075: 一枚の絵



「お邪魔しまーす……」

 部屋が無人なのはわかっていたけど、何となくノックをしてからドアを開いた。
 すっかりなじんだ、部屋の主の匂いが鼻をくすぐった。
 別に悪いことをしているわけじゃないのに、何故かちょっと気まり悪い思いで、僕は無人の室内に入った。
 さっさと、用事を済ませてしまおう。
 机に封筒を置いたら、はずみで何かが、ひらりと落ちた。

(なんだろう?)

 しゃがんで、拾い上げた。
 その瞬間。

「ただいまー! コーちゃん、今、帰ったよ!」

 玄関から、いつも陽気な兄の声が響いてきた。
 やば。
 もう、帰って来たんだ。
 慌てて部屋から出て、玄関に向かおうとしたけど、拾った何かをまだ持ったままだったことに気付いた。
 戻しておかなきゃと、手にしたそれに目をやった。
 やや古くなってて、端っこが黄ばんでいる、一枚の紙切れ。
 拾った時は裏返しだったそれを、表に返す。

「これって………」

 呟いて、僕はかあっと顔が熱くなった。
 なんでこんなものが、まだ残ってるんだよ!?

「コーちゃん? いないの?」

 僕が固まっている内に、声の主はとっくにウチの中に入ってきていた。
 紙を手に突っ立っている僕を見て、首をかしげた。

「どうしたの、コーちゃん。俺の部屋で」
「兄さん………」

 僕はくるりと振り返って、部屋の入口にたたずむ兄を見た。

「なんでこんなの、まだ持ってんの!?」

 ずい、っと紙を突きだすと、兄は嬉しそうにぱあっと顔を輝かせた。
 そして嬉々として、喋り出した。

「ああ、それ! ずーっと失くしてたと思ってたんだけど、ついに昨日見つけたんだよ! 大事にしまっといたら、大事にし過ぎて仕舞い場所、忘れちゃってね」
「そんなの、ずっと忘れてくれていいから!!」
「えーっ。忘れるわけないだろう? これはコーちゃんに初めてもらった、ラブレターなんだから」
「ちがーうっっ!」

 それは一枚の絵だった。
 10年前、小学校に上がったばかりの頃に描いたもので、テーマは「だいすきなかぞくのえをかきましょう」というものだった。
 季節は確か、5月だったと思う。昔ならたぶん「おかあさん」を描かせたんだろうけど、それぞれの家庭の事情を鑑みたのだろう。
 それでも多くの子は、お母さんの絵を描いていた。
 もちろん、お父さんを描く子も、兄弟を描く子もいたし、おばあちゃんや、飼ってる犬の絵を描いた子もいた。
 僕はその時兄を描いた。母の再婚で出来たばかりの、「おにいちゃん」の絵を。
 僕はかつての自分が描いた絵を、目を眇めて見た。
 当時高校生だった兄を、クレヨンで大きく描いている。
 それはいいんだ。
 あのころの僕は、新しくできた兄弟が嬉しくて嬉しくて、ヒヨドリみたいに兄にべったりだった。
 だって、しょうがないだろう?
 再婚しても変わらず仕事を続けていて忙しかった母より、幼かった僕の相手をしてくれた兄に、僕が懐くのは自然な事だ……と思う。
 でも、だからって、なあ……。

「違わないって。だってほら、ここに書いてるよ? おにいちゃん、だいすき! って」

 あああああ……!!
 なんで7歳の僕は、こんな余計な事を書いてしまったんだろう。
 そして返ってきた来た絵を、何故よりによって、兄本人に渡してしまったんだろう……。

「それは絵のテーマが、『大好きな家族』だったから! 言っとくけど、ホントは母さんと父さんも描こうと思ってたんだよ! でも最初に兄さんを描いたら、スペースが無くなっちゃって……」
「うんうん。真っ先に、真ん中に大きく描くくらい、コーちゃんは、俺が大好きなんだよね」
「だからっ! それは………っ」

 僕は急いで反論しようとした。
 だけど……。

「違うの?」

 笑うのでもなくからかうのでもなく、穏やかに問われて、それ以上の言い訳が口の中で溶けた。

「…………違わない」

 ずっと兄弟が欲しかった。
 だから、母からお兄ちゃんが出来るのよと聞かされたその日から、眠れなくなるくらいすごく楽しみにしていた。
 初めて会った時に、よろしくね、と優しく笑いかけてくれた兄の顔を、今でもよく覚えている。
 頭を撫でてくれた手のひらの温かさも。僕はすぐに兄を好きになった。
 そして5年前の交通事故で母と新しい父を一度に亡くしてしまった時から、兄は僕のたったひとりの家族になった。
 僕が両親を亡くした悲しみから立ち直れたのも、兄がいてくれたからだと思う。
 もし兄がいなかったら、と思うとぞっとする。
 そう言うと兄は、『俺もそうだよ。コーちゃんがいてくれたから、頑張ろうって思えたんだ』と答えてくれて、泣きそうになった。
 兄は大切な、僕の家族だ。10年前も今も、ずっと、変わらずに。
 それは違わない。だけど―――。

「違わないけど、こんなの後生大事に取っておかれたら、すっごい居たたまれないだろ! 恥ずかしいからもう処分して!!」
「イヤだよ。初めて、コーちゃんにもらったプレゼントなのに」

 捨てられると思ったのか、兄は僕の手から絵を取り戻すと、胸に抱え込む。

「スーツに、クレヨンがつくよ?」
「スーツより、この絵の方が大事だからいいんだ」

 会社から帰ったばかりの兄は、まだスーツを脱いでいない。
 クレヨンの油って、どうやって取るんだっけ……。

「あーもう、わかったよ……。処分してなんて言わないから」
「ほんとに?」
「ほんとに」

 頷くと、兄はようやくほっとして、絵を胸から離した。
 クレヨンは……うん、ついて、ないみたい。よかった。

「って、それで、兄さん。その絵、どうするつもり……」
「ん?」

 壁に近づいて、絵を広げ出した兄さんに、僕はイヤな予感を覚えながら尋ねた。
 その壁には、たくさんの家族の写真が貼られている。
 そこには、生前の両親の笑顔も写っていた。

「もちろん、ここに貼るつもりだけど?」
「やっぱりー! って、やめろよ! 恥ずかしいって言ってるだろ!?」
「ええー……」
「ええー、じゃないよっ! ったく!!」

 僕は腕をつかんで、必死で兄を壁から引きはがした。

「あのさあ、ラ、ラブレターって言うならっ! 人目につくようなとこに貼るのはどうかと思うんだけど!?」
「人目って。俺と、コーちゃんしか見ないだろ?」
「それはっ! 誰か来たら、困るし……っ!」
「誰も来ないよ。誰も、呼ばない。だってここは、俺とコーちゃんの大事な家だから」

 ね? と、耳元でささやかれて、背中がぞくりとする。

「だから……っ。そういうハズイこと言わないっ!!」

 顔が赤いのが自分でもわかる。
 兄はまったく気にした風もなく、僕の腰に手をまわして尋ねた。 

「ところで、何で俺の部屋にいたの? コーちゃん」
「それは……。こないだ撮った、写真。プリントアウトしたから、渡しておこうと思って……」

 僕は趣味って胸を張って言えるほどには熱心ではないんだけど、カメラが結構好きで。
 それを知ってる兄が、休みの日にあちこちに連れて行ってくれるのだ。
 こないだも、兄とここから車で2時間くらいの場所にある海まで写真を撮りに行った。
 風景を撮る方が好きだけど、ふたりで行くのだから、お互いで撮りあったり、セルフにして一緒に撮ったりもする。
 そういう写真は兄の分もプリントして渡すようにしているから、封筒に入れた写真を置きにきたのだ。

「あの……勝手に部屋に入って、怒ってる?」
「まさか。いつでも自分の部屋みたいに使ってくれていいよ。むしろこの部屋、コーちゃんと共有にしてもイイんだけど」
「それは謹んでお断りします」
「つれないなあ、コーちゃんは。写真だって、俺に直接手渡してくれたらいいのに」
「思い出した時に、って思ったんだよ。兄さんが帰ってきたら、それどころじゃなくなっちゃうだろ。ご飯の用意とかお風呂とか……」
「愛し合ったりとか?」

 さらりと付けたされて、絶句した。
 腰に回っていた兄の手が、いつの間にかシャツの下に忍びこんでいる。
 僕はそれをぺちりと叩いて、振り払った。

「ごはんとお風呂っ! 夕食が朝食になって、朝にシャワー浴びたりとか、僕、もうゴメンだからっ!!」

 急いで廊下まで逃げて、ドアの隙間から兄をにらむ。
 顔がくらくらしそうなくらいに、熱い。
 兄は机の上にそっと絵を置くと、初めて会った時から変わらない優しい笑顔を僕に向けた。
 その顔が実は結構クセモノなんだってこと、もう知ってるけど。

「わかった。ごはんとお風呂、が先だね」 

 僕はあの頃より、もっと兄が好きで―――それがたまに、ちょっとだけ悔しい。


Fin.


TOP


Copyright(c) 2011 all rights reserved.