086: いつか見た



「ゆーり! 優里だよな? うわあ、久しぶり! 俺のこと、覚えてる? 俺、」
「人違いじゃないですか。すみません、僕、急ぐので」

 走ってきた彼に声をかけられて、心臓が止まりそうになった。
 彼だ。
 ひと目でわかった。

「それじゃ……」
「え、ちょ、待って!」

 だけど僕は知らないふりをして、足早にその場を後にした。
 彼は追いかけたそうなそぶりを見せたけど、彼の友人らしき数人が呼んでいたので、諦めて立ち去った。
 電車に乗っても、まだ僕はドキドキしていた。
 ほどよく着崩したチャコールグレイのブレザーが、幼い頃の面影をわずかに残しながらも凛々しく成長していた彼に、すごく似合ってた。
 正直、ちょっと見惚れた。カッコ良くて。
 あれはたぶん、Y高の制服だ。
 僕も受験しようと思ってた学校だ。推薦で今のところに決めたから、結局しなかったけど。
 そうか、同じ学校だったら、もっと早く再会してたんだ……。
 惜しいことをしたような、ほっとしたような、そんな複雑な気持ちになった。
 僕は彼に会いたくて………会いたくなかったから。


「ゆーり! サッカーしようぜ、サッカー!」
「いいよ、ぼくは……。上手くないし」
「そんなんダレも気にしないって! よこづな級の野中だって参加するんだぜ?」
「おいこら、光成、きこえてっぞ!」
「えー、ホントのことじゃん」
「はりたおすぞ、てめー!」
「ほらほら、行こう、ゆーり。昼休み終わっちゃうって」
「う、うん」

 親の仕事の都合で転校を繰り返していた僕は、元が引っ込み思案なこともあって学校ではひとりでいることの方が多かった。
 小学5年生の時に転入してきたそのクラスでも、やっぱり僕はひとりだった。
 最初は親切に話しかけてくれるクラスメイトも、僕がいつまでも黙ったままで、ちゃんとした反応を返せないでいると、次第に関わってこなくなる。
 だけど別に、無視されたりはしない。
 班決めなんかでは一応入れてもらえるし、連絡を回してもらえないなんてこともない。
 学校生活をふつうに送る分には、特に支障はない。
 いじめられてるわけじゃないから、それで十分じゃないか。そんな風に思っていた。
 なのに、本迫光成だけは何故か僕によく話しかけ、誘いかけてくれた。
 友達の多い彼は、きっとひとりでぽつんとしている僕が気になったのだろう。
 正義感なのか同情なのかは知らないけれど、相変わらず反応の鈍い僕に焦れるでも怒るでもなく、何度となく声をかけてきた。
 それでいてしつこすぎると言うこともなく、僕がどうしても嫌だと言えば無理強いしない。
 また今度な、と手を振って駆けていく。
 それで本当に、次にまた誘ってくるのだ。
 自分から彼に声をかけることは、転校するその日まで結局出来なかったけど、彼に名前を呼ばれるのが好きだった。
 6年の2学期で転校することになった時、泣きながら――まさか、泣かれるとは思わなかった――また会おうな、と言われた時は、素直にそうだね、また、と答えられた。
 引っ越してからは何通も手紙が届いた。
 筆不精な僕は、あまり返事をしなかったけど。
 いや、違う。いつか返事がこなくなるのが怖くて、書けなかったのだ。
 お手紙するね、と言われ、やがて来なくなる……そんなことを今まで何度も繰り返してきたから。
 もういなくなってしまったクラスメイトより、今、そばにいる友だちの方が大事なのは当たり前で。
 だから寂しくは思っても、しょうがないと思ってきた。
 本迫君には、友達が多い。だからきっと、この手紙もいつか届かなくなる。
 それは当たり前のことなんだけど、でも僕は、いつものように、しょうがないと思えないかもしれない。
 彼を、恨んでしまうかもしれない。そんな風に思うことが、怖かった。
 中学になってからも、彼の手紙は届いた。
 だけどそれからまた、短期間に2度引越した。
 転居先を本迫君には知らせなかったので、手紙はやがて届かなくなった。
 これでいいんだ、と僕は思った。
 砂埃と、サッカーボール。
 音楽室から聞こえてきた、トロイメライのメロディ。 
 ゆーり、と僕の名を呼ぶ彼の声が、笑顔が。
 いつか見た、校庭の上に眩しく広がっていた青空と共に、焼きついている。
 そんな思い出だけで、僕はじゅうぶんだった。


 ―――じゅうぶんだった、はずなのに。
 翌日、校門の前に立つ本迫君の姿を見て、僕は目を疑った。

「ゆーり! よかったあ、ダッシュで来たんだけど、帰ってなくて!」

 朝と違って、部活や委員会があるので生徒の帰宅時間はバラバラだ。
 それでも、校門に明らかに他校の制服を着た男が立っていると、目立つ。
 昨日のように知らないふりをして通り過ぎたかったけど、見越されたのか、腕をつかまれてしまった。
 ここで揉めていたら、ケンカでもしていると思われて、教師を呼ばれてしまうかもしれない。
 それは出来れば避けたい。

「とりあえず、どっか寄ろうか」

 彼は昔と変わらない、人懐っこい笑みを僕に向けた。
 僕は腕を引かれたまま、戸惑いながら彼について行った。
 しばらくして、僕らは学校からさほど離れていないファストフード店に向かい合って座っていた。

「ユーリ、コーヒーしか飲まないの? 俺のポテト、食う?」
「いい、いらない。それより……」

 何しに来たんだ、と言う問いは、ガサガサとハンバーガーの包みを開ける音にかき消された。
 彼は大きく口を開けて、ハンバーガーを頬張った。
 僕は小さくため息をついて、コーヒーにストローをさして、一口すすった。

「昨日は、なんであんなに、逃げるように立ち去ったの? ゆーり」

 俺、ショックだったよ! と彼は口をとがらせた。
 人違いじゃないですか、と言った僕の言葉は聞こえていなかったのだろうか。
 僕は下を向いて、もぞもぞと答えた。

「それは……。君は、知らない人だから」
「嘘。それ、嘘だよね」
「嘘なんかじゃ……」

 きっぱりと否定されて、僕は焦った。
 小学生のころに比べれば、背が伸びた分、顔立ちも多少子供っぽさが抜けたし、あの時かけていなかった眼鏡もかけている。
 5年近くも会っていないのだ。
 元々大人びた顔つきだった本迫君はともかく、僕はぱっと見て、一時同じクラスにいたヤツだとわかるわけないのだ。

「ゆーりってさ……」

 あっという間にハンバーガーを食べ終えた彼は、包み紙をくしゃくしゃと丸めてトレイの片隅に寄せると、言った。

「人見知りじゃん。あんな風に、まっすぐ目を見て、急に話しかけられた知らない人に返事できないでしょ。つか、俺がホントに知らないヤツだったら、ここまで付いてこないよね? ……それとも、会わないでいた間に、変わった?」
「…………」

 変わってない。
 今も、初対面の人とは上手く話せない。
 胸元どころか、爪先を見るくらい顔をうつむけてしゃべるのがせいぜいだ。
 これでも、小学生の頃よりはずいぶんマシになってきたのだけど………。

「それにさ」

 ポテトを摘まんで、彼は指先についた塩をぺろりと舐めた。
 その口元に、思わず目が引き寄せられた。
 目線をあげると、記憶よりも大人になった顔が、僕を見ている。

「間違うわけないじゃん。初恋だったんだから」

 テーブルの上に置いていた僕の手に、彼の指が伸びる。
 人差し指で、手の甲をすっと撫でられる。

「………聞いてる?」

 その声に、僕はハッとした。
 慌てて、コーヒーを飲んだ。
 ちゃんと、聞いてた。
 ふたりがけのテーブル席に、向かい合って座っているんだから、ちゃんと聞こえた。
 だけど上手く頭の中で意味が繋がらない。

「昨日は、マジ、心臓止まりそうなくらいびっくりした。今も夢に見るくらい好きな子がさあ、目の前にいるんだもん。立ったまま寝てんじゃないかって、思った」

 手が。
 僕の手を上から握っている彼の手が、熱い。
 僕よりも大きなその手を、信じられないような思いで見る。

「こうなったら夢でもいいやって思って話かけたら、俺を見て、ちゃんと声返ってきたし。すぐ逃げられたけど。あ、これ夢じゃないやって。夢なら、もっと俺に都合いいはずだもんね。だからソッコーでD高のヤツにメールして。覚えてる? 野中。あの横綱級の。あいつもD高なんだぜ。今、見違えるくらいに痩せてるけどな。アイツに頼んで、2年に優里がいないか調べてもらった」

 ああ、体格の割にはすばしっこくて僕よりずっとサッカーが上手かった、あの野中君。
 野中君も、僕と同じ学校だったのか……。
 1学年10クラスあるから、昔のクラスメイトが同じ学年でも一緒のクラスにならない限り、気づかないことの方が多いだろう。
 僕は目立たない方だし、部活にも入ってないし。

「高村優里。同い年で、同じ名前で。全然別人ってことはないよな。特徴も合致したし」
「特徴って……」

 そんな特定出来るほどの特徴が、僕にあるのだろうか。
 そう思って尋ねると、本迫君は軽く目を見張った。

「知ってたけど、ゆーりって自分をわかってないよな。ふわふわの猫っ毛に、くりっとした可愛い目してるのに」
「これはただのくせ毛だし。目は……フツーだと思う、けど………」

 多少目が大きいのは認める。母さん譲りだから。
 ついでに言うと、癖っ毛も。
 短くするとより強く癖が出ちゃうから、小さい頃は今よりもっと長くしてた。
 なので、たまに女の子に間違われたりもしたけど、今はそんなことはない。
 その代わり、朝、髪をセットするのは一苦労だけど。

「とにかく、昔と全然……いや、昔より可愛くなってるし。何より俺がゆーりを見間違うわけないし」

 男に可愛いって……とは思ったけど、あまりにきっぱり断言されると何となく反論しがたい。
 自分が、彼のように男前ではないことは確かだし。

「ねえ……、俺のこと、忘れちゃった?」

 手をぎゅっと握られて、悲しそうに言われると、それ以上しらを切ることはできなかった。
 僕は観念して、口を開いた。

「………忘れてないよ」
「だったら、どうして?」
「それは………会いたくなかったから」
「えっ! 俺、ゆーりに嫌われてたの!?」

 青ざめてそう尋ねた彼に、僕は黙って首を振った。
 そうじゃない。
 嫌いじゃない。本迫君を、嫌いなわけない……。

「僕、会いに行ったこと、あるんだ。転校した後」
「え………?」

 唐突な僕の言葉に、彼は呆けたように問い返した。
 僕は苦笑して、視線を反らして、続けた。

「また会いたいねって言われて、手紙にもそう書いてあって……僕も、そう思って。だから、本当に会いに行ったんだ。転校した学校で運動会が平日にあって、振り替え休日になった次の日に、こっそり」

 ひとりで、電車に乗って。
 ついこないだまで通っていた小学校まで、歩いて。

「ちょうど、昼休みだったんだ。校庭で、楽しそうにサッカーしてる本迫君たちの姿が見えて。それで……」

 いつかみたいに、よく晴れた青空で、明るい歓声が響いて。
 僕がいなくても、本迫君はすごく楽しそうで。
 それは当り前で、それでいいんだけど、なんだか悲しくなって。
 ああ、もう僕の居場所はあそこにはないんだって、そう思った。
 声をかけても、何しに来たんだ、って言われるかもしれない。
 それとも、本当に来たんだ? とか。
 たとえ、よく来たな、って言われたとしても、僕はしょせん『以前、同じクラスだったヤツ』に過ぎないのだ。
 今の友達の前で、僕は、かつての友達として扱われるのだ。
 それはどうしようもないことなのだ。
 仕方ない。
 今までずっと、そうだったじゃないか。
 だんだん届かなくなる手紙と同じだ。
 だけど………

「イヤだって、思ったんだ。そんな風に、懐かしい友達、みたいに言われるくらいだったら……」

 いつか見た、あの青空と。
 僕を呼ぶ、君の声と、笑顔だけを刻みつけておこうと思った。
 そうしたら、僕は君を恨まずにいられる。
 そう思ったから……。

「どうして? どうしてそんな風に思ったの、ゆーり」

 彼は僕の勝手な言い分を聞いても、気を悪くするふうでもなく、尋ねた。
 顔をあげると、優しい目で、僕を見ていた。
 それに勇気づけられるように、僕はぽつぽつと答えた。

「僕は……、君とずっと、友達でいたかったんだ。転校して行った、元友達、じゃなくて。でも、無理だってわかってた。だから、知らないフリ、したんだ。ごめん…………」 
 
 こんな身勝手な理由で、声をかけてくれた本迫君にひどいことをしてしまった。
 自然と顔がうなだれてしまう。
 本迫君も、いい加減呆れているだろう……。
 なのに、おそるおそる顔をあげた時、彼は僕の予想に反して、嬉しそうな顔をしていた。

「それってさ。ゆーりは、俺のこと好きで、俺と離れたくなかったってことだよな」
「そう……なのかな」

 自信を持って言いきられたけど、よくわからない。
 離れたくなかった、ってのは間違ってないと思うけど……。

「そうだって! 絶対! なんだ両想いだったんじゃん俺たち! これから頑張って口説くつもりではいたけど、そっかー、ゆーりも俺のこと、好きだったんだ……」

 さっきから手を握られたままで、そんなことを言われると、どう反応していいのかますますわからなくなってくる。
 そう言えば、忘れてたけど、さっきも初恋がどうとか言ってたような……。
 あれって、本迫君の初恋が、僕ってことなのか?

「確かに、小学生に遠恋ができるって、ゆーりが信じられなかったのは無理ないけど。俺、手紙が戻ってくるようになった時、ゆーりんとこ行ったんだよ。でも、引越し先までわかんなくてさあ……」

 あんときはマジ泣いた、と言われて、僕は目を丸くした。
 それなら彼は、僕が転居先の住所さえ教えていたら、今でも手紙を出してくれたのだろうか。
 そう尋ねると、彼は何を馬鹿なことを、みたいな口調で答えた。

「んなの、当たり前じゃん。つか、海外にでも引っ越されてない限り、多少の距離ならバイト代使って会いに行くし」
「そっか。そうだったんだ……」

 勝手に悲観して、先回りして連絡を断って。
 そんなこと、する必要はこれっぽちもなかったんだ。
 もし今でも連絡を取り合っていたら、僕らはもっと早く再会できていたのだろう……。

「てかもう、これ運命だよな。何の約束もしてなかったのに、こうやって会えたんだから」

 本迫君は、興奮したように頬を紅潮させて言った。
 僕は笑って、首を振った。

「違うよ。運命なんかじゃない。君が、今も僕に会いたいって、思ってくれてたからだよ。だって……」

 僕は自分から、彼の手に指をからめた。

「君にひと目でも会えるかもと思って、ドイツに行く家族についてかないで、この街に戻ってきたんだから」

 日本に残って、日本の高校に行くって決めた時。
 僕は小学5年生の時に住んでいた、この街に戻って来たのだから。
 友達の多い彼が、新しい友達と親しくしてるとこなんか見たくない。
 僕の居場所なんかないんだって、再認識してしまうから。
 それでもやっぱり、僕はもう一度、君に会いたかったんだ。
 そして君は、僕を見つけてくれた。

「なんだ。それならこれは、必然だったんだな」

 そう言って彼はかすめるように素早く僕に触れて、笑った。
 再会のキスは、ちょっぴり塩辛かった。


Fin.


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