*オレンジの苦い香り*



悪魔の囁きに惑わされた報いか、温泉きゃんきゃん捕獲は叶わず、逃げるようにルーキウス王国を後にして、どれくらいの日々が流れただろう。相も変わらず諸国を巡り、当てのない旅を続けているけれど、彼の国で出会ったドレッドの大男と縁が切れることはなかった。真ん丸頭の子分を率い、行く先々にひょっこり現れるのは、単に仕返しのための追跡なのか。それとも無軌道な仕業を放っておけず、見守っているつもりなのか。最初はただ目障りで鬱陶しいだけだったのに、近頃は新しい国に足を踏み入れるたび、4色バンダナを探しかける自分がいる。
(どうかしているな)
アックスと関係を結んだのは”××野郎”と罵ったことに対する制裁みたいなもので、所詮つまみ食いのひとりに過ぎなかったはずだ。なのに、これまで予想外に深く関わりを持ちすぎた。相手を調教するどころか、その大らかな人の良さに気が緩み、ひた隠して来た本音を漏らしてしまったことさえあった。苛立ちをストレートにぶつけ、当たり散らすのも、無意識のうちに彼に甘えている証拠だ。己の軽率な行動の責めを受けている以上、いかに辛い行程でも、他人に荷物を背負わせるわけにはいかない。こんな悪循環はもう断ち切らなくては。今回の旅がいい潮時だ。そこまで分かっているくせに、最後に一目だけなんて考える自分の未練がましさに嫌気が差す。本当にどうかしている。



(あ)
取り止めないことをつらつら考えているうち、お目当てのテントがぼんやりと視界に入った。強い西日に照らされ、光を纏った緑の麻布が少し眩しい。勝手知ったる他人のアジトとばかり、入り口からひょっこり顔を覗かせると、色とりどりのバンダナがちゃきちゃき動いていた。
「あ、姐さんだ」
「緑のもいるぞ」
「姐さ〜ん、お久しぶりっす」
声をかける前に呼びかけられた。どうやら子分たちの間ではすっかり白鳳=姐さんが定着したらしい。彼らなりに敬意を表しているだけに怒ることも出来ず、苦笑しながら一同が屯しているところまでゆっくり歩み寄った。
「ボクちゃんたち、楽しそうだね」
「きゅるり〜」
「おいらたち、いつも楽しいっすよー」
「しこたま食って、たくさん寝てるし」
「大好きな親分と一緒だし」
「これで楽しくない方がおかしいっす」
「おー!!」
客観的には決して豊かと言えない状況にもかかわらず、生き生きした面持ちでこう言い切れる子分連中がほんのちょっぴり羨ましかった。いつかスイの呪いが解ける日が来たら、心から人生を楽しむことが出来るだろうか。だけど、将来の夢や希望をいくら考えたところで、今の自分にはifでしかない。敢えて思考を中断すると、白鳳は手に提げていた荷物を差し出した。
「はい、これは私からのお土産」
最初で唯一の。恐らくここを訪れるのも今日が最後だろう。
「う、うわ〜!これ全部お菓子っすか」
「す、凄いっす〜!!」
「こんな色のチョコ、見たことないっす」
大きな袋にぎっちり詰まった職人芸のクッキーとチョコレート。子分たちにも駄菓子との違いが分かるのか、真ん丸ほっぺを紅潮させて見惚れている。
「いきなり全部平らげないで、ちゃんと分けて食べるんだよ」
「あいあいさー!!」
嬉しさを隠そうともせず、拳を振り上げて叫ぶバンダナ連中だったが、ふと赤バンダナのひとりが傍らの小瓶に目を留めた。
「あれ、こっちの瓶はお菓子じゃないっすよね」
「これは親分さんへのお酒。・・・・・そういえば親分さんは?」
テントの中に暑苦しいモップ頭がいないと物足りなく感じるなんて、我ながら理解に苦しむ。いや、今日だけはいても構わないかもしれないが。しかし、緑バンダナの答えは白鳳の失望を誘うものだった。
「昼過ぎに街の下見に出かけたっす」
「きゅるり〜。。」
「そう・・・・・何だかガッカリだな」
いくら子分しかいないとは言え、彼の口からガッカリという言葉が出るあたり、その落胆の程度が知れようというものだ。
「でも、日暮れまでには戻ると言ってたっす」
「じゃあ、もう少しだけ待ってみようかな」
幸い、出航時間まではまだ間がある。未練は承知の上でもやはり顔が見たかった。腰を落ち着けるべく、ショールを外し、ベンチ状の椅子に座ろうとして、不意に4色バンダナが野菜や調理器具を持っていることに気付いた。
「あれ。ひょっとして、ボクちゃんたち料理作ってるのかい」
「はいっす」
「親分の好物のカレーを作るっす」
「帰って来て御飯が出来てたら、きっと親分喜んでくれるぞー」
「頭撫でてくれるかな♪」
「よ〜し、頑張るぞー」
誰もが拳を握り締め、口を真一文字に引き結び、やる気満々だ。自分らの親分を純粋に慕う微笑ましい光景に、白鳳も思わず目を細めた。
「ふふ・・・・・ボクちゃんたちは親分さんが大好きなんだね」
「そうっす」
「親分ほどカッコ良くて優しくていい男はいないっすよー」
「おいらたち全員親分らぶっす〜vv」
子分連中の周囲一面に夥しいハートが飛び交うのが見えた。
「姐さんだって親分のこと好きっすよね〜」
「うん・・・ああ見えて、親分さ・・・っ」
子分からの問いかけをうっかり肯定してしまい愕然とした。いつの間に最悪センスのドレッド&星形バックルが好きなことになったのだろう。昔から並外れた面食いの上、止めどなく贅沢をさせてくれる金持ちが好みだった。モノと体力を抜きにすれば、アックスなんて自分の趣味ともっともかけ離れているはずなのに。
「そ、そんなことより、カレー作るのなら手伝ってあげるよ」
アックスに対する感情を追究されたくないし、自分でも考えるのがイヤなので慌てて話を逸らした。だが、むろんバンダナ軍団は白鳳の揺れ動く気持ちなど知る由もなく、目先の食い物が全てだ。
「やった〜っ、姐さん、一緒に作ってくれるっすか〜」
「待ってる間、手持ち無沙汰だしね」
「きゅるり〜」
「これで美味しいカレーは間違いなしだぞっ」
「親分も大喜びだー」
あんな男に奉仕してやる気はないけれど、邪気のない真ん丸顔が幸せそうににこにこしている眺めは悪くない。さよならの挨拶代わりに、これくらいの置き土産はしてやってもいい。




プロ並みの技術を持つ白鳳が陣頭指揮を取ったおかげで、まろやかな中に程良くスパイスの利いたカレーが出来上がった。滞在国は漁業が盛んということもあり、今日の夕餉は特製シーフードカレーだ。
「香りだけでとろけそうだぞー」
「エビもイカもたっぷりだ」
「きっと親分も気に入ってくれるよなー」
しかし、せっかく会心作が完成したのに、当のアックスはついに戻ってこなかった。すでに日は沈みかけており、そろそろここを出なくては出航時間に間に合わない。
「じゃあ、私はこれで」
「え〜、親分まだ帰らないのにー」
「姐さんも一緒にカレーを食べるっす」
「でも、船の時間に間に合わないから」
「そうっすか・・・・・残念っす。。」
真ん丸頭が一斉にしょんぼりとうなだれる。人質に取られたり鞭でしばかれたこともあったが、今では全員”姐さん”を心から慕っていた。羽ショールを纏い出口に向かう白鳳をわらわらと取り囲んで名残を惜しむ。
「姐さん、いつでも寄って下さい」
「土産ありがとうっす」
「お身体に気を付けるっす」
「緑のもまた来いよな」
青バンダナのひとりがぐりぐりとスイの頭を撫でた。
「きゅるり〜」
「うん、ボクちゃんたちも元気で・・・・・親分さんを・・・大切にしてあげてね」
テントの隅々まで記憶に焼き付けようと、緋の双眸を見開いてじっと眺め遣る様子は子分たちにも妙だと映ったらしい。
「姐さん、どうかしたっすか」
「え」
「なんだか永の別れみたいっす」
「次の街ですぐ会えるっすよねー」
「おいらたち、親分の次に姐さんが大好きっすv」
「・・・・・ありがとう。また会えるといいね」
4色バンダナを慈しむような暖かい笑みを残して、白鳳はテントを去って行った。
「姐さん・・・・・具合でも悪いのかな」
「なんか様子がヘンだったよなー」
短い首を傾げ、子分連中が口々に疑問を投げかけているところへ、ちょうど入れ違いになる形でアックスが戻ってきた。
「おう、野郎ども、今帰ったぞ」
テントの外にまで漂っていたカレーの香りが嗅覚を攻め立て、一気に食欲を煽る。気を抜いていると即座に腹の虫が鳴ってしまいそうだ。
「おめえたち、カレー作ったのか」
「おいっす」
「美味しく出来たっすよー」
「確かにこりゃ美味そうな匂いだ。どれどれ」
大鍋の蓋を開け、素材を崩すことなく丁寧に煮込まれた逸品の眺めに唸らされた。どう考えてもこのレベルのカレーを子分だけで完成させたとは思えない。そう言えば、テーブルに置かれた菓子の包みと酒瓶は何だろう。こいつらの抵抗もなく、これを持参できる人間はただひとり。
「まさか俺の留守中に」
「へい、姐さんが来たっす」
やっぱりそうか。でも、結局顔を合わせることなく、帰ってしまったのか。なぜか肩を落として、ため息をつく自分に気付き、アックスは苛立ちで唇を噛んだ。
「ついさっきまでいたっすよ」
「姐さん、親分がいなくてガッカリしてたっす」
「?」
俺が不在なくらいでガッカリするようなタマじゃなかったはずだが。
「それに何だか様子がヘンだったっす」
「むう」
ひょっとしたら、道中、心が荒む出来事があって、あの夜みたいに行き場のない気持ちを自分に吐き出しに来たのだろうか。会えなかったことで、負の感情を貯め込んだまま、身も知らぬ誰かに対し妙な行動に出なければいいのだが。いや待てよ、直前までいたのなら、すぐ追い掛ければ、間に合うかもしれない。





白鳳を追うと決めたアックスは、子分たちに彼の取った道筋を聞き、先に食事を済ませるよう指示すると、脱兎のごとくテントを飛び出した。
「船の時間って言ってたんなら、間違いなく港だな」
予想通り、港へ続く街道を全速力で駆け抜けていくと、やがて緑の小動物を肩に乗せた銀と紅の鮮やかなシルエットが見えた。
「お〜い、ちょっと待ちやがれっ」
更に加速しながら、後ろ姿に向かって叫んだ。怪訝そうに数度揺れた白金の後ろ頭が、躊躇いがちにちらりと振り向いた。
「親分さん」
「きゅるり〜」
驚きと安堵がない交ぜになった、そして嬉しげにほころんだ笑顔。つられてうっかり自分も笑みを浮かべたことを知ると、アックスは慌てて口元を引き締めた。
「どうしてここに」
「あいつらから話を聞いてよ、ダメ元で追い掛けたんだが、追いついて良かったぜ」
「ふふ、本当にそう思ってくれますか」
染み入るような柔らかい表情を向けられ、不覚にもドキドキしてきた。まさかこんな好意的な反応で迎えられるなんて。なにか企んでいるんじゃあるまいな。
「な、何でえ。おかしいぜ、今日のおめえは」
「そうかな」
微かに視線を落とす風情がどこか儚げで。
「とにかく、船の時間があるんだろ。さ、早く行こうじゃねえか」
「ええ」
連れ立って黄昏の港まで来た白鳳とアックスだったが、船体の点検が長引いたため、出航時間が延びたらしく、桟橋の辺りにはまだ慌ただしい空気は流れていなかった。灯りに照らされた見送りの人混みの中から、神風がこちらに駆け寄ってきた。
「白鳳さま」
「あ、神風」
「白鳳さまが来ないから、皆、もう乗船してしまいました」
見上げれば、他の男の子モンスターはデッキに用意されたカフェ風の椅子に腰掛け、優雅にお茶している。テーブルの上で両手に抱えたケーキを頬張るハチと目があった。ハチはケーキを持ったまま、ぶんぶんと白鳳の傍らまで飛んできた。
「はくほー、遅いぞー」
「ゴメンゴメン。でも、まだ出航には間があるみたいだね」
「30分後だそうです」
「そう。私はこの人と話があるから、神風も先に乗っていていいよ」
「ですが・・・・・」
ハチがケーキの一部をスイに食べさせている。満足げにもごもごと口を動かす弟の仕草に、白鳳の視線も優しい。
「平気さ、乗り遅れたりはしないよ。悪いけどスイを連れて行ってくれるかな」
「分かりました」
神風はまだ不安そうな顔をしていたが、主人からスイを受け取ると、能天気ににぱっと笑うハチを引き連れ桟橋の方へ歩き出した。
「はくほーも早く来て、たくさん食えっ」
「うん、また後で」
小さく手を振りつつ、彼らが船に乗るのを見届けてから、白鳳は改めてアックスの方へ向き直った。
「少し歩きませんか」
「お、おう」
やはり今日の白鳳はどこか違う。優しさと儚さを湛えた端麗な横顔のライン。訝しく感じたものの、こちらから指摘するのもどうかと思い、アックスはすんなりその提案に従った。もっとも、歩くといったところで、せいぜい港に面する市場をうろつくのが精一杯だが。
「へえ、随分木目の細かい織物だなあ。あ、向こうの魚の干物美味しそう」
「ピクルスは日持ちしそうだから買っといても悪かねえな」
貿易の盛んな国らしく新鮮な魚貝類や作物に加え、珍しい民芸品の類も多く並んで、訪れた人の五感を楽しませてくれる。中でも野菜売り場の一角に積み上げてあるオレンジの爽やかな彩りと来たら。
「ふふっ、良い香り」
「あっ、てめえ、何すんだ」
止める間もなく、白鳳は掴んだ小振りの果実に歯を立てた。辺り一面にじゅわんと柑橘の匂いが広がる。突然のことにあっけに取られていると、畳み掛けるような一言が耳に流れ込んだ。
「親分さん、これ買ってv」
「て、て、てめえはっ!!」
いつになく優しげだなんて勘違いも甚だしかった。性悪はどんな時でももれなく性悪なのだ。
「ねえ早く」
「それくらいの金、自分で出せ!!」
「だって、お金は全部フローズンに預けちゃいましたから、今の私は無一文なんです」
「・・・・・・・・てめえ、計画的だな」
「ほら、早く代金を払わないと、おばさんが苦い顔をしてますよ」
「誰のせいだっ!!!!!」
どんなに怒り、喚き散らしても、白鳳は他人事みたいな涼しい顔だ。盗賊のくせにここで開き直ることも出来ないアックスは、やむなくふたりを睨み付ける女店主に代金を払った。
「ったく、てめえってヤツは」
「おや、これまでの恩義に比べたら、オレンジ一個くらいどうってことないでしょう」
「・・・・・こ、こいつ・・・・・」
確かにあわや刑場の露と消えるところを救ってもらった。だが、その前に受けた仕打ちといえば、無理やり押し倒されたり、お宝を横取りされたり、ロクでもないことばっかりだ。なのにこれっぽちも悪びれず、堂々と言い返せる神経には全く恐れ入る。
「それに・・・貴方とこうして話せるのも今日が最後かもしれないし」
「う」
あまりにも唐突な宣告に、驚くより先に胸がきりりと痛んだ。白鳳とこうして他愛ない憎まれ口を交わし、ケンカするのが、いつのまにか当たり前の行事になっていた。




「親分さんはあの船の行く先を知らないんですね」
「ああ?そんなに遠い国なのか」
「ずっとずっと遠く。大河を隔てた大陸の果て」
重く沈んだ深紅の瞳が、いくら何でもそんなところまで来られないでしょう、と暗に語っていた。その感情を殺した面持ちにいっそう胸が締め付けられた。本当は誰よりも寂しがりやなのだ。寂しさに耐えかね、行きずりの相手と一夜限りの関係を結んで、自らをますます寂寥の淵に追い詰めてしまうバカな奴。犯罪まがいに誰彼構わず襲ったりしなければ、容姿と料理の腕は一級品だし、根は可愛いところもあるのだから、特定の相手だってできるかもしれないのに。いや、旅から旅の身の上を思って、わざと恋人を作らないようにしているのだろうか。
(あいつが女だったらなあ、ちったぁ考えても・・・・・って、何言ってんだ、俺はっ!!)
どうも感情移入しすぎている気がしてならない。白鳳の徹底した性悪ぶりはさんざん実感させられたではないか。我ながらお人好しにも程がある。だけど、目の前の萎れた様子を見るともうダメだった。なんとかして元気付けてやりたい。
「おめえ、何か勘違いしてるじゃねえか」
「?」
「そこまで逃げりゃ、俺から仕返しされねえなんて思ってたら大間違いだからな」
「え」
「あれだけこっ酷いことをされたんだっ、てめえをぶっ殺すまではこの世の果てまでだって追い掛けてやるっ!分かったか、ええっ!!」
「本当に?」
仄かに震える声と共に、白磁の面に花が開くごとき笑みが咲いた。市場に点在する灯りを点す紅い瞳も生き生きと輝いて。
「な、何嬉しそうな顔してやがんだっ、てめえは!!」
口では悪態ついたけれど、実のところアックスも一面の笑顔が嬉しかった。しかし、互いのいびつな関係を考えたら、手を取り合って喜ぶわけにもいかず、殊更に口をへの字に形作った。が、どうやら微妙な心持ちはお互いさまらしい。白鳳が紡ぎ出した言葉も直前の感極まった表情とはほど遠いものだった。
「懲りない人ですねえ、まだ私に可愛がられたいなんて。ふふ、いいですよ。いつか会うことがあったら、特別に相手してあげます」
「誰もそんなこたぁ言ってねえだろがっ!!俺はてめえをこてんぱんにぶちのめして、積年の恨みをだなあ・・・・・」
ムキになって絶叫したのも虚しく、相手はマイペースで先を続けた。
「でも、私と寝たいっていう男はいくらでもいるんですから、あまり待たせると貴方のことなど忘れてしまいますよ」
そっけなく言い捨てると、手に持ったオレンジを再び囓る。酸っぱさに一瞬眉をたわめると、ついと顔を上げ、アックスを熱っぽく見つめた。
「な、何でえ」
「だから、私が忘れてしまわないうちに・・・・・早く来て下さいね」
「うおっ?」
蠱惑的な眼差しにたじろぐ間もなく、そのしなやかな腕がふうわりと身体を包み込んだ。驚愕とときめきで不覚にも身震いした。なだらかな肩、薄い胸。外見とは裏腹に、実際は自分より遙かに屈強なハンターなのだが、これまでの関わりで内面の脆さを垣間見た今となっては、独りで辺境の地へ行かせたくなかった。同行する男の子モンスターたちがいなければ、この場で無様に引き止めてしまったかもしれない。
「ねえ、親分さん」
「何だ」
まだアックスの胸板に顔を埋めながら、白鳳はか細い声で囁いた。
「あの船に乗って、私の姿が彼方に消えるまでずっと見ていてくれますか」
「ああ?そりゃあ俺に見送れって言ってんのか」
「どうせ暇なんだからいいでしょう」
「て、てめえはっ・・・・・」
子分がアジトで待っているのを知りながら、しゃあしゃあと言いかけてくるなんて、どこまで自分勝手なヤツなんだ。けれども、先程の憂い顔が浮かぶやいなや、アックスはあっけなく拒絶の術を失った。こいつの暗い表情は見たくない。一旦離ればなれになるにしても、少しでも心が慰められ、安らぐ形で送り出してやりたい。
「分かった。だがよ、今回だけだからなっ」
「うふふ、ありがとう、親分さんv」
「・・・っ・・・」
白鳳はちょっと背伸びして、触れる程度に唇を重ねてきた。その柔らかい感触に加え、口腔と鼻腔から同時に流れ込むきつい柑橘の香りがアックスの頭の芯をじんわり痺れさせ、我知らず腕の中の肢体を掻き抱いていた。




すでに港も市場もすっかり闇の帳に包まれた。重なったシルエットがスローモーションのごとく離れた時、たおやかな手がアックスの掌に食べかけのオレンジを握らせた。
「これはお礼です」
「んなもん、いらねえよ」
「人の好意はありがたく受け取らないとね」
「けっ、何言いやがる」
そもそも自分が買ってやったものではないか。指先で果実を凹ませ、不機嫌な顔付きを隠そうともしないアックス。そんな子供じみた仕草を苦笑しながら見遣る白鳳だったが、デッキから飛んできたハチが時間切れとばかりぐるぐる手を回すのに気付くと、優雅なステップで踵を返しかけた。
「ではまた会いましょう」
「おう」
何度も振り返りつつ、船まで駆けていった白鳳は、船上の人となった後もデッキの最前部に佇んで、直向きにこちらを眺めていた。スポットライトを思わせる甲板の灯りが、風に揺れる銀の束を美しく浮き上がらせる。遠目だから表情までは分からないが、デッキの手すりに肘を突き、小首を傾げるポーズがあどけなく可愛い。桟橋まで出向いたアックスは、彼と約束した通り、遠ざかるシルエットが豆粒となり、完全に認識不能になるまでずっと波間に目を凝らし続けた。
「行っちまったか」
誰にともなく呟いてから、ゆっくりと背を向けた。もうチャイナ服の麗人の名残は、手の中に残る食べかけのオレンジひとつ。
「今度はいつ会えることやら」
彼に告げた内容に嘘はない。自分の目が黒いうちはどこまでも白鳳を追い掛けるつもりだ。とは言うものの、幼い子分連中を抱えての旅はなかなか思い通りにいくものではない。この人数だと旅費や食料の調達だけでも一苦労だ。果たして、彼がいる大陸に辿り着けるのはいつのことだろう。
「くそっ」
ままならない我が身に歯がゆさを感じ、握り締めたオレンジの欠けた部分に牙を立てた。喉に落ちる果汁の滴りと共に、甘酸っぱい匂いが鼻先をつんと掠める。それは形良い紅唇に仕掛けられた甘やかでほろ苦いキスの味がした。



COMING SOOM NEXT BATTLE?


 

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