「……殺さないのか?」
眠っているとばかり思っていた王子は、目を開くと、尋ねました。
王子の喉元に突きつけられていた銀のナイフは、カランと音を立てて、力なく床の上へと落ちていきました。
自分の命がなくなるとわかっていても、どうしても、どうしても、王子を殺すことができませんでした。
なぜならその青年――人魚だった、彼は、王子を愛していたからです。
人魚というものは、たいてい、歌うことが大好きですが、その人魚は特に歌が好きで、得意でした。
入江の奥、波間に浮かぶ岩に腰かけて、彼が歌うと、魚たちがよってきます。
海鳥たちも、魚を追う事を思わず忘れて、人魚の座る岩に羽を休めて、耳を傾けるのでした。
ある日、その人魚がいつものように、お気に入りの岩で歌を歌っていた時のことです。
波が荒れて、一艘の小船が、人魚のすぐそばで、ひっくり返りました。
人魚はすぐに歌うのを止めて、海に投げ出された人を助けました。
岸に送り届けると、その人間は咳き込んで水を吐きだし、目を開けて人魚を見つめると、にっこりと笑いました。
それはそれは魅力的な、美しい笑顔でした。
人魚はもっと、その笑顔を見ていたい、と思いましたが、向こうからたくさんの人がやってくる気配がしたので、慌てて海に戻りました。
「あ、待って……!」
後ろで、助けた人間の声がしました。
遠くまで泳いで、人魚が振り返ると、たくさんの人が、溺れた人間を取り囲んでいました。
耳を澄ますと、その人間は、王子、と呼ばれているのが聞こえました。
そう、人魚が助けた彼は、この国の3人いる内の、末の王子だったのです。
人魚は、もう一度、彼に会いたいと思いました。
彼の笑顔を、もう一度、見たいと。
その事を思うと、大好きな歌を歌おうと言う気にもなりません。
人魚は、思い切って、海の魔女の元を訪れました。
彼に会うために、人間にしてもらおうと思ったのです。
人魚は、末の王子に、恋をしてしまったのでした。
「人間になるためには、お前のその美しい声と引き換えだよ。構わないのかい?」
「彼に会えるのだったら、構わない」
「もし王子が、お前以外の、他の誰かと結ばれるような事になったら、お前は海の泡になって消えてしまうよ。それでも?」
「それでも、いい。もう一度だけ、彼に会いたいんだ」
人魚の決意は固く、魔女はため息をつくと、薬を渡しました。
美しい声と引き換えに、薬を手にした人魚は、岸に泳ぎ着くと、薬を飲みました。
人魚の尾びれは、すらりとした2本の足へと変化しました。
彼は、その足で、お城へと向かいました。
声を出せないその青年を、お城の人は、初めは追い出そうとしました。
城の人では、十分に足りていたからです。
ですが、そこへ、末の王子がやってきました。
彼が声を出せない事を知ると、王子は気の毒がって、自分が雇おう、と言いました。
人魚だった青年は、末の王子付きの従僕になりました。
声が出せない代わりに、彼は一生懸命働きました。
王子の癖も、好みも、誰よりも把握して、王子がちょっと目を動かしただけで、何を望んでいるのかがわかるほどにさえなりました。
王子は、どこへ行くのにも、彼を連れていきました。
王子が優しく微笑みかけてくれるだけで、彼は十分に満足でした。
……だけどそれは、長くは続かなかったのです。
彼はある日、お城の召使たちが、まことしやかに話している噂を耳にしました。
末の王子が、城持ちの跡取り姫と、婚約するらしい、と。
彼は、真っ青になりました。
魔女は、尾びれを2本の足へと変化させる薬をくれた時、こう言いました。
王子が、他の誰かと結ばれるような事になったら、海の泡になって消えてしまう、と……。
彼は、一度は、それでもいい、と思いました。
もう一度会いたい、会ってあの笑顔を見たい、その願いは、叶ったのですから。
しかし、王子の婚約の噂は、風に乗って、海にまで届いていたのです。
彼の姉たちが、それを知って、髪と引き換えに、海の魔女から銀のナイフを手に入れました。
このナイフで、王子を殺し、その血を浴びると、人魚の姿に戻ることができる。
そう言って、姉たちは、弟にナイフを渡しました。
姉たちの涙を見て、彼は、海の泡になって消えてしまう事は出来ない、と思いました。
そして、ナイフを手に、眠る王子の元へ、向かいました――――。
床の上に落ちたナイフを、再び手にすることは、彼にはできませんでした。
彼は、真珠のような涙を一粒こぼすと、しゃがみこんでしまいました。
もう、このまま、海の泡になって消えてしまいたい。
そう、心の底から、願いました……。
「お前になら、殺されてもよかったんだよ」
顔をあげると、こんな時なのに、王子は笑っていました。
そして、ベッドから起き上がると、ナイフを拾って、彼のそばに跪きました。
ナイフの刃を持って、柄を彼の方へと差し出します。
「返すよ。ほら……」
人魚だった青年、今は末の王子の従僕は、首を振って拒みました。
末の王子は、困った顔をして、ナイフを床に置きました。
「泣いていては、わからないよ。困ったあなあ……。お前の、口がきけるといいのに。残念だ」
王子は、従僕の青年の顔に優しく触れると、そっと上向かせました。
唇を、白い指でなぞります。
「あんなに綺麗な声で歌っていたのに。どうして、声を失くしてしまったんだい?」
王子の問いかけに、青年は、出せない声をあげそうになりました。
どうして?
どうして、王子は、彼が歌が得意な事を、知っているのでしょう?
「お前が歌うと、鳥も羽を休めて耳を澄ませていたね。あの時私は、もっと近くで、お前の歌を聞きたくて、船を出したんだ。波が高くて、舟がひっくりかえってしまったけどね……」
王子は、最初から、知っていたのです。
彼が、人魚だった事を。
「もう一度、お前の歌が、聞きたいよ……」
王子は、驚いて泣く事も忘れて驚いている、人魚だった青年に、顔を寄せると、口づけました。
「あ……」
王子から口づけられて、ますます驚いた青年は、思わず、声をあげました。
それは、久しぶりに彼の口から出る、彼の声でした。
王子の口付けで、彼の声が、戻ったのです。
「王子は、ご存じだったのですか?」
その声は、細くかすれた、頼りないものでしたが、近くにいた王子の耳には、ちゃんと届きました。
「お前が、人魚だったってこと? もちろん。私は、鳥や魚たちをのぞけば、いや、彼らを入れたなかでも、一番の、お前の歌のファンなのだから。お前が、入江の奥の、岩に座って歌う姿を、よく、こっそりと眺めに行っていたんだ」
「そう……だったんですか。気付きませんでした……」
恥ずかしそうに、彼が肩をすくめると、王子はにっこりと笑って言いました。
「声が出せるようになったのなら、歌ってくれないか。いつか、私のためだけに、歌って欲しいと、ずっと思っていたんだ……」
人魚だった青年は、王子に微笑み返すと、歌い始めました。
深い、海の歌を。魚の歌を。
王子は、目を閉じて、聞き入りました。
目の前には、見た事もない、青く深い海が広がっています。
尾びれの美しい魚が、優雅な姿で泳いでいるのが見えます。
……いいえ、あれは、魚ではありません。
人魚です。
王子の元へやってきた、美しい歌声を持つ、彼だけの人魚でした。
末の王子は、城持ちの跡取り姫と婚約を交わすことはありませんでした。
それは、2番目の王子に来た縁談だったのです。
末の王子は、2番目の王子の結婚を祝ったあと、お城から自分の受け継いだ小さな領地へと引っ越しました。
どこへ行くにも一緒だった、お気に入りの従僕だけを連れて。
海から遠く離れた、森の中の領地には、海はありませんでしたが、湖がありました。
その湖からは、時々、美しい歌声が響いてきました。
村人たちは、領主さまは、湖に美しい人魚を棲まわせている、と噂しました。
Fin.
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