073: 不思議な言葉



「なんでって? 抱きたいから」

 あまりにも摩訶不思議な言葉を耳にして、オレはフリーズした。
 そしてその後、思わず後ろを見た。誰もいない。
 そりゃそうだ。だってここはウチで。兄貴の部屋で。両親はまだ仕事から帰ってきてなくて。
 だからここにいるのは、オレと兄貴しかいない。
 と言う事は、今の不可解な言葉は、俺に向かって発せられた言葉なわけで。
 そこまで理解した時、オレは思いっきり、声をあげていた。

「えーーーっ!?」


 オレには、4コ上の兄がいる。
 某大学の経済学部の2年。なので俺は言うまでもなく高校1年生だ。
 兄弟仲は、たぶんフツウ。
 っていうか、よそんちの兄弟がどうなのかとか知らないから、あんまよくわかんないけど。
 両親が共働きだから、たまに兄貴がご飯とか作ってくれるし、ちっちゃいころ保育園に迎えに来てくれたのも兄貴だった。
 ので、実は結構、仲はいい方なのかもしれない。
 兄貴は時々、いやしょっちゅう、オレに意地悪していじめられたりもするんだけど。
 オレがニンジン大っキライなの知ってて、ニンジン尽くしの夕飯作ったりとか。
 オレが爬虫類が大の苦手なの知ってて、無駄によくできたオモチャの蛇を机の下に仕込んだりとか。(子供か!!)
 でも、オレが熱出して薬飲んで家でひとりだった時は、自分も学校休んで(登校した後、こっそり戻ってきて)そばについててくれたりもした。
 リンゴすって食べさせてくれて、オレの手を握って、
『だいじょうぶ。お兄ちゃんがついてるからな』
 って言ってくれて。
 あれは確か小3の時だったけど、すごい嬉しかったのでよく覚えてる。
 あと、テレビでやってた怪奇特集をつい最後まで見てしまって、怖くて眠れなくなった時。
 枕を抱えて兄貴の部屋に行ったら、何も言わずに、いっしょの布団に入れてくれた。
 あの時――あれは確か小2の時――も、
『だいじょうぶ。オバケがきたら、お兄ちゃんがおいはらってやるから』
 そう言って、頭を撫でてくれたから、オレは安心して眠れた。
 兄貴の『だいじょうぶ』って言葉は、オレにとっては、魔法みたいな言葉だった。
 それを聞けば、ほんとうにそうなんだってなんでだか思える、不思議な言葉。
 実際、大概のことはそれでほんとに大丈夫だった。
 だからオレは兄貴が普段イジワルだったり、ウソツキだったりしても――兄貴はたまにしょうもない嘘をついて、オレをからかった――、兄貴のその言葉は、信じてたんだ。

 『だいじょうぶ』

 その言葉だけは、それこそ無条件に。
 ―――だが、それが間違ってたってことを、オレはようやく知ったんだ。
 つい先日。友人たちとのたわいもない、くだらない猥談の中で。
 おかげでオレは、あやうく、いらん大恥をかいてしまうとこだった……!!


「してもらうって、誰に」
「えっと、それは……」

 友人に真顔で聞き返されて、オレは口ごもった。
 その時オレは、数人の友人らと、女子の居ない教室でエロ話に花を咲かせていた。
 その時の話題はずばり、ひとりえっち。
 何分持つかとか、どうやってやるかとか、そういうことを面白おかしくしゃべっていた。
 その流れでオレは何気なく、『……してもらう時はさ』と口走っていた。
 その言葉を聞きつけた途端、周囲の友人たちが、色めきたった。

「もしかしてお前、彼女いるのか!?」
「彼女にやってもらってんのか……!!」
「俺ら差し置いて、オトナの階段すでに上っちゃってんのかー!?」

 詰め寄られて、肩を揺さぶられながら言われて、オレは口をぱくぱくさせた。
 何、この食いつきっぷり。怖いんですけど!?

「違うって! オレ、彼女はいないから! そうじゃなくて……」

 そう言うと、あっさりと肩から手が外れた。

「なんだー。だよな、ヒトミちゃんに彼女できたとか聞いてないしー」
「ったく、驚かせんなよな!」
「もう、ヒトミちゃんってば、人騒がせなんだから!」

 口々にそう言って、ほっとしている。
 ちくしょう、彼女が出来ても、お前らには言わないでこっそり付き合ってやる……!

「ってか、ヒトミちゃんって呼ぶな!!」
「だって、ヒトミちゃんだろ。綾瀬仁海ちゃん」
「それとも、名字からとって、アヤちゃんのがよかった?」
「アヤセでいいんだよ、アヤセで!!」

 この名前のおかげでオレはたまに女子に間違われるから、自分の名前があんまり好きじゃない。
 名付けてくれた母さんには悪いけど。
 つうか、男に「ヒトミ」はないだろ!
 オレがそう言ったら、
 『あら、だって、この名前はお兄ちゃんがつけたのよ。生まれたてのアンタを見て、きれいなおめめだね、こういうおめめを、すんだひとみって言うんでしょ、って。だからもう、アンタの名前はヒトミしかないと思ったのよ! そのままじゃ芸がないから、漢字はちょっと洒落てみたの。いいでしょ』
 ……と、母さんに言われた。
 いや、よくないから!
 なんでまだ4歳の幼児の言葉で、一生ものの弟の名前をつけるんだよ!
 兄貴も余計なことを……! って文句付けたら、『いい名前じゃないか。お前にぴったりの名前だ。さすが俺がつけた名前』とか言うし!
 自分は、誠志朗なんて、どうやっても男にしか聞こえない名前を持っているくせに……!

「でも、綾瀬は彼女いないのに、誰にやってもらってるワケ?」
「まさか、風俗……! いやー、フケツ!!」

 脱線した話題が、最初に戻る。
 風俗って。オレがいっても、まず間違いなくつまみだされるし。
 腹立つことに、未だに中学生に間違われることがあるもんな……童顔が憎い。

「って、それは無いか。綾瀬に入れる風俗があったら、ヤバイって」
「そうそう、すなわちそこはコドモ専門店ってことだろ。逆に綾瀬がその筋のヒトに売られてそう」
「だれが子供だ! ちがくて、そうじゃなくて……。ええと、あの……」

 オレはそこで、ハタと気付いた。
 自分の認識が、友人たちと違うことに。
 なので恐る恐る、オレは聞いてみた。

「あのさ……。その、そういうの、してもらうのって、やっぱ、彼女……とか、女の子いないと、してもらわないもの?」
「そりゃそうだろ、フツーは。オンナいなかったら、右手が恋人っしょ」
「だよねー。じゃなかったら、誰にしてもらうんだっていうの」
「そっか、そういう……もん、だよな……」
「んだよ、何おちこんでんだよ、綾瀬! 心配しなくても、いつか自分の右手じゃない、本物の恋人が出来るって!」
「まあ、お前には無理だろうけどな」
「何をー!?」

 そうやって、また再び、くだらない話題へと移っていく。
 だがもう、オレは友人たちの話なんか聞いちゃいなかった。
 だって、そうだろ……!
 女の子がいなかったら、フツー、しない。
 口をそろえて、友人たちはそう言った。
 至極当たり前のように。
 ってことは……ことはだよ!?
 オレはずっと、兄貴に騙されてたってことなんだよ……!
 兄貴の『だいじょうぶだよ』って、言葉に……!!


 時は、3年前にさかのぼる。
 中学に上がって、少し経ったころ。
 日曜の早朝に、オレはこっそりと風呂場で、自分のパンツを洗っていた。
 汚れていたからだ。
 もちろんそれは、おねしょ、とかそんなわけはなくて………。

「へえ……。ガキだガキだと思ってたら、お前もそう言う年なんだな……」
「あ、兄貴!?」

 振り返ったら、風呂場のドアに片手をつくようにして、兄貴が立っていた。
 しげしげと、こっちを覗き込んでいる。

「ひとみ……。なんで、お兄ちゃんって呼ばないんだよ」
「オレはもう、ガキじゃないんだよ!!」

 気まずい所を見られてしまって、オレは必要以上に噛みついた。

「い、いいから、あっちいけよ……!」
「ああ? お兄ちゃんに向かってお前はなんて口のききかたを。そんなわるい弟には、こうだっ!」

 近づいてきた兄貴は、オレのシャツに手をつっこむと、脇の下をさわさわとくすぐった。
 絶妙な力加減のそれは、いつもオレを悶死させる。

「ちょ、やだ、やめてよ、おにいちゃ……!!」

 最早、洗面器に入れたパンツを洗うどころではなかった。
 オレは風呂場の冷たいタイルに尻をついて、身体をふるわせた。
 いつもなら適当な場所で止めてくれるのに、その時の兄貴は違った。
 脇から手を伸ばして、胸まで触ってくる。

「えっ、や……あっ……!?」

 くすぐったい、だけとは違う感触に、オレは戸惑った。
 いつのまにか、兄貴はオレを胸に抱え込むようにして、一緒にタイルの上に座っていた。

「本当に……ガキだって、思ってたのになあ……?」

 耳もとで、息を吹き込むようにしゃべるのが、ますますくすぐったい。
 小さく身体をふるわせたオレを、兄貴はくすりと笑った。
 そして、胸をくすぐっていない方の手を、下へと伸ばした。
 短パンのゴムの下を通って、履き替えたばかりのパンツの下を通って……

「あ、兄貴!? どこ、触って……」

 驚いて振り向くと、いつもの澄ました顔の、兄貴がいた。
 オレを見て、兄貴はニヤリと笑った。

「知ってるか? こういうのは、人にやってもらう方が気持ちいいんだよ」
「で、でも……」

 恥ずかしいし、こんなことを他の誰かに、しかも兄貴にやってもらうなんて、おかしくないか……?
 だが、オレの考えを見透かしたように、兄貴は魔法の言葉をささやいた。

「だいじょうぶ。男同士だし、兄弟だろ。なんてことない。別になにも、恥ずかしいことなんかじゃない………」

 そっか、そうなんだ。
 オレは、身体から力を抜くと、安心して兄貴の背中にもたれかかった。
 兄貴がだいじょうぶって言うなら、きっと大丈夫なんだ。
 無条件で、オレは兄貴を信じた。
 そのくらい、オレにとって、兄貴の『だいじょうぶ』は絶対だったんだ―――。


「何が『だいじょうぶ』だよ、兄貴! 騙されたっ!!」

 その日家に帰ったオレは、すでに帰っていた兄貴の部屋に駆けこむと、叫んだ。
 ベッドに寝そべって、雑誌を読んでいた兄貴は、雑誌から顔を離さないままで尋ね返した。

「おかえり、ひとみ。何怒ってるんだ?」
「怒るも何も……! 兄貴のおかげで、あやうく大恥かくところだったんだぞ!!」

 ベッドに近寄って、雑誌を兄貴の顔からひっぺがす。
 怪訝そうな顔で、兄貴がオレを見る。

「だから、何の話だ」
「だ、だから……っ! あの、その、か、彼女でもいない限り、フツー誰かにしてもらったりなんかしないって! 右手が恋人だって……!!」
「ああ、そのこと」

 兄貴はベットから身を起こすと、兄貴はおかしそうにオレを見た。

「何、お前。言ったの? 兄貴に抜いてもらってますって」
「言ってないよ! 言いそうにはなったけど……」
「そうか。さすがにひとみも、そこまでお馬鹿さんじゃなかったか。お兄ちゃんは安心した」
「なんだよ、その言い草!!」

 怒りながら、兄貴の隣に腰かけた。
 オレが睨みつけても、兄貴はどこ吹く風だ。

「大体、なんであんな嘘ついたんだよ! 男同士なら、兄弟なら、なんてことないとか……」

 なんてことあるんじゃないか!
 ああもう、うっかりホントのこと口にしちゃう前でよかったよ……!
 怒りまくるオレを面白そうに見ていた兄貴は、オレの問いにあっさりと答えた。

「なんでって? 抱きたいから」

 ―――ここで、ようやく冒頭のシーンに戻るわけだ……。


「えっ、あ、あの、抱くって、誰を……!?」

 オレしかいない。
 わかりすぎるくらいわかっていたけど、オレは聞かずにはいられなかった。
 案の定、兄貴の口からは、

「おまえ。ひとみ」

 と、さっくり返ってくる。
 いやその、そんなこと真面目な顔して言われても、弟としてどう突っ込めばいいのか……って、これ、冗談だよな!?
 
「いや、冗談じゃないぞ」
「オレ、なんも言ってないけど……」
「言わなくても、ひとみはすぐ顔に出るからわかる」

 ううう……。
 確かにオレは、兄貴に隠しごとなんか出来たためしないけどっ!

「ってかお兄ちゃんは、今までお前が、何の疑問も持たずに大人しくお兄ちゃんに抜かせていたことの方がびっくりだ」
「な……っ! あ、兄貴が、だいじょうぶって言ったから! だから、オレは……っ!!」

 オレのせいか!
 オレのせいなのか!?
 それはいくらなんでも理不尽すぎるだろ……っ!?

「うんうん。お兄ちゃんは、ひとみが素直な子に育ってくれて嬉しいよ」
「別に兄貴に育てられたわけじゃないし。ってか、ごまかすなっ!」
「ごまかしたわけじゃないが……。まあ、いきなり襲うわけにもいかないだろ。だから、徐々に馴らしていこうかなと」
「何の話だよ!?」
「何って、セックス」
「セ……!」

 ちょっと待ってくれよ!
 なんでオレが、兄貴とセックスするの前提で話が進んでるワケ!?
 いや、おかしいだろ、それ!

「ほら、最初からそれだと、いくら素直でカワイイ俺の弟でも、さすがに変だって思うだろ」
「思うに決まってる……! それになんだよ、その、セ……っ」
「セックス?」
「わー! みなまで言うなっ!」
「あーもう、顔真っ赤にしちゃって。かわいいなー、ひとみは」

 何故か兄貴は嬉しそうな顔でオレを見ると、肩を抱き寄せた。
 そしてさらりと、とんでもないことを言った。

「ほんと、今すぐ食べちゃいたい」

 耳に、息を吹き込むみたいにして言われて、オレは背筋がぞくりとふるえた。

「なっ……! 何、ばかなこと言ってんだよ、兄貴! オレたち男同士! ってその前に、兄弟ーっ!!」
「それが?」

 何か問題でも、みたいに言われると、オレが間違ったことを言った気分になった。
 え、いや、オレ、間違ってないよな……?

「お前は俺の弟だけど、俺は昔からひとみが一番好きだし、可愛いし、抱きたいって思う」

 オレをいじめて、からかってるんじゃなくて、真面目に、真剣な声で言われる。
 なんかまるで、告白でもされてるみたいな……。
 するとやっぱり、オレの考えを読んだようなタイミングで、兄貴が突っ込む。

「告白してんだよ。返事は?」
「え、あの、その……」

 い、いきなりそんなこと言われても!
 なんかオレ、全然、頭がついていってないんですけど……!!
 そんなオレのパニックぶりもやっぱりお見通しのようで、兄貴は小さくため息をついた。
 しょうがないヤツ、って言うみたいに。
 そしてオレの額に、こつんと兄貴の額を合わせた。
 ちっちゃいころみたいに。

「じゃあ、考えてみろ。ひとみ……、お前、俺に触られて、イヤだったか? 右手が恋人の方がよかった?」
「……それは。イヤじゃなかったし……右手より、兄貴の方がいいけど……」

 自分でやる時もあるけど、兄貴にやってもらう時と比べたら、気持ちよさが全然違う。
 なんかもう、でろでろに溶けるみたいに気持ちいい。あれは自分じゃ、絶対に無理だ。

「……じゃあ、これは?」

 そう言って、兄貴はオレの耳を舐めた。

「……っ。ヤ、じゃない………」

 ぴくんと、身体がふるえる。
 肩に回された兄貴の手に、思わずすがりついてしまう。

「………、………これは?」

 耳から顔のラインをなぞるように舐められる。
 すごくくすぐったい。
 くすぐったいんだけど……。

「……………じゃ、ない……っ!」

 ぎゅっと目をつぶって、オレは声を殺して叫んでいた。
 イヤじゃない。全然、イヤじゃない。
 オレは兄貴に触られるのも、舐められるのもイヤじゃない、ちっとも!

「ほらな」

 目を開けると、満足そうな顔で笑う兄貴と、すぐ近くで目があった。

「お前だって、俺が好きなんだよ」

 肩を押されて、そのままベッドに押し倒される。
 そうなのか? これって、そういうことなのか……?
 すっかり混乱してしまい、オレは言葉も忘れて、ただ兄貴を見上げた。
 そんなオレに、兄貴はふわっと笑いかけた。
 見たことないくらい、優しい目をして。

「だいじょうぶ。俺が俺のかわいい弟に、ひとみに、ひどいことするわけないだろう?」


 ―――そう言って、兄貴はそのあとたっぷり、オレに『ひどいこと』をした。
 オレはもう、二度と、兄貴の『だいじょうぶ』って言葉は信じない。
 絶対に………!

「ひどくないだろう、俺は。現にひとみだって……」
「あー、わーっ! も、もうオレは、兄貴の言うことは信じないって、決めたのっ!」
「かわいくない弟だなあ……また真っ赤になっちゃって。でもまあ、そこがかわいいんだけど」

 思いっきり矛盾したことを兄貴は言うと、オレを抱きしめて頬ずりした。
 くすぐったくて、苦しい。
 なのにやっぱり、イヤじゃないから、つき離せない。
 むしろもっと、くっついていたいような気もする。

「兄貴………、お兄ちゃん」
「どうした、ひとみ?」

 なんとなく昔のように呼んでみたら、やわらかく、あまく、オレの名前が返ってくる。
 それは、弟として呼ばれたと言うよりは……。

「な、なんでもない……っ」

 ただでさえ熱い顔がますます熱くなって、オレは兄貴の首筋に顔をうずめた。
 兄貴からは、オレと同じ、シャンプーの匂いがした。


Fin.


TOP

※カットした部分(R18)をピクシブにUPしてます。
Copyright(c) 2012 all rights reserved.