093: 生きる上での矛盾



「サー!」

 低くかすれているのに、不思議とよく響く声でそう呼ばれた時、一瞬、陸ではなく海に、艦内に居る気分になったのは、周囲に立ちこめた霧で足元がよく見えなかったせいもあったのかもしれない。
 とにかく、その声は私にとって、海を呼び起こさせる声だった。

「ミスター・プライムか」
「お久しぶりです、ミスター・レイモンド」

 海軍の士官候補生の制服を着ていない、プライムの姿を見るのは、これが初めてだった。
 白いシャツに、茶のジャケットとズボン。
 そんな当たり前の姿だと、彼は年相応の青年に見えた。
 ……いや、士官候補生の制服だった頃も、誰よりもはつらつとした若者にしか見えなかったが。

「元気にしていたか」
「はい。海尉殿は、これからどちらに?」
「海尉はよせ。平時の陸の上では、お役御免、何者でもないのだから……」

 まるで今もまだ、艦内に居るかのようなプライムの呼称に、苦笑した。
 艦を降りれば、海尉も何もあるまい。
 寄港地に降り立っただけ、というのならともかく、今はささやかな休職給を受け取って凌いでいるような状況だ。
 講和が結ばれ、戦争はとりあえずの終結を迎えた。
 平時に、戦時ほどの軍を維持していく余裕は、国にはない。
 よって、一部の幸運な者以外は、艦を下りることになる。
 シークラウド号で、3等海尉と士官候補生という間柄だった、私とプライムも、望むと望まざると関わらず、艦を下りることになったのだった。

「それでも、俺にとっては、サー。海尉殿は、海尉殿ですから」
「ったく、君も頑固だな」

 屈託なく笑って告げるプライムに、それ以上否定する気にはなれなかった。
 多少、気分がよかったのも事実だ。
 艦を離れて、ただのミスター・レイモンドになっても、自分は海尉であると、心のどこかでは思っていたからだ。

「ミスター・レイモンド。もしこれからお暇なら、ジンを一杯、ご一緒しませんか?」
「暇は暇だがな。金がない」

 情けない話だが、ささやかな休職給で、母やまだ学校に通う弟の生活を賄っているので、余分な金と言うものがない。
 商船の船員をしていた父は、私が艦に乗りだした頃に、海で亡くなっていた。
 今も、通りに並ぶ店から漏れてくる喧騒につられて、一杯ひっかけたいという誘惑と戦いながら、諦めて家路へと向かっていたところだ。

「そうですか……。そうだ、それなら、俺のところ来ませんか?」
「君のところ?」
「はい。俺、この先に下宿しているんです。安いワインなら部屋にありますよ。チーズくらいなら、大家のミセス・マーサーが都合してくれるでしょう」
「いいのか?迷惑なんじゃないか」
「構いませんよ。俺みたいな男ばっかりが住んでる、安下宿ですから。ああでも、もしミスター・レイモンドが泊っていかれるんだったら、部屋にベッドを入れてもらわないといけませんね。ベッド代は取られますけど」
「ワインで酔いつぶれたりはしないさ」
「それじゃ、決まりですね。行きましょう」

 思わぬ成り行きで、私はそのまま、プライムの下宿に向かう事になった。
 彼の下宿は、私たちが偶然行きあった通りから、歩いてほんのすぐの場所にあった。
 通りを一本曲がっただけで、喧騒が遠ざかった。
 眠るにはまだ早いが、もう夕飯時は過ぎた頃合いだ。
 家々が立ち並ぶこのあたりでは、どこの家も静かな夜を過ごしているのだろう。

「ただいま。ミセス・マーサー」
「おかえりなさい。おや、お客さんですか?」
「うん。途中でばったり会ってね。ああそうだ、チーズが欲しいんだけど、あるかな」
「ええ、ありますよ。泊っていかれるんならベッドもお貸ししますが、先払いですよ」
「今はいいよ。とりあえず、チーズね」

 大家のミセスと、なれたやり取りを交わし、プライムはチーズの塊を持って階段を上がった。
 ギシギシと音を立てながら、その後を続いた。
 プライムは音を立てない。
 きっと何か、コツがあるのだろう。

「ようこそ、ミスター・レイモンド。狭いところですが、掃除だけはしてますから、その辺に座ってください」
「ああ……」

 確かに、狭い部屋だったが、プライムがひとり暮らすには、このくらいあればちょうどいいのだろう。
 ベッドが一つに、テーブルが一つ、椅子が一つ。
 タンスはないが、何か物入れらしき大きめの箱が隅に置いてあった。
 ちょっと迷って、私は1脚しかない椅子に腰かけた。
 プライムは、ベッドの影になった床から、ワインのボトルを持ってきて、テーブルに置いた。
 チーズも一緒に置く。

「あ、グラスがありませんね。借りてきますので、ちょっと待ってください」

 そう言って、部屋を出ていった。
 やっぱり足音を立てずに、階段を下っていく。
 ひとり残された私は、狭い部屋の中を、ぐるりと見渡してみた。
 驚くほど物が少ない。
 洋服の類は、あの箱に仕舞っているのだろうか。
 食事は外か、大家から何か用意してもらっているにしても、生活感の薄い部屋だと思った。
 猥雑なところが、少しもない。

「お待たせしました。……どうしました、サー?」

 部屋を見渡している私の様子が、気になったのだろう。
 プライムはグラスを2つテーブルに置きながら、首をかしげてこちらを見ていた。

「いや……。ずいぶん、片付いてるな、と思って」
「仮の宿ですから。散らかってるのも、好きじゃないですし」
「そうか。それなら、艦では、さそ不愉快だったのではないか?」

 士官候補生は、数多くいる水兵たちほどではないが、それでも個室を、というわけにはいかない。
 誰もが彼のように、生理整頓が得意なものばかりではないだろう。
 そう思って聞いたのだが、プライムは笑って首を振った。

「艦では気にならないんですよ。自分でも不思議ですが。やることが多くて、寝る以外では用がないからでしょうかね」
「それは何よりだな」

 プライムは、2つのグラスにワインを注いだ。
 透明なグラスに、葡萄色の液体が満たされる。
 1つを手渡され、受け取った。
 口に含むと、まろやかな味がした。
 本人が言うほどには、安物ではないのかもしれない。
 ひとつしかない椅子を私が使っているので、彼は傍らのベッドの上に腰かけた。

「美味いな」
「気にいっていただけたのなら、よかったです」

 まるで水を飲むように、プライムはグラスをあおった。
 窓際に置かれたランタンに照らされて、思ったよりも白い喉が上下するのに、目が奪われた。

「チーズもどうですか?これもいけますよ」
「いただこう」

 チーズのかけらを口に入れる。
 ほどよい塩気が、ワインの酸味にぴったりだった。
 空になったグラスに、プライムが黙ってお代わりを注ぐ。
 自分のグラスにも注いで、今度はゆっくりと飲みながら、口を開いた。

「海尉殿と、ここで会えるとは思わなかったので、驚きました」
「私の住む場所はここより少し北だからな。今日はたまたま、母の知人を見舞った帰りだ」
「どなたか、具合が悪いのですか?」
「ああ。もっとも、年も年だから。子供の頃は、私も可愛がってくれた人でね。思ったよりも元気そうで安心したが、しきりと税金が高いとこぼしていたよ」
「高くなることはあっても、安くなることはありえませんからね」
「まったくだ」

 なめるように、グラスを傾ける。
 このくらいで酔いはしないが、すぐに飲み干してしまうのが、惜しかった。

「君は……?ミスター・プライム。どうしているんだ?」
「同じですよ、海尉殿。海を夢見て、陸でしがない日々を過ごしています。平和なのはいいことなのでしょうけど、俺が海に出るためには、講和が破棄されないかなんて、不謹慎な事を考えたりもします。軽蔑しますか、ミスター・レイモンド?」
「いや……。似たようなことは、私も考えるさ」
「海尉殿も?」
「そりゃあ、な。いっそ、最初から、軍艦ではなく、商船の航海士になるんだったと思ったよ。それなら、いつでも船に乗れる。平時だろうと、戦時だろうとね」
「今からでも、遅くないのでは?」
「無理に決まってる。君も知っているだろう。航海士は、ひとりで士官6人分の働きをする……ってね。彼らは、軍艦に何故ああもたくさんの人が乗っているのか、理解不可能だろうさ」
「それは仕方ないでしょう。商船の航海士は、隣国マークウェイの軍艦と争ったり、要塞を攻め落としたりする必要はないんですから」
「同じように船に乗る者とはいえ、船が違えば、働きも違うと言う事さ。我々は、平時には、こうやって陸で管を巻くしかない悲しい定めだ」
「その事に関しては、否定できませんね。通常防備に回される、少数の幸運な者以外は」

 平時でも、最低限の海の防衛は必要だ。
 だが、そういう者は、何がしかの後ろ盾やコネがあるものがほとんどだった。
 悲しいかな、プライムにも私にも、そういうものは持ち合わせていなかった。

「ミスター・レイモンドが、シークラウド号で、マークウェイの艦とやり合った時が、懐かしいです」
「あれは、我々があわやで捕虜になるところだったからな」
「ええ。海尉殿があんなにお強いなんて。正直、驚きました」
「失礼な奴だな。これでも、人並みには鍛えているんだ」
「獅子奮迅の活躍でしたよね」
「それは言い過ぎだろう。君には、助けられたな……」
「あれは、運が良かったんです。でも、良かったです。あなたが、斬られそうになったのを見て、心臓が止まるかと思いました」

 しみじみと語るプライムに、シークラウド号での、最大のピンチだった、隣国マークウェイの艦との戦いに思いを馳せた。
 それほど昔の出来事ではないのだが、艦を下りた今となっては、ずいぶん遠い出来事に思える。
 シークラウド号に乗り込んできたマークウェイの兵に、背中から斬られそうになった時、駆けつけたプライムに助けられたのだ。
 あれは、肝が冷えた一瞬だった。
 幸い、その争いに勝利したのは、我々のシークラウド号の方だった。

「甲板を染めた血の色が、今でも目に映って、消えません。あの血は幸いにも、自分のものではなかったし、海尉殿のものでもありませんでしたが……」
「軍艦に乗る、と言う事は、そう言う事なんだよ」
「はい。わかってはいたんですけど……実際に、経験するのは違いました」
「君が士官候補生として艦に乗り込んできてから、初めての戦闘だったか」
「そうです。覚悟が、足りなかったようです」
「その割には、君は堂々と戦っていたように見えたが」
「無我夢中ってヤツですよ」

 ワインで口を湿らせて、プライムはどこか弱弱しい笑みを見せた。
 それは、勇猛果敢な働きを見せたあの時の様とはかけ離れていたが、一時の興奮から冷めてしまえば、そういうものなのかもしれない。
 チーズを一口かじって飲み下すと、プライムは、じっと手元の空になったグラスを見据えながら呟いた。

「それでも、俺は、もう一度、艦に乗りたいです」
「そうだな……、私もだ」

 嵐に見舞われても、敵国との戦闘になっても。
 それでも、艦に乗りたい。
 海に出たい。
 それは、一度、海原にこぎ出し、海に取りつかれたものの、共通の願いだ。
 たとえ、そのために、国の平和が脅かされるようなことになったとしても。

「国が平和であって欲しい、とは思ってるのに、同じくらい、艦に乗りたい、って思ってるんです。矛盾してますよね」
「矛盾か……そうだな。生きる上での矛盾、か」
「俺、寝てる時、ベッドが揺れないもんだから、落ち着かないんですよ」

 プライムは、自分の座っているベッドを、ポンポン、と叩きながら言った。
 硬そうなマットレスは、その程度できしむことはない。

「波の上でないと、眠れない体質になったのか?」
「ええ」

 からかうように問うと、存外、真面目にうなずかれた。
 私は、その顔がおかしくて、くすりと笑った。
 3杯目のワインをあおる。
 酔ってはないが、少し眠くなってきた……。
 今日は、いつもより早く起きて、知人を訪ねたからだろう。
 そろそろ、帰った方がいいだろうか。
 まだ、もう少し、かつての部下と、とりとめもない会話を続けていたい気もするが……。

「お疲れですか?それなら、こっちに来ませんか」

 そんな私の様子を悟ったのか、プライムは、ベッドを叩いて言った。

「いや……。私はそろそろ、帰るよ」
「まだいいじゃないですか。久しぶりに海尉殿に会えて、俺、嬉しいんです。積もる話をしましょうよ」
「だが……」

 泊る予定はなかった。
 別に子供ではないのだから、一晩外泊したところで、どうということはないが……。

「ベッドを入れてもらいましょうか。……いや、それより、ここで二人で寝たら、ほどよくベッドが揺れて、よく眠れると思うんです」

 そんなことを言い出すプライムに、私は吹き出した。

「君は、波の代わりに、私にベッドを揺らせと言うのかい?」
「ええ、そうです。ダメですか?」

 またしても真顔で言われ、冗談のつもりだった私は、返答に困った。
 そんな私をどう思ったのか知らないが、プライムはグラスをテーブルに戻して立ちあがると、私の手を取った。
 手を引っ張られて、慌てて、グラスをテーブルに置く。
 あきらかに一人用のベッドに、どすんと音を立てて、一緒に倒れ込んだ。

「………嵐の晩くらいに、ベッドが揺れたら、きっとよく眠れますよ」

 そして、そんなふざけたことをプライムは言い出した。
 艦を下りてからしばらくの時が立ち、海は遠い。
 だからだろうか。

「そうだな……」

 気がつくと、私はうなずいていた。
 潮騒が、耳の奥で、聞こえた気がした。


Fin.


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