桜が咲こうが散ろうがどうでもいい。
と、常の彼ならばそう言うだろう。
だが、今回ばかりは、そうも言っていられないようだ。
「ちょっと、篤弘、落ち着いたら」
「な、何を言う、亨!俺は至って平静だ」
胸を張ってそう言い張っているが、どう見ても無理があるだろう。
急に休講になった暇をつぶすため、同じ講義を取っていた二人は、学生ホールで温かい飲み物をすすっていた。
今日の彼は、いつもの篤弘ではない。
歩けば段差に躓き、前期から変わらず同じ場所で行われているゼミの教室を間違え、甘党の癖にコーヒーをブラックで注文する。
そのくらいには、普段と違う。
「篤弘が緊張したって、どうしようもないだろう」
「だから俺は緊張などしていない!おかしなことを言うな!」
「……まあ、そういうことにしといてもいいけど」
俺には関係ないしね、と大学に入ってから篤弘と親しくなったサークル&ゼミ仲間の亨は、苦笑した。
さっきから、篤弘はケータイをガン見している。
そんな気になるんだったら、自分から掛けてみたら、とか言ったら、また、『俺は気にしてなどいない!』と言うのだろう。
妙なところで意地っ張りだ。
今日は、桜が咲くはずの日だ。
不幸があって、前線が降りてこないような事態がない限り。
去年は、自分たちもそれを経験してきた。
その結果が、今に繋がっている。
「合格、してるといいねえ、彼」
「な、何の話だ!」
「だって、今日なんでしょ。合格発表」
「……っ!」
だから、何故そこで驚いているんだか。
バレていないとでも思っていたのか、っていうか、別に秘密にするような事じゃないと思うのだが。
今更。
今日は、篤弘の教え子の、大学合格発表日である。
カテキョーとして、一年間付き合ってきた男子高生の。
「まあ、大丈夫なんじゃないの。みっちりしごいてやったんでしょ」
「当たり前だ!俺は、自給分の働きは、きっちり結果で返す!」
なら、そんなにそわそわしなくてもいいのに。
とは、口には出さないで置く。
責任感が強く、小さい身体に反して気が強い友人は、ここぞ、と言うときは、案外どっしり構えてはいられないタイプのようだ。
4月になってすぐ、篤弘が始めた家庭教師のアルバイトは、実入りはいいが、何かと最初は苦労が耐えないバイトだったらしい。
あまりグチを言うタイプではないのだが、酒にはあまり強くない彼は、サークルやゼミの飲み会で酔いが回ると、決まってバイト先の教え子のことをしゃべり倒した。
―――ったく、アイツは、モノを教わろうという心構えがなってない!そもそもだな……
大体、そんな感じで始まる彼の話は、出会い頭に中学生と間違われた恨みから始まり、隙あらばサボろうとする勉学姿勢への憤りに移り、成績アップ時に褒美を欲求する不届きさへの困惑を語り、最後はそんな教え子が案外可愛いのだという、のろけなのか何なのか分からない心情吐露で幕を閉じる。
―――っつうかさ、期末で××番台に入った褒美が、俺と水族館に行くことってナニ。わけわからん。
それって、篤弘のことが好きってだけなんじゃないの。
とは、チューハイくらって管を巻いている彼の周囲にいる人間すべてのほぼ総意だったが、酔っ払いにとっては思案のほからしい。
『お前、そんなんで、ひとつの部屋でふたりっきりって、大丈夫なの』
とは、心あるゼミ仲間の弁だが、返ってきた台詞は、
―――は?じゃあ何お前。勉強するのに親の監視が居るのか?
と、微妙に的を外した答えが返ってくる。
『わかってない……』
『わかってねぇな……』
『わかってないよ……』
と、周囲から呆れとも感嘆ともつかない言葉が返ってくるのにも、本人は気づいた風もない。
『まあ、あそこまで鈍だったら、無体も何も出来ないんじゃないの』
『そうそう、仮に襲ったって、それがどういう心境かきた行動なのかさっぱり気付いてもらえないだろうし』
『それに、今下手に、先生と教え子と言う関係が崩れるほうがヤバイし』
『バイト、辞められちゃったらそれまでだもんなあ』
そんなひそひそ話には気付かないまま、でも最近、アイツちゃんと勉強するようになってなあ……などと、しみじみ呟いてたりするので、当分はこれでいいんじゃないの、という結論に周囲は落ち着いた。
到底大学生には見えない童顔の持ち主で、山椒は小粒でも……のことわざにあるとおりに、小さいが気の強い篤弘は、そのさっぱりとした気性から、皆に好かれていた。
なので、もし万一、彼が傷つくようなことがあったら、とさり気なく気にに掛けているのは、亨だけではなかった。
面倒見がよく、人好きのする篤弘が、バイト先で教え子に好かれるのも、さもありなん、というものだ。
その好意が、どういった方向性のものなのかは、好意を寄せられている本人はちっともさっぱりわかっていないようだったが。
そして今日は、篤弘の4月からのバイトの成果が試される日だった。
てっきり、大学を休んで、掲示板を見に行くのかと思ったら、いつもどおり現れて、いつもどおりではない様子を晒している。
「なんか、こっちまで、落ち着かない気分になるんだけど……」
「だから俺は、落ち着いてなどいない!いや、落ち着いている!」
最早、何を言いたいのかもわからなくなってきたようだ。
どうでもいいから、早くかかってこい、電話。
と、思った、亨の思いが通じたのかどうかはわからないが、軽快な着メロが学生ホールに響いた。
「もっ、もしもし……!!」
かつてないくらいに、素早い動きで篤弘は電話を取った。
うん、うん、としきりと頷いている。
その様子を見ると、結果は聞かなくてもわかった。
「ああ、ほんと、よかったな。おめでとう。……いや、俺は別に。お前が、最後まで諦めずに頑張ったからだよ。よくやったな」
心なしか、目元にうっすらと涙が浮かんでいる。
合格の喜びは、もしかしたら去年の彼自身の時以上だったのかもしれない。
そんな篤弘を見ていると、自分までもが、見たことも無い彼の教え子の合格を祝いたい気分になってくる。
「うん、うん。わかってるよ。合格祝いだろ?何だって、きいてやる。ああでも、あんま金かかんないものにしてくれよ。ん?金は使わないって。じゃあ、大丈夫。何だってきいてやるよ。じゃあな。また後でな」
………。
微笑ましい気持ちで、先生と教え子の電話越しのやり取りを聞いていた亨は、最後に交わされていた会話に、生ぬるい表情を浮かべた。
「……んん?どした、亨。なんか変なもんでも食ったか?」
「いや……。お前、教え子くんに、合格祝いするの」
「ああ。まだ何なのかわかんねぇけど。合格したら、話があるって。そんで、聞いて欲しいことがあるんだって。何か俺にしか出来ない事だとかなんだか……わけわかんないけど。まあ、俺に出来る事だったらいいよって」
「ああ、そう……まあ、篤弘がいいんなら、俺はそれでいいと思うよ?」
「何だよ。変なヤツだな」
なるほど、合格と引き換えと来たか。
分かりやすくも、王道である。
結果がどうなるのかは……、
「じゃあな、篤弘。あさっての飲み会、忘れんなよ」
「おう、わかってるって。いつもの居酒屋だろ」
次はお互い別々の講義を取っているので、一端、そこで別れる。
酔っ払ったら、たいていのことはあけすけにしゃべってしまう篤弘である。
どうなるのかは、すぐにわかるだろう。
「桜、咲くか、それとも、散るか……」
学生ホールの外、まだ蕾が膨らみ始めたばかりの桜の木を見ながら、亨は呟いて、次の教室に向かった。
Fin.
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