072: コンタクト



「ストップ! 動かないで……!!」
「え?」

 僕の叫び声に驚いたその人は、踏みだそうとしていた足を一瞬止めて、それからよろけるように着地した。
 その後、あ、と小さく呟いた。
 どうやら遅かったようだ。


「ホントにホントに、ごめんね! 俺、弁償するから!」
「い、いえ! いいんです、気にしないでください! 落としちゃった、僕が悪いんですから……」

 申し訳なさそうに言って頭に手をやった彼に、僕は急いで首を振った。
 もしかしたら、いやもしかしなくても、声をかけない方がよかったのかもしれない。
 あのままフツーに一歩を踏み出せていたら、案外、何でもなかったのかも。
 彼がよろけて、ちょっと足を車道側に傾けて着地したその下に、僕が落としたコンタクトレンズがあったのだから。

「それにウチに帰ったら、ちゃんと予備のコンタクトも、眼鏡もありますから。本当に気にしないでください」
「そう……?」
「はい」

 僕の返事に、彼はちょっと笑ったみたいだ。
 裸眼じゃ、あんまりよく見えなかったけど。
 つられたように僕も笑い返して、ぺこりと頭を下げた。

「それじゃ、あの、お騒がせしました……」

 最後にそう言って、すれ違おうとした時。

「あ、待って!」

 彼に、腕をつかまれた。
 僕はびっくりして、振り返った。

(あ、カッコいい……)

 至近距離で彼の顔を見て、初めて、彼の顔が普通よりもだいぶ整っている事に気付いた。
 服装はありふれたスーツで、声の雰囲気からしても、たぶん若いサラリーマンあたりだろう……ってくらいは察してたけど。

「コンタクトないんじゃ、足元が良く見えないだろう? 危ないから、送っていくよ」
「え……。い、いえ! そこまでしてもらわなくても。僕、大丈夫ですから」

 正直言って、僕はかなりのド近眼だ。
 視力は軽く0.1を下回っている。
 とはいえ、全く見えないわけじゃないし、道だって良く知る道だ。
 僕が一人暮らしをしているアパートまでの道のりは、あとちょっと。
 日が沈んで道は暗いけど、街灯の明かりも、そこいらの家からこぼれる明かりもあるし、家までたどり着けないってことはいくらなんでもないだろう。
 見ず知らずの、どちらかといえば僕に巻き込まれただけの彼に、そこまでしてもらうのはいくらなんでも申し訳ない。

「ホントに、平気なんで……、っ!」

 軽く手をあげて、何でもないことをアピールしてから歩き出そうとした僕は、道端に転がっている空き缶に足をすくわれた。
 転びそうになったところを、とっさに彼が受け止めてくれた。

「す、すみません……」

 うわあ、恥ずかしい……っ!
 暗がりの中でもわかりそうなくらい、顔が赤らむ。
 僕は慌てて、早口で言い訳した。

「あの、これはっ! 目が見えてないから、とかじゃなくて! 元々僕は、割と転びやすいって言うか……」

 実はコンタクトレンズを落としたのも、そのせいだった。
 道路のわずかな段差にひっかかって、転びそうになった体勢を、何とか持ち直した結果、はずみでコンタクトレンズが外れたのだ。
 注意力散漫なつもりはないんだけど……どうにも僕は、粗忽者ってヤツなんだろう。
 いつのまにか見覚えのない青あざが足に浮かんでることなんて、それこそしょっちゅうだ。

「えっと、僕のアパート、すぐそこなんで、その……っ」

 わたわたしながら必死に言い繕ってたら、それまで黙って僕の話を聞いていた目の前の彼が、ぷっと吹き出した。
 うわあ、笑われちゃったよ……。そうだよね、笑うよね……。
 自分でもちょっと下手なコントみたいだって思ったし。もういっそ笑ってくれた方が僕も恥ずかしくないと言うか……。

「ああ、ごめんごめん。笑うつもりはなかったんだけど、つい、ね」
「はあ……」

 うう、気まずい……。
 
「すぐそこなの? だったらなおさら、送らせてよ。ほんのわずかな距離で、君が車にはねられてました、なんて後で知ったら、寝覚めが悪いからさ」

 え、縁起でもない事言うな、この人。
 だけど、あながち笑えないかも。コンタクトレンズしてても躓いてるしな、僕……。

「でも、あの、あなたは、いいんですか? その、時間とか」
「ん? ああ、それは平気。俺も自分ちに帰ってる途中だから。俺のマンションね、すぐそこ。ほら、あれ」

 彼が指差した先には、今年になって出来たばかりのマンションがあった。
 ああ、あそこか。
 なんだ、結構ご近所さんだったんだ。
 って、そりゃそうか。
 こんな時間にこんな住宅街歩いてるんだから、まあ大体、帰宅途中だよね。

「君のアパートは、どのへん?」
「えっと、あの角を曲がって……中山ハイツっていう」
「ああ、あの壁がちょっとクリーム色の、2階建てのヤツ?」
「はい、それです」
「じゃあ、すぐ近くじゃないか。気にしないで、送らせてよ。それとも……迷惑?」
「い、いえ……! そ、それじゃ、あの……お願いします」

 ここからなら大した寄り道にはならないってことがわかって、気が楽になった僕は、結局彼に送ってもらう事にした。
 やっぱりちょっとだけ、裸眼で歩くのは不安だったし。
 僕の隣に並んだ彼は、当たり前のように車道側に立った。

「行こうか」
「はい」
「足元。不安だったら、俺の腕をつかんでもいいから」
「あ、いえ、だ、大丈夫ですから!」
「そう?」

 腕を差し出されて、どぎまぎしつつも、流石にそれは断った。
 本当はちょっと、腕をつかんでみたかったんだけど。
 初対面の彼の腕をつかんで歩くなんて、僕にとっては裸眼で歩くよりもハードルが高い。
 それに、僕より頭ひとつ、背が高い彼が隣を歩いてるのが、心臓に悪くて。
 よく見えなくても、時々僕をのぞきこむように見て、笑っているのが雰囲気で何となくわかる。
 これで腕なんかつかんだりしたら、さっきから心臓がドキドキ言ってるの、絶対、聞こえちゃうよ……!


 アパートまでの道はほんのわずかな距離だったのに、なんだかやけに長かったような、あっという間だったような……。
 とにかく、こんなに緊張してアパートに帰ったのが、大学に入ってから初めてだったのは確実だ。
 アパートに着いた時に、ここまででいいです、って言ったんだけど、階段が一番危ないだろうと言われて、一緒に階段も昇った。
 カン、カン、と響く足音が、ふたり分だったせいか、いつもより大きく聞こえて、それもなんだか緊張した。

「あの、ありがとうございました……!」

 ようやくアパートの部屋の前までたどり着いて、僕は再びぺこりと頭を下げた。
 コンタクトレンズはダメにしちゃったけど、むしろダメにしてラッキーな心境だった。
 すっごく緊張したけど、小さな幸せをもらったと言うか。
 こんなカッコいい人と、ちょっとの間だけでも、一緒に歩けたんだから。
 惜しむらくは、もっとはっきり顔を見たかったけど。

「こっちこそ、ごめんね。それじゃ……」

 そう言って、彼はくるりと踵を返した。

(あ、行っちゃう……)

 ちょっとだけ、ラッキーだったな。
 そんなほんわかした気分だったのに、遠ざかっていく背中を見たら、何だか急にさびしくなって。
 気がついたら、僕は声をあげていた。
 いつもの僕だったら、絶対、言えないようなことを。

「あ、あの……っ! あ、あがって、お茶、飲んでいきませんか!? その、お礼に……!」 
 
 
 そして、数分後。
 信じられないことに、さっき会ったばっかりの、通りすがりになるはずだった人が、僕の目の前でコーヒーを飲んでいた。

「へえ……、普段は、眼鏡なんだね」
「はい。コンタクトは、最近、始めたばっかりなんです。なので、あんまり慣れてなくて」
「だから、落しちゃったんだ?」
「……って言うか、躓いて」
「ははっ、ホントに、転びやすいんだね、君」

 眼鏡をかけて矯正された視力越しに見ると、本当に彼はカッコ良かった。
 さらさらの黒髪はやや短めにカットされていかにも清潔そうだし、切れ長の目は涼やかだ。
 全体的に優しげな面立ちなんだけど、男らしい眉がアクセントになっていて、女性的な感じはしない。
 声は低めで、ちょっとハスキーで……。
 一言で言うと、タイプだ。
 好みのど真ん中って言うか。
 そんな彼が僕の部屋で、インスタントコーヒーを飲んでるとか。はっきり言って、あり得ない。
 ベッドとテーブルとテレビを置いたらいっぱいになっちゃうような狭い部屋に、椅子なんて気のきいたものはなくて、彼はベッドに寄りかかるように、床に直接、座っている。
 お茶に(コーヒーだけど)誘っておいてなんだけど、お客様を呼べるようなとこじゃないよな、ココ。
 とりあえず座布団だけはあったのですすめたけど、なんかもうすでに、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 あんまり気にしているようには、見えないのがよかったけど……。
 そして場所的に向かい合わせに座る事が出来なかったので、僕は彼のすぐ隣に座っていた。
 コーヒーの味なんて、正直さっぱりわからない。

「どうして、コンタクトをしようと思ったの?」

 だがもちろん、彼はそんな僕の舞い上がった心境など知るはずもなく。
 マグカップを何気なく傾けているだけですでにカッコいい彼は、僕に気さくに話しかけてくる。

「友達に薦められて。その方が、似合うからって……。僕にはよくわかんないんですけど」
「ふうん……友達に、ねえ……」

 彼はどことなく意味深に呟いて、飲み終わったカップをテーブルの上に置いた。
 そして僕の方を向くと、手を伸ばした。

「あ……っ」

 するり、と眼鏡が外された。
 そんなことされるなんて思ってもみなくて、僕はマグカップを持ったまま、固まった。

「そうだね。眼鏡も似合ってるけど。やっぱり、素顔はもっと可愛い。目が大きくて……ちょっと潤んで見えるのは、近視だから、かな?」
「え、えっと、あの……?」

 か、顔が、近いんですけど……!!
 至近距離から顔を見られて、何か色々言われてるんだけど、頭の中に意味が伝わってこない。
 じわじわと、顔に熱が集中してくる。

「……………」
「……………」

 そのままじっと見つめられて、僕はカチコチに固まった。
 息すら止まってしまいそうな感じ。

(え、え? 僕、どっか、ヘンなのか……?)

 そこまで凝視される理由が分からなくて、でもワケを聞く事も出来なくて、ただひたすら、息を詰めていたら、ふっと、彼は笑った。

「そんなに緊張しなくても………、可愛いなあ」

 あれ?
 今、何て言った?
 可愛い??
 やっぱり、言われた意味が分からなくて、頭の中がぐるぐるしている。
 そんな僕の混乱などお構いなしで、彼は僕の眼鏡をテーブルの上に置くと、再び僕の顔に手を伸ばしてきた。
 手だけじゃなくて、顔も近付いてくる。

「………………」

 今。
 何か、柔らかいものが……。

「キスしてる時は、目は閉じるものだよ?」

 ちゅ、っともう一度、音を立てて、唇をついばまれた。
 下唇を、ぺろりと、舐められて……。

「ひゃっ……っ!?」

 そこでようやくフリーズが解け、僕は間抜けな声をあげて、背中をベッドに思い切り打ちつけてしまった。
 彼はおかしそうにくすっと笑うと、腕を伸ばして僕の肩を引き寄せた。

「あ、あの……?」

 このくらい近かったら、さすがにド近眼な僕でも見えるよって距離まで、再び顔が近づく。 
 と言うか、ちょっとこれは見え過ぎるって言うか、近すぎるって言うか……!

「君のそのくりっとした目はとっても可愛くて、好きだけど。今は、目を閉じてくれる?」

 耳もとでささやかれて、背筋にぞわっと震えが走った。
 だからって、気持ち悪いっていうんじゃなくて……。

「は、はい………」

 わけもわからないまま、僕はまるで催眠術にかかってしまったみたいに、彼の言葉通りに目を閉じた。
 部屋の明かりが遮断され、暗闇が訪れる。
 だけどいつもと違って、部屋には僕以外の気配がある。肩に回された、どこかあまい匂いのする、ぬくもり。
 不意にその匂いが濃厚になった、と思ったら唇に柔らかな感触が訪れた。
 上唇をちょんと何かでつつかれて、薄く口を開いたらそれはそのまま僕の口の中に入ってきた……彼の、舌だ。
 入ってきたと思ったら、生き物みたいに―――いや、生きているんだから、生き物なのは当たり前なのかな―――僕の口の中を蠢いた。
 くすぐって、絡め取って、吸われて、舐められて。
 誘うように動くそれに、僕は気がついたらすっかり夢中になっていた。
 ようやく口が離れたころには、僕は息が上がって、頭もぼーっとしていた。
 目を開けると、濡れた彼の唇が目に映って、心拍数がさらに上がった。
 彼はそんな呆けた僕に優しく微笑みかけると、両腕を背中に回した。
 
 ―――そして気がついたら、僕はベッドの上で彼と向かい合っていた。
 ちゃちなパイプのシングルベッドは、男2人が並んで寝られるほど広くはなく。
 いつものようにベッドに横たわる僕を、彼が上から覆いかぶさっているという……そんなとんでもない体勢で、僕らは見つめあっていた。
 なのに彼は全く気にした様子もなく、穏やかに僕に尋ねた。

「いいかな?」
「…………何が、ですか?」

 ここまできたら、さすがに僕も、今何が起ころうとしているのか薄々は……いやでも、まさか。そんなはずは!!

「このまま、続きをしても」

 彼はそう答えて、僕のシャツの一番上のボタンを外した。
 浮き出た鎖骨を、彼の指がなぞる。たったそれだけで、小さく身体が震えた。

「返事がないのは、同意だと思ってもいいのかな」

 僕がここで、違いますと、止めて下さいと、言ったら。
 彼はこのまま、僕の部屋から出て行ってしまうのだろうか……?
 熱に浮かされたようにふわふわと霞む頭で、僕はぼんやりと思った。
 それは、あまりにもったいない――――と。
 いったい何がどうなってこんなことになってるのかさっぱりだけど、もうこんな機会は二度と訪れないかもしれない。
 いや、もしかしたら夢を見ているのかも。
 大学生になったら彼氏の1人くらいできるかななんて漠然と夢見ながら、田舎から出てきたワケだけど。
 高校生が大学生に変わったくらいで、劇的な変化なんて起こるわけがない。
 かといって、自分から行動に移すことも出来ないまま、一人暮らしも2年目になってしまった。
 どこからが夢なのかわからないけど、慣れないコンタクトレンズなんかしたものだから、目が疲れて、いつの間にか寝てしまったのだろう。
 それで、欲求不満と願望がごちゃまぜになった、都合のいい夢を見てるんだ。
 降ってわいたようにこんなにストライクゾーンど真ん中な男が落ちてくるわけはない。だからこれは、夢なんだ。
 だったらこのまま、最後までやっちゃおう。
 僕は彼を見上げて、うなずいた。だけでは足りない気がして、言葉に出した。

「よ……、よろしくお願いします!」

 決意をみなぎらせて言ったら、真面目な声で、こちらこそ、と返ってきた。 




「おはよう」
「おはよう、ございます……」

 そして、翌朝。
 顔だけじゃなく身体も均整のとれた、それでいてつくべき筋肉はちゃんとついてますよっていう羨ましい体型をしている彼は、爽やかな笑顔を僕に向けた。
 ベッドの上で。僕の、隣で。
 夢だと思っていたアレコレは、夢ではなかった。
 もし夢だったら、腰に違和感を覚えるはずなんてない。
 というか、途中から、いやこれ夢じゃないんじゃ……とさすがに気づいた。


 ――――すべてが終わった後に、彼はこう語った。

『いくらコンタクト割っちゃったからって、通りすがりの人を家まで送ったりしないよ? 君が呼びとめてくれなかったら、俺から声をかけるつもりだった。せっかくのチャンスをふいにするのは、もったいないからね』

 だけど男の僕に、どうして……と問うと、彼は目を丸くして、くすりと笑った。

『おや、君がそれを言うの? だって、同類だろう、君も。……ん? なんでわかったかって? わかるよ、そりゃあ。……ああ、別に、誰彼からもそう見えるってわけじゃないと思うよ。でも、こういうのはわかるだう、何となく、ね……。まあ、違ってたら、君に一発殴られて終るだけさ』

 あっけらかんとそう言われて、僕は驚いた。
 同性しか恋愛対象にならない事を普段ひた隠している僕にとって、その全く悪びれない様子は羨ましいくらいだった。

『まあ……勘、っていうか、願望、かな。君があんまり、僕の好みど真ん中で、可愛かったから。これはこのまま、手放してはいけませんっていうね、コンタクトを受け取ったんだ。……誰に、って? さあ? 俺が踏んづけて割っちゃった、コンタクトレンズの欠片からかな?』

 どこまで本気で、どこから冗談なのかよくわからなかったけど。
 でも確かに、僕も似たようなコンタクトを受け取ったのかもしれない。
 じゃなきゃ、会ったばかりの人をアパートにあげるなんて、いつもの僕の行動からは、考えられないから。


 そして、またしても僕らは、コーヒーを飲んでいた。

「すみません、こんなものしかなくて」
「いいよ。俺も朝はあんまり食べないし。って言うか、いきなり泊った俺が悪いんだから、気にしないで」

 バターを塗っただけのトーストをかじりながら、彼はにっこりと笑った。
 朝日の中で見ても、やっぱりカッコいいなあ……。
 そんなことをぼんやり思っていると、今度は心配そうに尋ねられた。

「それより、カラダ、大丈夫? 初めてだったんだろう」
「え、あ、あの……っ、ええと、だ、大丈夫です!」

 必要以上に慌てて答えると、そう? ならよかった、と微笑まれた。
 気まずい……っていうか、やっぱ、わかっちゃったんだな。
 うん、わかるよね、そりゃ……。半分口にしちゃってたようなもんだし。
 昨夜のアレコレが一気に頭に蘇って、思わず意味のない言葉を叫び出しそうになったのを、ぐっとこらえた。
 どうしようもなく熱くなった顔を持て余して、誤魔化すようにコーヒーを飲み、トーストをもそもそとかじる。
 ああ、安さ一番で食パンを買うんじゃなかったなあ。
 先に食べ終わった彼は、そのままでいいですよ、と僕が言い終わる前に、食器をキッチンまで持って行ってくれた。
 戻ってきた彼は僕を見て、そうだ、と言った。

「大事なこと、言ってなかった」
「大事なこと……?」
「うん。俺の名前。笹川浩司。君の名前は?」
「あ……」

 今頃になって、僕たちはお互いに名乗り合ってもいないことに気付いた。

「菊地、昭利です。S大経済の、2年です」
「あ、俺の後輩だ」
「え、そうなんですか?」
「うん、学部は違うけどね。俺は法学部」
 
 そこで何となく、自己紹介めいたやり取りが始まった。
 色々順番逆だろ、って感じだけど。
 そうこうしている内に、時間が来て、ふたりそろって、アパートを出た。
 そう、今日はまだ、平日だ。
 一緒に並んで、駅までの道を歩いた。

「じゃあ、またね、昭利くん。いってらっしゃい」
「はい、いってらっしゃい、浩司さん」

 改札を通った後、手を振り合って、それぞれが乗るホームへと別れた。
 すでにケータイの番号も交換済みだ。
 浩司さんの、マンションの部屋番号も教えてもらってる。
 
「はあ……」

 いつもの列車を待っている間、僕は何だか信じられない思いでいっぱいだった。
 無意識に、眼鏡のフレームを指で押さえた。
 コンタクトレンズの予備はあったけど、結局僕はいつもの眼鏡をかけていた。
 コンタクトにしなよと薦めてくれた、友達には悪いけど。
 だって……。

『ね……、眼鏡を取った素顔は、俺と一緒の時だけ、見せてよ』

 耳元に甘く囁かれた言葉がリフレインして、僕は慌てて頭を振って、それを追い出す。
 これから当分、コンタクトレンズを使う機会はなさそうだ。


Fin.


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