「お邪魔しまーす……」
部屋が無人なのはわかっていたけど、何となくノックをしてからドアを開いた。
すっかりなじんだ、部屋の主の匂いが鼻をくすぐった。
別に悪いことをしているわけじゃないのに、何故かちょっと気まり悪い思いで、僕は無人の室内に入った。
さっさと、用事を済ませてしまおう。
机に封筒を置いたら、はずみで何かが、ひらりと落ちた。
(なんだろう?)
しゃがんで、拾い上げた。
その瞬間。
「ただいまー! コーちゃん、今、帰ったよ!」
玄関から、いつも陽気な兄の声が響いてきた。
やば。
もう、帰って来たんだ。
慌てて部屋から出て、玄関に向かおうとしたけど、拾った何かをまだ持ったままだったことに気付いた。
戻しておかなきゃと、手にしたそれに目をやった。
やや古くなってて、端っこが黄ばんでいる、一枚の紙切れ。
拾った時は裏返しだったそれを、表に返す。
「これって………」
呟いて、僕はかあっと顔が熱くなった。
なんでこんなものが、まだ残ってるんだよ!?
「コーちゃん? いないの?」
僕が固まっている内に、声の主はとっくにウチの中に入ってきていた。
紙を手に突っ立っている僕を見て、首をかしげた。
「どうしたの、コーちゃん。俺の部屋で」
「兄さん………」
僕はくるりと振り返って、部屋の入口にたたずむ兄を見た。
「なんでこんなの、まだ持ってんの!?」
ずい、っと紙を突きだすと、兄は嬉しそうにぱあっと顔を輝かせた。
そして嬉々として、喋り出した。
「ああ、それ! ずーっと失くしてたと思ってたんだけど、ついに昨日見つけたんだよ! 大事にしまっといたら、大事にし過ぎて仕舞い場所、忘れちゃってね」
「そんなの、ずっと忘れてくれていいから!!」
「えーっ。忘れるわけないだろう? これはコーちゃんに初めてもらった、ラブレターなんだから」
「ちがーうっっ!」
それは一枚の絵だった。
10年前、小学校に上がったばかりの頃に描いたもので、テーマは「だいすきなかぞくのえをかきましょう」というものだった。
季節は確か、5月だったと思う。昔ならたぶん「おかあさん」を描かせたんだろうけど、それぞれの家庭の事情を鑑みたのだろう。
それでも多くの子は、お母さんの絵を描いていた。
もちろん、お父さんを描く子も、兄弟を描く子もいたし、おばあちゃんや、飼ってる犬の絵を描いた子もいた。
僕はその時兄を描いた。母の再婚で出来たばかりの、「おにいちゃん」の絵を。
僕はかつての自分が描いた絵を、目を眇めて見た。
当時高校生だった兄を、クレヨンで大きく描いている。
それはいいんだ。
あのころの僕は、新しくできた兄弟が嬉しくて嬉しくて、ヒヨドリみたいに兄にべったりだった。
だって、しょうがないだろう?
再婚しても変わらず仕事を続けていて忙しかった母より、幼かった僕の相手をしてくれた兄に、僕が懐くのは自然な事だ……と思う。
でも、だからって、なあ……。
「違わないって。だってほら、ここに書いてるよ? おにいちゃん、だいすき! って」
あああああ……!!
なんで7歳の僕は、こんな余計な事を書いてしまったんだろう。
そして返ってきた来た絵を、何故よりによって、兄本人に渡してしまったんだろう……。
「それは絵のテーマが、『大好きな家族』だったから! 言っとくけど、ホントは母さんと父さんも描こうと思ってたんだよ! でも最初に兄さんを描いたら、スペースが無くなっちゃって……」
「うんうん。真っ先に、真ん中に大きく描くくらい、コーちゃんは、俺が大好きなんだよね」
「だからっ! それは………っ」
僕は急いで反論しようとした。
だけど……。
「違うの?」
笑うのでもなくからかうのでもなく、穏やかに問われて、それ以上の言い訳が口の中で溶けた。
「…………違わない」
ずっと兄弟が欲しかった。
だから、母からお兄ちゃんが出来るのよと聞かされたその日から、眠れなくなるくらいすごく楽しみにしていた。
初めて会った時に、よろしくね、と優しく笑いかけてくれた兄の顔を、今でもよく覚えている。
頭を撫でてくれた手のひらの温かさも。僕はすぐに兄を好きになった。
そして5年前の交通事故で母と新しい父を一度に亡くしてしまった時から、兄は僕のたったひとりの家族になった。
僕が両親を亡くした悲しみから立ち直れたのも、兄がいてくれたからだと思う。
もし兄がいなかったら、と思うとぞっとする。
そう言うと兄は、『俺もそうだよ。コーちゃんがいてくれたから、頑張ろうって思えたんだ』と答えてくれて、泣きそうになった。
兄は大切な、僕の家族だ。10年前も今も、ずっと、変わらずに。
それは違わない。だけど―――。
「違わないけど、こんなの後生大事に取っておかれたら、すっごい居たたまれないだろ! 恥ずかしいからもう処分して!!」
「イヤだよ。初めて、コーちゃんにもらったプレゼントなのに」
捨てられると思ったのか、兄は僕の手から絵を取り戻すと、胸に抱え込む。
「スーツに、クレヨンがつくよ?」
「スーツより、この絵の方が大事だからいいんだ」
会社から帰ったばかりの兄は、まだスーツを脱いでいない。
クレヨンの油って、どうやって取るんだっけ……。
「あーもう、わかったよ……。処分してなんて言わないから」
「ほんとに?」
「ほんとに」
頷くと、兄はようやくほっとして、絵を胸から離した。
クレヨンは……うん、ついて、ないみたい。よかった。
「って、それで、兄さん。その絵、どうするつもり……」
「ん?」
壁に近づいて、絵を広げ出した兄さんに、僕はイヤな予感を覚えながら尋ねた。
その壁には、たくさんの家族の写真が貼られている。
そこには、生前の両親の笑顔も写っていた。
「もちろん、ここに貼るつもりだけど?」
「やっぱりー! って、やめろよ! 恥ずかしいって言ってるだろ!?」
「ええー……」
「ええー、じゃないよっ! ったく!!」
僕は腕をつかんで、必死で兄を壁から引きはがした。
「あのさあ、ラ、ラブレターって言うならっ! 人目につくようなとこに貼るのはどうかと思うんだけど!?」
「人目って。俺と、コーちゃんしか見ないだろ?」
「それはっ! 誰か来たら、困るし……っ!」
「誰も来ないよ。誰も、呼ばない。だってここは、俺とコーちゃんの大事な家だから」
ね? と、耳元でささやかれて、背中がぞくりとする。
「だから……っ。そういうハズイこと言わないっ!!」
顔が赤いのが自分でもわかる。
兄はまったく気にした風もなく、僕の腰に手をまわして尋ねた。
「ところで、何で俺の部屋にいたの? コーちゃん」
「それは……。こないだ撮った、写真。プリントアウトしたから、渡しておこうと思って……」
僕は趣味って胸を張って言えるほどには熱心ではないんだけど、カメラが結構好きで。
それを知ってる兄が、休みの日にあちこちに連れて行ってくれるのだ。
こないだも、兄とここから車で2時間くらいの場所にある海まで写真を撮りに行った。
風景を撮る方が好きだけど、ふたりで行くのだから、お互いで撮りあったり、セルフにして一緒に撮ったりもする。
そういう写真は兄の分もプリントして渡すようにしているから、封筒に入れた写真を置きにきたのだ。
「あの……勝手に部屋に入って、怒ってる?」
「まさか。いつでも自分の部屋みたいに使ってくれていいよ。むしろこの部屋、コーちゃんと共有にしてもイイんだけど」
「それは謹んでお断りします」
「つれないなあ、コーちゃんは。写真だって、俺に直接手渡してくれたらいいのに」
「思い出した時に、って思ったんだよ。兄さんが帰ってきたら、それどころじゃなくなっちゃうだろ。ご飯の用意とかお風呂とか……」
「愛し合ったりとか?」
さらりと付けたされて、絶句した。
腰に回っていた兄の手が、いつの間にかシャツの下に忍びこんでいる。
僕はそれをぺちりと叩いて、振り払った。
「ごはんとお風呂っ! 夕食が朝食になって、朝にシャワー浴びたりとか、僕、もうゴメンだからっ!!」
急いで廊下まで逃げて、ドアの隙間から兄をにらむ。
顔がくらくらしそうなくらいに、熱い。
兄は机の上にそっと絵を置くと、初めて会った時から変わらない優しい笑顔を僕に向けた。
その顔が実は結構クセモノなんだってこと、もう知ってるけど。
「わかった。ごはんとお風呂、が先だね」
僕はあの頃より、もっと兄が好きで―――それがたまに、ちょっとだけ悔しい。
Fin.
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