじゃなくて、個人所有の別荘がちらほらあるとか……。
 それだったら、何にもないような道だけど、もしかしたら、小店の1つくらいは、この先のどこかにあるかもしれない。
 トイレをそこで借りて、ついでに道も聞けばいい。
 あと少し、あと少しだけ、このまま進んでみよう……。
 イザと言う時はもう、覚悟を決めてその辺の藪の中で、済ます。
 そう決めて、俺は、再び車を動かした。
 霧は、薄くなるどころか、ますます濃く、深くなっている気がする。
 たぶん、雨も降っているのではないか。
 まさしく霧雨で、音もしないから気付かなかったけど、フロントガラスが濡れている。
 ワイパーを動かして、俺は何か、建物が見えないかと、目を凝らしながら、運転を続けた………。


 それから、15分ほど、経ったころ。
 ようやく、俺は建物を見つけて、車を止めた。
 ただしそれは、俺が期待していた、何かの店ではなかった。

「うわー……」

 思わず、感嘆の息が漏れる。
 それは、お屋敷、と言っていいくらいの、立派だが少々古めかしい、建物だった。
 通りすがりでしかない俺が、気軽に立ち寄るには、あまりに敷居の高い建物だったが、背に腹は代えられない。
 物騒な世の中だし、警戒されることは間違いないが、理由を言えば、トイレくらいは貸してくれるだろう、たぶん。
 貸してくれるといいな……。
 そんな、気弱な思いで、俺は車を、そのお屋敷の敷地内に止めた。
 お屋敷の横手に入って、右に行ったあたりに、おそらくこの屋敷のものだと思われる、駐車場があったので、そこへ。
 その広い駐車場には、俺の車以外、1台も車が止まっていなかった。
 まさか、屋敷に誰もいない、とか言わないよな……?
 俺は、車から降りて、霧雨に濡れながら、屋敷のドアノッカー(チャイムではなく、ノッカーだ。こんなの、実物初めて見たぞ)を、控え目に叩いた。
 コン、コン。
 思ったよりも大きな音が出たが、反応がない。
 やっぱり留守だったのだろうか……。
 俺が、そう思い始めた時、内側から、声が聞こえた。

「どなた……?」

 それはか細い、男の声だった。
 たぶん、若い男。
 俺は急いで、用件を口にした。

「あの、すみません。霧で、すっかり道を見失ってしまって。ここがどの辺なのか教えてもらいたいのと、あの、トイレを……!」

 しばらく、間があったのは、俺の言葉を吟味していたのかもしれない。
 まあ、俺が不埒な悪漢ではない、なんて保証は、どこにもないもんな。
 それは正しい判断だろう。
 だが、やがて、妖しいものではない、とわかってもらえたのか、重厚そうなドアが、がちゃりと開いた。
 ほのかに灯る、やや薄暗い照明の中、青ざめて見えるくらい色の白い、線の細い青年が、俺を見上げていた。
 ちなみに、俺は、結構背が高い方だ。
 182センチの俺から見て、彼は170センチ前後くらいだろうか。
 年は俺と同じか、少し下くらいか。
 よく見ると、冷たそうな印象だが割と整った顔立ちをしている。男だけど。
 やや長めの前髪の隙間から、俺を検分するように見つめている目に、どういう顔をすれば正しいのかわからなくて、とりあえず曖昧に笑ってみる。
 実に日本人らしい判断だろう。
 そんな俺に、彼は笑い返すでもなく、かといって、睨みつけるでもなく、くるりと踵を返して、広い玄関から靴のまま、歩きだした。
 どうやらここは、欧米のように、土足で過ごしているらしい。
 彼は数歩進んで、くるりと振り返ると、

「お手洗いは、こちらです」

 と、言って、再び歩き出した。

「あ、はい、すみません……!」

 どうやら、トイレは貸してもらえるらしい。
 俺は慌てて、ドアを閉めると、彼のあとをついて歩いた。
 あ、鍵、閉めてないけど、いいのかな。
 まあ、俺がトイレに行ってる間に閉めるだろうから、気にすることないか。
 そんな事を思いながら、俺は、立派なお屋敷にふさわしい、広くて立派なトイレを、無事、借りることができた。

「ぅわっ……!」

 用を済まして、ホッとしてトイレから出たところで、家主?である青年とぶつかりそうになって、俺は小さく声をあげた。
 な、何もそんなところで、立って待ち構えてなくても……驚くじゃないか。
 そんな俺の様子など、全く頓着したところもなく、彼はいつの間にか手にしていたタオルを、俺に渡した。

「髪、濡れてますよ」
「あ、ああ……、ありがとうございます」

 拭け、ということなのだろう。
 ちょっとぶっきらぼうだが、いいひとのようだ。
 ありがたく借りて、髪を拭く。

「それで、道を……」
「身体、冷えてますね」

 道を教えてください、と聞こうとしたら、何故か、彼が俺の腕を触った。
 車から降りて、ここまで歩いた時に濡れたから、そりゃ冷たいだろうけど……何なんだ、一体?

「お風呂、入りますか」
「えっ……?」

 これは、一体どういう流れなのだろうか?
 よくわからなくて、ポカンとした俺の顔を見て、彼はくすっと笑った。
 どことなく、青ざめて冷たく見えていた彼の顔は、笑うと案外人懐っこい印象を与えて、俺はちょっとだけ、見とれた。
 イヤイヤイヤ!男に見惚れる趣味なんかないけど!

「今、お風呂、沸かしたんです。あなた、雨に濡れてるみたいだから、お風呂に入って、温まったらいかがですか」
「いや、でも……」

 いくらなんでも、知り合いでもなんでもない、今あったばかりの人の家で、お風呂を使わせてもらうわけには……。
 そう思って、俺が口ごもると、彼はあっさりと、遠慮しなくていいですよ、と言う。
 いや、ここは遠慮する場面だろう、社会人としては。
 そんな事を思っている間に、彼はさっさと歩きだした。
 そして、ちらりと振り返って、俺を手招きする。
 もう、彼の中では俺が風呂に入る事は決定事項なのだろうか。
 明日は仕事も休みだし、今から帰って、家にたどり着くのは深夜を過ぎるだろう。
 だから、というわけでもなかったが、貸してくれると言うのなら、風呂を借りるくらいは、いいのではないか。
 俺は、つい、そう思って、彼のあとを大人しくついて行った……。


 ゆったりと広いバスタブは、ぬるめでちょうどよい湯加減だった。
 熱い風呂は苦手なのだが、彼もおそらく、同じなのだろう。
 中にある物は自由に使ってよい、と言われたので、ありがたく、ボディーシャンプーやらシャンプー、リンスも借りる。
 いつも家で使っているモノよりもどことなく高級な感じがするそれは、ふわりと花の香がした。
 そういえば、彼からも、同じ香りがしていた気がする。
 そうか、これはこのシャンプーの匂いだったのか……。
 すっかりあったまって、脱衣所に出ると、そこには、白いバスローブが置いてあった。
 近くにある紙には、

 ―――服は、濡れているようでしたので、他の部屋で乾かします。下着は洗濯しました。それを着てください。
 
 と、ある。
 下着は、ビニール袋にパックされた状態の、新品のようだ。
 サイズはわからないが、トランクスだし、まあ大丈夫だろう。
 ありがたく、借りることにした。
 その隣には、まるい缶が置いてあった。

 ―――よかったら、使ってください。
 
 と、書いた紙がある。
 平たいまるい缶を開けると、白い粉があった。

「べピーパウダー……?」

 これはまた、懐かしい。
 幼いころ、夏場にあせもができた時なんかは、よく母親がはたいてくれていた。
 特に必要はなかったが、懐かしさも手伝って、ちょっとだけはたいてみる。

「悪くないな……」

 粉のさらりとした感触が、心地よい。
 それにしても、いきなり現れた、見ず知らずの人間に対して、えらくサービスのいい人だ。
 脱衣所を後にし、廊下に出ながら、しみじみと思った。
 彼は、誰にでも、そうなのだろうか。
 そう、思ったところで、ふと、とある童話を思い出した。
 ほら、誰が書いたんだっけ?
 レストランにきた客が、何故か、色々と注文をつけられて、それを1つ1つ従っていって、最後には……って、ヤツ。
 いや、ここはレストランじゃないし、注文を付けられたんじゃなくて、これはあくまでもサービスだろう。
 このべピーパウダーが、小麦粉だったりしたら、その童話みたいなことが起きるかもしれないが……いやこれ、べピーパウダーだよな?
 粉をはたいた首元を、くん……っと匂いを嗅いで、確認して見る。
 うん、間違いない。これはべピーパウダーだ。
 ハッハッハ。
 嫌だな、何、ビビってんだよ、俺。
 そりゃ、霧に包まれて、道を失って、それで大きなお屋敷にたどり着いて。
 線の細い、どこか人形のようにも見える、整った顔立ちの青年に親切にしてもらったからって……。

「…………」

 その時、ピカっと稲光がひらめいたかと思うと、ガラガラっと雷が落ちる音がした。
 待て。
 待て、待て。
 やっぱこの状況、おかしくないか?
 なんで、道に迷ってトイレ借りに来たヤツに、風呂まで貸すんだ?
 単に人のいい、親切な人なんだろう……って思ってたけど、ホントに、そうなのか?
 濡れた服を乾かしたり、下着を洗ってくれたりするのって、おかしくないか?
 俺の服を取って、逃げられなくするためとか……。
 でも、一体、何のために?

「湯加減は、いかがでしたか」

 一瞬、心臓が、止まるかと思った。
 出てくるのが遅い、俺の様子を見に来たのだろう。
 俺は、ぎこちなく振り返ると、こくりとうなずき、それだけでは失礼だと、きちんと返事をした。

「はい。ちょうど、よかったです。ありがとうございました……」
「それなら、よかったです。サイズ、合ってましたか?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
「下着は洗濯機に入れて回してます。カッターシャツも、ついでに。上着とズボンは、乾くように、空き部屋に干してます」
「な、何から何まで、すみません。ありがとうございます」
「いえ……。お気になさらず」

 さらりと言われたが、そこまでされて、何も気にしないほど、俺は図々しくも神経が太くもない。
 まして、見ず知らずの人間に対して、だ。
 彼の親切が、はたして善意によるものなのかどうか、わからなくなってきた俺は、ますます曖昧に笑うだけだ。
 もういっそ、自分の服なんてどうでもいいから、バスローブのまま、止めている車まで、走って逃げるべきだろうか。

「お腹、空いてませんか。夕飯、ご一緒にどうです?」
「いえ、いくらなんでも、そこまで甘えるわけには……」
「気にしないでください。一人で食べても味気ないだけですし、ちょっと作り過ぎちゃったんです。シチュー、お嫌いですか」
「いえ、好きです」
「それなら、是非、ご一緒に」
「わかりました……」

 よせ、やめとけ。
 そう、理性が叫ぶ声が聞こえたが、風呂で程良く温まった身体は、もう別にいいじゃないか、と言っていた。
 慣れない道を運転して、取引先相手とやり取りをして、帰りは霧に巻かれて、道に迷った。
 雷が鳴ったところからして、雨も強く振りだしてきたのだろう。
 そんな中、今すぐ、車を運転したくない。
 俺は休みたい。
 頭よりも、身体が、そう訴えていた。
 それに、どこか作り物めいて見える彼が、夕飯をご一緒に、といった時の笑顔が、まるで旧知の間柄の人間にでも見せているかのように、親しげで。
 青白いと思っていた顔に、うっすらと赤みが差したところは、なまじな女よりも、艶めいて見えた。
 霧に囲まれた山の中の屋敷で、綺麗な青年と、ふたりきり。
 もしかしたら俺は、途中から、居眠り運転でもしてしまったのじゃないだろうか。
 こっそり足をつねって見たが……痛い。
 何だか、夢よりも夢みたいだな。
 俺はそう思いながら、またしても、促されるまま、広くて、天井にシャンデリアが下がってるような豪華な部屋で、彼お手製のシチューをご馳走になるのだった………。


 ――――そして、翌朝。
 俺は、ふかふかの、キングサイズのベッドの上で、頭を抱えていた。
 これは一体、どういう状態なのだろうか。
 昨夜から、何度も思った事を、繰り返し、考えた。

「おはようございます」

 隣で、身じろぐ気配がして、目があった彼が、朝の挨拶をしてきた。
 俺は、彼の、裸の肩から目を反らして、うろうろと視線をさまよわせながら、挨拶を返した。

「オ、オハヨウゴザイマス……」

 すると彼は、ベッドに横たわったまま、ぷっと吹き出した。

「なんで、片言になっているんですか」
「は、はあ……」

 いや、だって。
 どういう顔をして、どういう反応をすればいいのか、さっぱりわからない。
 そんな俺をよそに、彼はベッドから起き上がると、裸のまますたすたと目の前を歩き、カーテンをシャッと開けた。
 昨夜までとは打って変わって、良く晴れた朝の日差しが、部屋に差し込んでいる。
 小鳥が鳴く声も、聞こえてきて、ああ、ここは山なんだなあ、と今頃のように思った。

「お腹、空きましたね。ベーコンエッグにしようと思うんですが、卵は半熟がいいですか、固ゆでがいいですか」
「あ、固ゆでで」
「固ゆでですね。わかりました。僕は半熟が好きなんですよ」

 そう言ってにっこり笑うと、彼は椅子の上に脱ぎ散らかした服を着出した。
 俺がぼんやりとそれを見ていると、くるりと振り返って、言った。

「あなたの服。たぶん、もう、乾いていると思うので、取ってきますね。洗濯したシャツや下着も、乾いていると思うので、もってきます」
「すみません、ありがとう、ございます……」

 半分まだ起きてないような頭で、何とか言葉を返す。
 まだ、夢を見ているような心境だ。
 そんな俺の顔を見て、彼はくすっと笑うと、部屋を出ていった。
 その後ろ姿を見送りながら、俺はじわじわと、昨夜から、今に至るまでの出来事を、思い返していた。
 日帰り出張の帰り、霧の中で道を見失って、トイレに行きたくなって、ついでに道も聞くために、途中に行きあった、お屋敷に立ち寄った。
 そして、トイレを借りて、何故か風呂も借りて、食事に誘われて、その後……ベッドを共にした。
 わけが、わからない。
 今の心境を、一言で言うなら、キツネにつままれたような気持ち?
 だけど、彼は、キツネではない。
 それは、ベッドでも確認済だ……というか、まさか、男を抱くようなことになるとは、思っても見なかった。
 どうしてそう言う事態になったのか、思い返してみても、よくわからない。
 風呂や食事に誘われたのと、同じ流れで、なんだか気がついたら、とにかく、そうなっていたのだ、としか、言いようがない。

「……まいったな」

 俺は、ベッドの上で顔をうつむけ、静かにパニック状態に陥っていた。
 昨夜の霧には、何かこう、人の神経を狂わすか鈍らせるような、何かを発散していたのだろうか。

「後悔、してるんですか」

 いつの間にか、彼が俺のすぐ近くに立っていた。
 腕には、俺の服をひとそろい抱えている。
 表情を消したその顔は、なまじ整っているだけに、人形のようだった。

「いや……。むしろ、後悔してないから、驚いていると言うか……」

 そう。
 見知らぬ他人、初対面の人間と、いきなり一夜を共にした事も驚きなら、それが男だった事にも驚きだ。
 自分が、そう言う事が出来るとも、男を愛することが可能だとも、今まで全く、考えたことがなかったのだから。
 そして何より、それを嫌だとも、不快だとも、思っていないと言う事を。

「なんだ……。あんまり茫然としてるから、後悔して、逃げ出したくなってるのかと、思いました」
「逃げだすとか、そんな……。こんなに、良くしてもらったのに」

 服を受け取りながら、俺はきっぱりと言う。
 それじゃ、俺があんまりにも、恩知らずみたいじゃないか。

「ヨくしてもらったのは、僕の方もですよ」
「えっ、いや、今のはそういう意味じゃなくて……!」
「わかってますよ。ちょっとからかってみただけです」

 彼はにっこりと笑うと、ベッドに浅く腰かけて、まだベッドから半身を起しただけの俺を、のぞきこむように見た。

「それより……、後悔してないって、本当ですか」
「あ、ああ……」

 いきなり、身を乗り出すように詰め寄られて、俺はドギマギしながらも、うなずいた。
 自分でも本当に不思議だったけど、その通りなのだから。
 彼は至近距離で目を合わせると、ふわっと笑って目を閉じ、ついばむように、俺と唇を合わせた。

「……よかった。叔父の別荘で、一人で留守番することになるなんて、ついてないって思ってたら、いきなり降ってわいたみたいに、僕の好みど真ん中な男が現れて、ベッドを一緒にしたなんて、幻かなんかじゃないかって、心配だったんです。山の幽霊とか、屋敷の幽霊とか。でも、あなた、ちゃんと、人間、ですよね?」
「人間です。それを言うなら、君の方だって……」
「妖怪か何かだと、思いました?」
「い、いえ、そこまでは……って、俺って、好みのタイプなんですか?」
「ええ。ちょっと背が高くて、マッチョじゃないくらいに適度に筋肉がついてて、眉がしっかりしてて、目がきりっとしてて……ちょっと押しに弱そうな、優しい、男の人が、好みなんです」

 目の前で、指を折って数えながら、言われて俺は赤くなった。
 って、俺って押しに弱いのか。
 ……弱いよな。弱くなかったら、風呂入って食事しないで、最初の予定通り、トイレだけ借りて道聞いて、今頃家についてるよな。
 微妙に落ち込む俺を見て、彼はちょっと首をかしげた。

「どうして、落ち込んでるんですか?」
「いえ、何でもないです……。それより、聞きたいことがあるんですが」
「はい、なんでしょう」
「あなたの名前、何て言うんですか」
「あっ」

 彼は、まだ名乗っていなかったのを、ようやく思い出したらしい。
 よく考えるまでもなく、不用心極まりない。
 俺は、そんな彼の、しまった、と言わんばかりの顔を見て、彼は黙っていると冷たく見てても、しゃべってみると、むしろ表情豊かな方なんだな、と気付いた。
 そうしていると彼は綺麗なだけの人形のようには、見えない。
 霧に誘われ、導かれるようにして出会った、思わぬ相手。
 朝になって、霧はすっかり晴れてしまったが、彼との付き合いは、霧のように消えてしまいはしないだろう。

「俺の名前は……」

 だけど、今は、とりあえず、互いの自己紹介からだ。


Fin.


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