開けはなっていた窓の向こうから、金色の風が吹いた。
信じられない光景に思わず目を見張ったら、それは勢いよく吠えた。
「バウッ、ワウッ!!」
耳にとてもなじんだ、でももう、二度と聞けないと思っていた、声―――。
おひさま色の毛をきらめかせて、感情そのままのしっぽをふさふさと揺らして。
「驚いた?」
続いて庭から現れたのは、1週間ぶりに見る、ユスカだった。
日差しに透けそうな淡い金髪に、神秘的な緑色の目を持った、美しい友人。
驚きのあまり固まっていた僕の頭が、それを見てようやく動き始めた。
「ユスカ………」
「そっくりだろう? レオに」
しっぽを振りながら、1匹のゴールデン・レトリバーが僕の足に嬉しそうにまとわりつく。
その頭を撫でてやりながら、僕は何と答えればいいのか、考えていた。
「そうだね、でも、」
「生前のレオのデータは揃ってたから、本物と変わりないはずだ。だからほら、見た瞬間に、お前によくなついている。それが証拠だ。だが、何か不都合が生じたのなら、すぐに言ってくれ。俺が、すぐに不具合を……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ! ユスカ」
立て板に水のごとくしゃべりだしたユスカを、僕は慌てて遮った。
ユスカは、僕の声にぴたりと口を閉ざすと、不思議そうに僕を見た。
レオにそっくりな犬も、いつの間にか動きを止めて、僕を見上げている。
2匹の犬に、指示を待たれているような、そんな奇妙な気分に陥りながら、僕はどうやったら、ユスカの気持ちを傷つけずに話せるだろうか、と頭を巡らせた。
「ユスカの気持はありがたいけど、この子は、僕には要らないんだ」
「どうして? レオは、お前の大事な犬だっただろう?」
「……だから、だよ」
そう答えると、ユスカはますます不思議そうに、首をかしげた。
端整な顔が、戸惑うように揺れている。
彼はこの国で、いやこの世界で、誰よりも優秀な科学者なのだろうが、彼以外の多くの者が知っているであろう、人の感情については鈍いところがあった。
それを傲慢だと言う人もいたが、僕は彼の、そんなどこか子供っぽいところを、愛していた。
でも今はそれが、少しだけ疎ましい。
「どんなにそっくりでも、本物と見分けがつかないくらいでも、僕にとってのレオは……、先日亡くなった、あのレオだけなんだ。他の何かを、代わりにすることは、出来ないんだよ」
エメラルドのように硬質な、ユスカの瞳をまっすぐに見ながら、言葉を切ってゆっくりと、言い聞かせるように口にした。
黙って僕の言うことを聞いていたユスカは、まばたきをひとつしてから、言った。
「そう……なのか?」
「うん。そうなんだ。ごめん。だけど、君が、僕のことを考えてしてくれたんだってのは、ちゃんとわかってるよ。ありがとう」
それだけは誤解されたくなかったので、僕はしっかりと、伝えた。
ユスカはちょっと泣きそうに顔をゆがめてから、口の端をゆるめた。
「こっちこそ……ごめんな。余計なこと、した」
「ユスカは、謝らないでいいよ。ユスカに悪気がないことは分かってるし。それに、それだけ僕を……心配、してくれたんだろう?」
「……うん」
ユスカは、照れたように笑った。
その間、大人しく座っていた犬は、僕らの話が終わったと思ったのか、立ちあがって、わん! と元気に吠えた。
きっと、遊んでもらいたいんだろう。
そのよく似た仕草に、亡くなったレオを思い出して、僕はかすかに胸を痛めながら、床に転がったままだったボールを手に取って、投げてやった。
「それじゃ……、この犬は、連れ帰った方がいいか?」
「うん。ごめんね」
「いや、謝るのはこっちの方だから……」
ボールを口にくわえて、ぶんぶんしっぽを振っている犬を撫でてやりながら、すっかり萎れているユスカに、僕は微笑みかけた。
「言っただろう? 謝らなくていいって。君の気持は分かってるから」
そう言うと、ユスカは視線をレオニよく似た犬に向けながら、ぽつりと口を開いた。
「強いんだな、お前は。俺だったら……、代わりでもいいから、傍にいて欲しいって、思う」
俺には耐えられない――、言葉にされなかったユスカの心も、耳に響いた。
ユスカは人づきあいが苦手で、親しいと呼べる者が幼なじみの僕くらいしかいないのに、さびしがり屋だからな。
もっと友達を作ればいいのに、と言っても、ユスカがいるからいいんだ、って言って。
ユスカさえその気になれば、彼と親しくなりたいと思っている人は、きっとたくさんいるはずなのに。
僕としか、親しくしようとしないユスカ。
いけないと思いつつも嬉しくて、それ以上に心配だ。
だって、そうだろう?
人には、いつか別れが来る。
さびしがり屋のユスカのために、ずっと一緒にいてあげたいけど、先々は、そういうわけにはいかないだろう?
それとも、ユスカは。
僕がいなくなったら、レオの代わりを連れて来たように、僕の代わりを連れてくる―――作りだすのだろうか?
天才のユスカにとっては、それは造作もないことなのかもしれない。
けれど………。
「ユスカ。約束してくれる?」
「……何を」
「僕がこの先、いなくなっても。僕の代わりを作りだしたりしないで。レオみたいに」
ユスカは、一瞬、傷ついたように瞳を揺らした。
そして、僕から目を反らした。
「僕の代わりに、いや、代わりじゃなく、他の誰か、親しい友人を作って欲しい。決して、僕のレプリカを、作らないで」
うつむいたユスカの頬に、そっと手を伸ばした。
目を合わせると、緑色の目に、僕が映っていた。
「約束だよ、ユスカ」
「…………」
「ユスカ?」
もう一度名前を呼ぶと、ユスカは観念したように頷いた後、僕にキスをした。
約束のしるし、と言うように。
僕をぎゅっと抱きしめてから、ぱっと離れる。
「こいつは、ラボに連れて帰る。確か、欲しいって言ってたヤツがいたから、そいつに預ける」
「うん、そうして」
ユスカはレオに似た―――レオのレプリカ犬の首輪にリードをつけた。
彼らが入って来た時のまま、庭に向かって開かれた窓から、ユスカと犬は、外に出た。
「それじゃ、俺はこれで。また、来る」
「うん。今日は、ありがとう、ユスカ」
「いや……」
かすかに笑んだ彼に、同じように笑みを返しながら、僕はさっきの言葉を繰り返そうと、
「約束、わす れ な い、――――」
言葉は、不自然に途切れた。
俺は急いで、彼に駆け寄った。
微笑みを浮かべたまま、完全停止している。
俺が傍に近づいても、動く気配は全く見せない。
「そろそろ、本格的なメンテナンスが必要か……」
俺は彼の髪をかきあげて、耳の後ろを触った。
パチン、と小さな音がして、彼がくたりと俺の腕の中に倒れてくる。
「ああ……。大丈夫だよ。壊れたわけじゃないんだ」
金色の毛並みが美しい、彼が愛した犬――のレプリカが、心配そうに見上げていた。
俺は安心させるように、声をかけてやる。
ラボでメンテすれば、大丈夫だから、と。
そして、彼を両腕に抱え上げた。
大事な宝物見たいに、そうっと。
「………ごめんな」
聞こえていないのが分かっていて、俺は彼の瞼の閉ざされた顔を見つめて、言った。
はたから見れば、きっと彼は眠っているようにしか見えないだろう。
すぐに目を覚ましそうな、穏やかな寝顔にしか。
誰も彼を、動作を完全停止した――――とは、思わないはずだ。
――――本当にもう、仕方ないなあ……、ユスカは――――
遠くから、風に乗って、今はもう二度と耳にすることができない、懐かしい声が、聞こえた気がした。
Fin.
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