そういえばシャープペンシルの芯が切れていたっけ。
目についた近くのコンビニに入ったら、レジの前に特設コーナーが出来ていた。
もちろん、シャープペンシルの芯なんかじゃなくて。
(そっか、もうそんな時期だったな……)
あちこち赤いハートでディスプレイされたコーナーに並んでいるのは、たくさんのチョコレート。
よく見かけるメーカー品のものも、ちょっと特別な感じにパッケージングされている。
普段はあまりコンビニに置いていなさそうな、高級なものも並んでいた。
赤い厚紙のハートの中に踊っている横文字は――――St. Valentine's day.
今日はまだ1月27日だが、来月になればあっという間にその日が来てしまうだろう。
何となく立ち止って、チョコレートを見ながらぼんやりと思い出していた。
去年までの、バレンタインデーを。
(いちいち断るのも面倒だったから、とりあえず受け取って―――)
顔も知らないような子から、見覚えくらいはある隣のクラスの子、喋ったことのあるクラスメイト。
ありがとう、って受け取って、それから俺はどうしただろうか。
さすがに全部は食べきれないけどいくつかはつまんで、残りは……いつのまにか無くなってたから、他の家族が食べたのかもしれない。
ああ、そのまま友人にやったものもあったかな……食べずに捨てるよりは、いいかと思って。
チョコレートばかりを大量にもらう日は、嬉しいと言うよりも少し迷惑なイベントだった……去年までは。
(でも………)
心の中だけで、そっと呟いて、目的の文具コーナーに移動する。
HBの芯を取って、レジに向かう。
小銭を出して会計を済ませ、コンビニを出る前にもう一度、ちらりとバレンタインコーナーを見た。
(智樹のくれるチョコレートなら、欲しいな)
もし、智樹からバレンタインデーのチョコレートがもらえるのなら。
他のチョコレートなんて、全部断るのに。それがどんなに面倒くさくても。
そして俺ひとりで、大事に、大事に食べるのに。
「ありがとうございましたー」
コンビニ店員の声を背中に聞きながら、俺はそんなあり得ないことを考えて、苦笑をこぼした。
去年の自分には、きっと想像もつかないだろう。
俺が、たったひとりからのチョコレートを欲して、それが決して叶わないことを嘆くことになるだろうなんて―――。
そして、2月14日。
バレンタインデー当日がやってきた。
俺は、登校したての智樹をメールで呼びだしていた。
この時期は朝練をしている部活もなく、部室棟の裏に人気は無い。
紙袋を片手に落ち付かず、軽く地面を蹴っていたら、ほどなくして待ち人の姿が現れた。
俺はほっとすると同時に、自然と笑みを浮かべて、智樹に呼びかけた。
「おはよう、智樹。ごめんね、朝から呼びだしちゃって」
「水上、おはよー。それは別にいいんだけど……何?」
智樹は、いつものように抱きしめたくなるくらい可愛い笑顔で俺に挨拶を返した後、用件を尋ねた。
俺は、手にしていた紙袋を智樹に渡した。
「これ。智樹に、渡したかったんだ」
「え? ありがとう……って、何、これ?」
反射的にそれを受け取った智樹は、首をかしげた。
今日が何の日かってことくらいは把握してるだろうけど、今手渡したそれとは結び付かなかったのだろう。
「チョコレートマフィンだよ。開けてみて?」
「うん……あ、ホントだ! わー、美味そう!」
「智樹、甘いもの、苦手じゃないよね」
「うん。俺、甘いのも結構、好きだよ」
にこっと笑って言われて、俺は瞬間、心臓が止まりそうになる。
いや、ちゃんと、わかってるんだけど。
好きだよ、っていう言葉が、『甘いもの』にかかっているっていうのは。
「水上?」
智樹にきょとんとした顔で名前を呼ばれて、俺は慌てて口を開いた。
「ううん、なんでもないんだ。智樹が、甘いものが大丈夫でよかったなって」
「うん? それならいいんだけど……なあ、これ、今、食べてもいいか? ちゃんと朝飯食ってきたけど、これ見てたら腹減ってきた」
「もちろん。どうぞ」
「それじゃあ、いただきまーす!」
紙袋の中からひとつ、チョコレートマフィンを取って、智樹は豪快にそれをほおばった。
リスみたいに、智樹の頬がマフィンで丸くなっている。
本当に、智樹って可愛いなあ……。
智樹を見ていると、何も食べてないのに、チョコレートを食べているみたいな気持ちになる。
見てるだけで、甘い……。
「ごちそうさま。美味かったー! なあ、もしかしてこれって、手作り?」
「うん。一応、味見はしたんだけど……」
「えっ! まさかこれ、水上の手作り!?」
智樹が、驚いた顔で俺を見た。
もしかして、引かれた?
男の手作り、なんて………。
智樹からバレンタインのチョコレートがもらえないのなら、自分が智樹に渡せばいいんじゃないか、と思って。
それなら自分で作ってしまおう、と思ったのだ。
作る方が、バレンタインデー用にラッピングされた市販のチョコレートを自分で買うよりもハードルが低かった、ってのもある。
だけど、それを知った智樹が、どう思うかまでは考えていなかった。
「うん。俺が、作ったんだ」
なので今、智樹の返事を聞くのが、すごく怖い。
「スッゲー! 水上ってホント、何でも出来るのな!」
智樹の反応は、俺の予想を反するものだった。
いや違う、ある意味、すごく智樹らしい反応で……。
智樹はこう言う時、人を嘲ったりするようなタイプじゃない。
男のくせに手作り菓子、とか、そんな風に。
いつの間にか詰めていた息を吐きだして、俺は泣きたいような、笑いたいような、そんな複雑な気持ちになって、結局笑った。
「意外と、簡単なんだよ。使ったのも、ホットケーキミックスに板チョコだしね。むしろ、電子レンジがすごいんだよ」
「そうなのか? でも俺が作ったら爆発とかしそうな気がする……」
2個目のチョコレートマフィンを手に取って、しげしげと眺めながら智樹がうなる。
そして、さっきより小さめに、ぱくん、ぱくんとかじった。
すぐにごくんと飲み込んで、智樹は俺に尋ねた。
「けど、なんで急に、チョコマフィン?」
やっぱり、バレンタインデーについては思いつかなかったらしい。
「智樹、今日、何月何日?」
「え、今日……2月、14………って、あっ!!」
そこまで言うと、さすがに智樹も気付いたようだ。
手にしたチョコレートマフィンの入った紙袋と、俺を交互に見つめて、それから。
「えっと、あの、俺、ごめん、何も用意してないんだけど……っ!!」
ひどくうろたえた様子で、智樹はそう言った。
またしても、予想外の反応だ。
「あ、いや、違う……別に、俺が用意しなくてもいいんだっけ? って、あれ……?」
智樹は自分で言って、自分で混乱している。
俺は彼を……何て言葉で言ったらいいのかわからない、あたかかいのに何故か胸が痛くなるような、そんな不思議な気持ちで見つめた。
ああ俺、本当に、すごく、すごく智樹が、好きなんだなあって。
「智樹は、何も気にしなくていいんだよ。俺が、智樹に渡したかった、それだけだから」
智樹にチョコレートをもらえたら、それはすごく、ものすごく嬉しかったと思うけど。
だけど、それ以上に、俺が智樹に何かしたいって思ったんだ。
俺が智樹に、何かをしてあげて、それで智樹に喜んでもらえたら、俺も嬉しい。
智樹が笑ってくれたら、俺も笑顔になれる、そういう気持ち……。
「そう……なのか?」
「うん、そうだよ」
「そっか、ありがとな、水上。あっ、でも、ちゃんと、ホワイトデーにはお返しするからっ!」
「気にしなくていいよ。その気持ちだけで、嬉しいから」
「いやいや! そういうわけにはいかないだろ!? さすがに、手作りってワケにはいかないけど……いや、クッキーくらいならいける……か……?」
「そう? じゃあ、楽しみにしてるね」
「あんま期待されても困るけど……そこそこに期待しといて。そこそこに」
照れくさそうに、智樹がにっと笑う。
始業前のチャイムが、校舎の方から響いてきた。
いつの間に、そんなに時間が経ったのだろう。
名残惜しい気持ちで、口を開く。
「………今朝はありがとう、来てくれて」
「こっちこそ。これ、ありがとう」
智樹はそう言ってまた笑うと、チョコレートマフィンの入った紙袋を顔の高さで軽く振って、鞄の中にしまった。
校舎に向かって歩き出した智樹は、振り返って俺を見た。
「水上? 遅刻するぞ」
何でもないように、俺の名を呼ぶ。
それだけで、胸がざわめく。
「ああ、うん……そうだね」
急がなきゃいけないのに、俺はゆっくり歩いて智樹の横に並んだ。
甘くて香ばしく、ちょっとだけ苦い匂いがふわりと漂う。
駆け足で校舎へ向かう生徒たちの群れに混じって、それはすぐにかき消される。
こんなに好きなのに―――と、不意に理不尽な怒りにかられて、俺は戸惑った。
「じゃあ、またな、水上」
「またね、智樹」
クラスの違う智樹と、昇降口で別れる。
たったそれだけのことさえも、悔しいと思っている。
ただ通り過ぎるだけだった今までのバレンタインデーと、今年のものは、全然違うことに、俺は嫌でも気付かずにはいられなかった。
智樹に会って話せる口実になるのなら、どんなくだらないイベントだって、今の俺には、かけがえのないものに変わってしまった。
「あっ……」
下駄箱を開けると、綺麗にラッピングされた小さな箱が転がり落ちてきた。
俺はそれを、そっと拾うと、丁寧に鞄の中に入れた。
この箱の贈り主は、どんな想いでこれを入れたのだろうと―――去年までの俺なら考えもしなかったことを、想像しながら。
Fin.
戻る