*冷たい指先、熱い掌*
新緑がすっかり色を変え、辺りの木々に違和感なく馴染む頃、白鳳はまたルーキウス王国に足を踏み入れた。雲一つない抜けるような青空が清々しい。もちろん、こちらから城内へ押しかけるわけにはいかないので、先に宿を確保してから、セレストの実家に立ち寄った。今日の来訪は前もって連絡してあり、午後にはセレストも非番になって戻って来るはずだ。彼を待ちながら、セリカを手伝って食事の下ごしらえをしたり、シェリルやエリックも交えて、異国の面白い話や貴重な品物を披露したりと、それなりに充実した時間を過ごした。一見そつのない対応をするものの、本来、決して人付き合いが上手くはない白鳳だが、セレストの家族とは自分でも驚くほどすんなり交誼を深めていた。病に倒れたところを助けられ、手厚い看護を受けた。ある意味、最初に弱みを見せてしまった。今更、変に構えたり格好付けても仕方ない。そんな思いが素直で自然な対応に結びつき、いろいろな面でプラスに出たのかもしれない。
「ただいま」
ようやくここに辿り着くことが出来た。午前中のなんと長かったことか。朝からそわそわと落ち着かず、つまらない失敗をしでかしそうになった。事情を知るカナンにはこれでもかと遊ばれ、からかわれた。が、戻って来た途端、そんな些細なことはキレイさっぱり頭から消し飛んでいた。玄関に脱ぎ捨てられた見覚えのある黒い靴をきちんと揃えると、人の気配がする方に進んだ。どうやら居間ではなく、台所にいるらしい。明るい笑い声に思わずセレストの顔も綻ぶ。玄関で数回声をかけたにもかかわらず、誰一人迎えに出ないところを見ても、よほど会話が盛り上がっているのだろう。自分が加入することで話の腰を折ることにならねばいいがと心配しながら、遠慮がちにひょこっと顔を出した。
「あ、早かったね、お兄ちゃん。」
テーブルを囲んで座る一同。彼らの前には大きな広口の硝子瓶が幾つか置いてあり、更に見たことのない果実がたくさん転がっていた。その中のひとつを器用に転がして遊ぶスイ。
「セレスト、お邪魔しています」
「きゅるり〜」
おっとりと細められる紅の双眸。先日の別れ際からは想像しがたいあっさりした挨拶。出会った頃の彼だったら、人目も憚らずいきなり抱きついてきたかも、などと考え、己の発想の危うさに愕然とさせられた。
「こんにちは、お義兄さん」
「エリック君も来てたのか」
「うん、白鳳さんの話をしたら、ぜひ会いたいっていうから」
「噂通りの魅力的で楽しい方ですね」
おいおい。いくら彼の性癖を知らないからといって、こんな発言をして大丈夫なのか。おそらく守備範囲内であろう義弟の身を案じ、セレストはこっそり白鳳を一瞥したものの、別にエリックの方に色目を使う様子もない。もっとも、あれだけシェリルとらぶらぶな義弟が、他人の誘惑に心動かされるはずもないが。
(うん、良い事じゃないか。突拍子もない言動にはらはらさせられるのはカナン様だけでたくさんだ)
白鳳の内に秘めた面を知るだけに、ごく普通に振る舞う彼に納得しつつも、どこかで物足りない思いが消せなかった。
「母さんは?」
「角の花屋の奥さんに呼ばれて出掛けたよ」
「夕方には戻られるとおっしゃってました」
「そうか」
あの奥さんとは父と結婚する前からの付き合いだし、きっと何かの手伝いを頼まれたに違いない。元々、頼まれたらイヤと言えない人なのだ。どうやら、この性質は自分にもしっかり受けつがれているらしい。思わず苦笑しつつ、改めてテーブルを見渡して、広口瓶と果実の関係に思いを巡らす。セレストの怪訝そうな仕草に気付いたのか、白鳳が問いかけを待たずに切り出した。
「果実酒を作っていたんです」
「果実酒?」
「白鳳さんが珍しい果物を持ってきてくれたの」
ふと見れば、テーブルの下にホワイトリカーのパックが大量に並んでいた。ああ、なるほど。にしても、この夥しい量の果実を運ぶだけでもさぞ重かっただろうに。
「こんなにたくさん・・・・・大変だったでしょう」
「ふふ、途中から荷馬車に乗せてきてもらったので、大した手間ではなかったですよ。この国には本当に親切な人が多いですね」
「そうですか」
しかし、セレストの脳裏には白鳳が荷馬車の運転手に強引に迫る姿がはっきりくっきり浮かんでいた。
(う〜ん、すっかり毒されている。。)
曲がりなりにも好きだといってくれた相手に対し、失礼極まりないのだが、一年前の各ダンジョンでの印象がよほど強烈だったのだろう。事実、初対面でいきなり”私の愛人になりませんか”と口説かれたときの驚愕は今でも忘れられない。
「ねえ、お兄ちゃんも手伝ってよ」
「え」
「ほら、この竹串を持って」
言い返すことも出来ず、あれよあれよという間に右手に竹串を持たされていた。この調子では果実酒造りはしっかり者の妹が取り仕切っているに相違ない。
「これでへたをくり抜くのよ」
「分かった」
指示に従って、皮を傷つけないよう、一個一個丁寧にへたをくり抜いた。下準備が済んだ果実をシェリルが洗って、エリックが完全に水気をふき取る。そして、それを白鳳が氷砂糖と交互に手際よく瓶に入れて行き、最後にホワイトリカーを静かに注ぐ。惚れ惚れするような息のあったコンビネーションだ。程なく用意した果実を全てつけ込むと、メモに今日の日付を書いてビンの横に貼り付けた。
「一番早いのが三ヶ月後かあ」
「楽しみですね」
「良い果実を使ったので、きっと美味しいお酒が出来ますよ」
「きゅるり〜」
共同作業の成果を眺めながら、口々に期待を述べた後、広口瓶を奥の棚に並べてしまい込んだ。楽しい仕事も終わったし、今度は居間にでも移動するのかな、と思った矢先のこと。
「じゃあ、僕たちはそろそろ失礼します」
不意にエリックが別辞を切り出したので、セレストはあっと声が出そうになった。てっきり夜まで一緒にいるとばかり思っていたのに。
「夕食までつきあえばいいじゃないか」
「お言葉はありがたいですが、教会を空けて来ちゃいましたから」
「私も店に戻らないと」
普通の感覚からすれば、いい加減と言われかねない行動でもすんなり許されるあたりが、この国の住民のなんともアバウトなところだ。
「じゃあ、白鳳さん、また会いましょうね」
「いろいろ話を聞かせて下さって、良い勉強になりました」
「私もお二人と話せて楽しかったですよ」
「シェリルもエリック君も気を付けて」
彼らは仲睦まじく寄り添って、アーヴィング家を去って行った。当然、残されたのはセレストと白鳳だけ。来訪早々、予想もしない状況に陥ってしまった。
(まさかセレストとふたりきりになるとはね)
今までの自分だったら、チャンス到来とばかり即押し倒すところだが、そんな暴挙に出たら、せっかくの努力が水の泡だ。アーヴィング家に到着してから、真性××を思わせる怪しい言動は一切封印して来た。セレストとの新たな関係を築くためには、ある程度彼の方の感覚や常識に合わせなくては。
「案外器用なんですね、セレストは」
再び食卓に腰を下ろすと、こみ上げる衝動をどうにか抑制しながら、他愛のない話題を振った。果実と格闘する彼の手際の良さに感心したのは本当だし。
「いえ、そんな」
「実は家事が得意だとか」
「宿舎にいるから、必要に迫られて一通りのことはこなせますが」
「今度、手作りの料理をご馳走して欲しいです」
「料理は白鳳さんにはかないませんよ」
「そんなこと、食べてみなければ分からないでしょう」
でも、どうせ食べるのなら、やはりセレストの方が。うっかりそこまで考えて、己の業の深さに呆然とした。心なしか肩先のスイがじろりと睨んでいる気すらする。
(ダメダメ。セレストとはきちんとした付き合いをするのだから)
邪な思考をうち消すごとく、にこやかな笑顔で先を続けた。力ずくで襲うことも駆け引きも出来ずに、間を持たせるのは案外しんどいものだ。
「今日こしらえたお酒が良い食前酒になりますね」
「一緒に飲める日が待ち遠しいです」
「ふふ、こうやって先に楽しみを作っておくんです。そうすると日常が心浮き立つものになるから」
「・・・・・・・・・・」
当てのない闘いの中で、少しでもより良い毎日を過ごそうとする姿勢が伝わってきた。辛い試練にただ凹んでいるだけでなく、出来る範囲で精一杯楽しむ術を見出そうとしている。思えば、出会った当初もわずかな影すら感じさせなかった。あの酒場での語らいがなければ、彼の内面の憂いに気付かないままだったに違いない。
「セレスト、どうしてそんな顔をするんです」
「え・・・・・いや」
「私が無理してるとでも」
思わなかったといえば嘘になる。白鳳の背負った運命の重さを知るだけに、眼前の表情が明るければ明るいほど、逆に闇の部分に思いが至ってしまう。この心境に到達するまでに、彼はいったいどれだけの涙を流して来たのだろうか。
「確かに以前は心の憂さを晴らすために、目先の快楽ばかり追い求めていたけれど、今は違います。貴方がいるから」
「・・・・・白鳳さん・・・・・・」
熱っぽい視線を送られてどきりとしながらも、セレストは退かずに見つめ返した。柔らかな瞳の輝き、蠱惑的な表情、生き生きとした仕草。ここに来て、生来の美貌がいっそう魅力を増した気がする。
「貴方に会っただけでこんな前向きな気持ちになれるなんて、案外、単純なのかな」
享楽主義と言われても仕方ないくらい刹那の快楽に溺れても、本心から喜び楽しむことなどなかった自分が、あらゆることに新鮮な気持ちで取り組める。セレストとの交誼に一歩踏み出したことで、弟の解呪以外何もすべきことのなかった日々に、徐々に新しい世界が開けて来たのだ。
彼の人の整ったラインの横顔にしばし見惚れていたセレストだったが、突如目の前にビール瓶程度の大きさの瓶が差し出された。濃いセピア色の液体が窓から差し込む陽でキラキラ光っている。
「セレスト、これ一緒に飲みませんか」
「これは?」
「完成品。前もって私邸でこしらえてみたんです。ちょっと早めかもしれませんけど」
味見もせずによその家で造るわけにはいかないから、と笑うと、白鳳は小振りのグラスをふたつ出してテーブルに置いた。それを香り高い果実酒で一杯に充たす。黒茶のスクリーンの中で逆さに映る互いの顔が小刻みに揺らいだ。
「どうぞ」
「では遠慮なくいただきます」
微かにグラスを触れ合わせ、乾杯の真似事をしてから、ふたりでいろいろな話をした。白鳳の意外な聞き上手に誘導されて、いつしかセレストの方が言わなくてもいいことまで白状させられていた。
「ふふふふふっ」
「ちょ・・・・そんなに笑わなくてもいいじゃないですか」
「セレストはもっと慎重な人だと思ってましたよ」
「若気の至りです・・・・・多分」
うっかり子供の頃の情けない話や士官学校時代の失敗談まで披露してしまった。けれども、屈託のない面持ちで先を促されると、話の腰を折るような反応は出来なかったし、こちらから白鳳の過去にずかずか踏み込むのは躊躇われた。もちろん、彼についてもっともっと知りたいと強く願ってはいるが、スイの呪いを始め、複雑な事情を抱える身だし、彼自らが打ち明ける気になるのを待つしかない。
「それで」
小首を傾げたのに合わせて、白金の束がなめらかに動く。
「へえ」
好奇心たっぷりに見開かれる緋色の瞳が一瞬煌めいた。
「そんなことが」
よどみない会話に淡々と流れる時間。初めて白鳳と存分に語り合えて嬉しいし、これと言った不満があるわけではない。にもかかわらず、セレストはどこか物足りないものを感じていた。何かが違う。
(う〜ん)
白鳳があまりにもおとなし過ぎる。ある意味、”らしくない”というか。貞操の危機を感じることもなく、普通に会話している現状に馴染めなかった。次に何をしでかすか分からない奔放さに最初はただ圧倒されていたが、今ではそれこそ彼の大きな魅力のひとつだと認識するようになっていた。だけど、ひょっとしてこの結論は自分の首を絞めているのではなかろうか。
(俺はこの人に迫られたり、襲われたりしたいのか)
人として終わっている感じは否めないし、こちらからそんな無謀な要求ができるはずもない。彼の積極的なアプローチに辟易していたのもまた事実なのだ。自分の矛盾した思考を打ち消すべく、次々と杯を重ねたセレストだったが、ふと周囲の景色が回り出したのに気付いた。
「あ・・・・・れ?」
口当たりの良さとアルコール度数は必ずしも結びつかない。甘いまろやかな味わいについつい度を超し、すっかり酔ってしまった。眼前の人が顔色ひとつ変えてないのも見極めを誤らせた。そう言えば、この人はザルだと自分で言っていたっけ。とにかく水を一杯と立ち上がった途端、激しい目眩がして大きくよろめいた。
黙って酔うと聞いたけれど、ここまで唐突に潰れてしまうなんて。倒れかけたセレストの両肩を慌てて支えたものの、体重差もあって椅子に戻すことは出来なかった。やむなく白鳳はゆっくり膝を付いて、床にその身を横たえると、頭を自分の膝に乗せてやった。無防備に半開きになった唇に、我知らず眼差しが吸い寄せられる。
(ここでキスしても絶対分からないだろうな)
だからそういう発想がいけないのだ。性懲りもない己を否定するごとく、首を左右に振ると、出来る限り想い人の顔を見ないようにして囁きかけた。
「大丈夫ですか」
「きゅるり〜」
甘い声と可愛い啼き声に誘われて、うっすら目を開けると、白鳳の整った顔がこちらを覗き込んでいるのが分かった。心なしか目元がほんのりと染まっているのは気のせいだろうか。そして仰向けに伏した自分の頭を乗せているのは。
「あっ」
白鳳の膝枕に身を委ねている状態を悟って、慌てて飛び起きようとしたが、ふわふわ浮いた感覚に支配されて、四肢を自由に動かすことが出来ない。もがいているうちに、床に無造作に投げ出した手を取られた。その手をぎゅっと握ったまま、含みのある顔付きでこちらをじっと眺めている。いよいよか。これからどう出るのだろうと、内心ドキドキしながら見上げていると、白鳳が優しく言いかけてきた。
「セレスト、眠いんですか」
「え」
あまりにも健全な発言内容に正直、拍子抜けしてしまった。いや、断じてここで襲われたいわけではないのだが。
「掌が温かいから。子供も眠くなると手が温かくなるじゃないですか」
空いている片方の手が額に下りてきて、手櫛で前髪を梳かれた。白鳳の指先は相変わらず冷たかった。ひんやりと心地良い感触。
「いいですよ、ここで寝ても。母上が戻ってきたら、起こしてあげます」
「そ、それは出来ません」
いい年をした男がこの体勢で眠り込んでしまう醜態は避けたい。膝の上に乗せた頭をなんとか浮かそうと試みたが、彼の冷たい指先に押さえつけられてしまった。たおやかに見えても男の手だ。それなりに力はある。
「無理をするものじゃありませんよ」
子供をあやすような口調で言われ、少々カチンと来た。一方でまともに動けない自分を見守るだけの態度に、やはり納得が行かなかった。酔って自制心をなくしていたこともあり、胸に燻っていた違和感が不意にほとばしり出た。
「無理をしてるのは貴方の方じゃないですか」
「?」
セレストの発言の真意が飲み込めず、白鳳は微かに首を捻りながら緑の瞳を見つめた。
「好きな相手が酔い潰れているにもかかわらず、ただ介抱するだけの人畜無害な人じゃないでしょう」
「えっ」
セレストから核心に触れる部分を指摘され、思わず絶句した。無論、いつもの自分ならこれ幸いと押し倒して、いかがわしい行為に及んでいるシチュエーションだ。それ以前にも何度かチャンスはあった。けれども、セレストの前では出来る限りそういう態度は控えようと、意識的に欲望を押し殺して振る舞ってきたのだ。まさか彼の方がそれにクレームを付けて来るとは。
「偽悪者ぶるのも困りものですが、猫を被るのはもっと似合わないですよ」
ここまで大胆な発言を仕掛けてくるなんて、きっと相当酔っているに違いない。
「貴方は私をどういう人間だと思っているんです」
「そうですね・・・・・危ない人かな」
様々な意味で良くも悪くも。
「言ってくれますね」
彼の主張は確かに的を射ている。アーヴィング家に着いてからずっと当たり障りない言動ばかり選んできた。だけど、それもこれも全てセレストに悪印象を持たれたくない一心だったのに。人の気も知らないで、どうしてこの男はこちらの努力をあざ笑うような発言をして来るんだろう。そこまで考えるとだんだん腹が立ってきた。こうなったら、開き直ってうんと困らせてやれ。
「要するにセレストは私に襲われたいと、そういうことなんですね」
「い、いやっ。別にそこまではっ」
「よ〜く分かりました」
婀娜っぽく微笑まれて、寝た子をわざわざ叩き起こしてしまったことを悟った。適切な手段を講じる間もなく、白皙の美貌がぐんと近づいてきた。あっと思ったときはもう遅かった。
「う」
この体勢で逃げられるわけがない。身を捩ることも出来ずに、白鳳にキスを落とされた。あの晩と同じ、触れるだけのくちづけ。互いの息づかいが甘い痺れと化して、唇から身体の隅々まで行き渡る。銀の糸がばらばらと頬や額にかかって少しくすぐったかった。
「ち、ちょっと・・・・・白鳳さんっ」
ただでも熱を持っていた顔にいっそう血が上るのが分かった。でも、やはり彼はこうでなければ。不埒な振る舞いをされたにもかかわらず、不覚にも仄かにときめきすら覚えていた。
「ふふふ、お酒よりこちらの方がずっと美味しいですv」
とはいうものの、このまま白鳳の良いようにあしらわれるのもシャクだ。せめて一矢たりとも報いたい。セレストは押し寄せる眠気を堪えながら、自分の手を取るたおやかなそれを力任せに引き寄せると、冷たい指先を温めるごとくそっと口腔に含んで舌を絡めた。
「あっ」
予想外の行動に細い肢体がはっと身動ぐのが分かった。瞳に力を込めて相手を見据えると、まだ繊細な指を丁寧に舐めしゃぶったままセレストは不敵に笑った。
「お返しです」
「生意気な」
「んっ」
あからさまな動揺を見透かされたのが悔しいのか、セレストの手を強引に振り解くと、白鳳はまた唇を塞いできた。両の頬をきつく指で押さえられ、戯れというにはかなり長いひととき。ほぼ逆さまの体勢なので、彼の人の白い喉がごくりと鳴る様子がはっきり見えた。飢えているのは身体なのか心なのか、はたまた双方か。スイがいるせいでもなかろうが、舌こそ差し入れてこなかったものの、ようやく解放された時にはすっかり息が上がっていた。
「今日はこの辺で勘弁してあげます」
なのに相手は余裕の笑み。これだけでも経験値の違いは明らかだった。
「・・・・・もう少しお手やわらかに願えませんか」
「貴方が望んだことでしょう」
「こんなことを望んだ覚えはありません」
「どうせ危ない人ですから」
拗ねたようにぷいとそっぽを向かれ、セレストはようやく我に返った。酔いに紛れて、なんて失礼な発言をしたんだ、俺は。あの柄にもない大人しい態度こそ彼なりの精一杯の気遣いだったに違いない。途端に申し訳ない気持ちが溢れだして来て、慌てて非礼を詫びた。
「少し言い過ぎました。すみません」
「いいんですよ、セレストの言う通りですから」
言葉とは裏腹のあからさまに棘のある口調。完全に怒らせてしまった。そんな意図で爆弾発言を口にしたわけではなかったのに。そう、本当に伝えたかったのは。
「だけど、危なかろうと何だろうと、俺はそのままの貴方が・・・・・」
「え」
「う。。」
白鳳に真っ正面から注目されるやいなや、あっけなく先が続けられなくなった。我ながら実に不甲斐ない。たった一言がなぜ言えないのだろう。相手が男だから?抱いていた理想と遠くかけ離れているから?この先、降りかかって来るであろう厳しい試練を乗り切る自信がないから?どれも当たっているようであり、外しているようでもある。
(俺がカナン様くらいの年齢だったら、後先考えずこみ上げる想いを吐露できるんだろうな)
年を重ねて分別が付くということは、純粋な恋愛とは相容れない部分が出てくるのかもしれない。もっとも、気持ちのまま突っ走って玉砕するのも決して賢いとは言い難い。きっと自分はまだ感情と状況との上手いバランスの取り方を暗中模索している段階なのだろう。ふたりだけで生きていくのではない以上、周囲との折り合いに心を砕くことも当然、求められる要素なのだから。
セレストの困り果てる様子を見遣るうちに、白鳳は自分の心がある種の呪縛から解放されるのを感じていた。
(何やってたんだろう、私は)
いくら想い人とはいえ、その顔色をうかがいながら、言いたいことややりたいことも悉く遠慮して。いつもなら、好き放題に振る舞って、相手にしてくれないオトコはこちらから願い下げなのに。
(ちょっと弱気になりすぎていたみたいだ)
戯れの駆け引きや手練手管なら大の得意なのに、真に愛する人にはどう振る舞っていいか分からない。実のない交わりを繰り返すうち、大切な人への適切な接し方まで忘れてしまったのかもしれない。セレストにだけは良く思われたいと望むあまり、萎縮してすっかり自分らしさを失っていた。けれども、人間の本質なんて簡単に変わらないのだから、いつまでも良い子にしていられるはずもないし、そうしなければ保てない関係なんて、恋愛であれ友情であれ、しょせんは長続きしない。そもそも、こんな規格外の自分を丸ごと受け容れてくれる強く優しい人だからこそ、本気で好きになったのに。
「ふふ、もう許してあげます」
セレストが言い差した言葉の続きを待つことなく、白鳳はもう一度だけ愛しい唇にキスを落とした。すでに彼の瞼が閉じかけていたこともあったが、実のところ、最後まで聞く勇気が持てなかったから。セレストに好きだと告白しておきながら、一方で万が一、彼がその気持ちを受け容れたら、どうしようかと思い悩んでいる。この年まで生きてきて、”好き”という感情だけでは絶対に乗り越えられない壁があることを知った。彼と恋仲になれば、自分はきっと幸せになるだろう。でも、彼は?自らの存在ゆえに彼が守り抜いてきた世界を壊すのは耐えられない。セレストのためにはいわゆる”お友達”のままでいるのが一番なのだ。そこまで分かっていても、気を抜くと抑えが効かなくなりそうだ。白鳳は祈るように肩先のスイの身体を撫で続けた。もはや自分のブレーキになりうるのはこの弟の存在だけなのだ。彼のそんな葛藤を知るはずもなく、セレストが呂律の回らない口で囁きかけてきた。
「・・・・・これはおやすみのキスですか」
「ええ、そうですよv」
ふんわりと微笑む端麗な顔が徐々にぼやけて来た。危険極まりない人だけど、いくらなんでも眠っている人間を襲うことはすまい。確信にも似た信頼と陶酔にも似た充足感。今日はなんて良い日だ。自分が望みさえすれば、彼とこんな一時を定期的に持つことが出来るんだろうか。だけど、それはまた起きてから考えよう。今はただ、この心地良さに酔いしれて。相も変わらず彼の人の膝の上に頭を委ねたまま、仄かに熱を帯びた指先に優しく額を撫でられ、セレストは深い眠りに落ちていった。
FIN
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