*優しい瞳の静けさも愛〜5*



「一年前」
そのフレーズだけで、白鳳は頬のあたりがやや強ばるのが分かった。自分の中でセレストへの気持ちの整理が付いてない以上、当時のやり取りを蒸し返されるのは決して歓迎すべき状況ではない。とは言うものの、あの舌足らずなやり取りだけが素での触れ合いだったのだから、彼がこう切り出すのはむしろ当然で。
「・・・・・放してくれませんか。痛いです」
一歩進むと抱擁になりかねない今の状態が居心地悪くて、露骨に身を捩りながらそっけなく言った。
「あ、す、済みません。つい」
自分でも意識せず、なした行動だったのだろう。戸惑いを隠せない様子と共に、慌てて手を放すセレストだったが、すぐに表情を引き締め、再び白鳳を正面から見つめた。
「俺は貴方のことを多少は理解した気になっていたけれど、結局、自分の立場や価値観でしか物を見ていなかった」
「いったい何が言いたいのですか」
彼の発言が予想外の内容だったので、白鳳は訝しげに問いかけた。だが、それには答えることなく、セレストは淡々と先を続けた。
「貴方の仕業はルーキウス王国やこの世界からすれば、忌むべき悪事だったけれど、貴方の心の中の正義にはもっとも適うことだったのに」
「セレスト・・・・・・・」
「ずっと考えていたんです。なぜ、貴方があんなことを言い差したのか」
「あんなこと?」
「私は手段を選ばないけれど、と」
「あれは一時の気の迷いで」
ギルドの二人の誘いに乗った時点で、あらゆる情は封じ込めるべきだった。それが弟のために最上だと思ったからこそ、世界を揺るがす陰謀に荷担する覚悟を決めたのに。彼にだけは嫌われたくなかった。彼にだけは憎まれたくなかった。自分の行動の真の意味をほんのわずかでも理解してもらいたかった。スイのためなら世界を敵に回しても構わないと考えていたはずだったのに、なんとまあ脆く儚い決意だったことか。
「そうではないでしょう」
「え」
「躊躇いながらもあそこまで形にしたのは、何かを俺に伝えたかったから」
「セレスト、その話はもう・・・・・終わったことではありませんか」
「いいえ。俺の中ではずっと続いているんです」
「・・・・・・・・・・・・」
「手段を選ばないのは、全てスイ君を元に戻すため・・・・・そうですよね」
もう白鳳は否定しなかった。以前、セレストに言われたとおり、それが本当のことだから。
「正直、俺はあの時、貴方の境遇に同情していたと思います」
弟のために全てを犠牲にして、偽悪的破滅的に振る舞わざるを得ないこの人が心底、哀れに感じられた。だから軽々しく気の毒な人、などと口にしてしまった。
「でも、後で振り返れば、貴方のような人が俺に同情して欲しくてそんな話をするわけがない。だったら、何のために言いかけたのだろうと」
「だから、気の迷いだったんです。忘れて下さい」
セレストの意図が分からないだけに、一刻も早くこの話をうち切ってしまいたかった。自分が彼に対して甘えを見せたと受け取られても仕方ない、いや事実そうだったに違いない一言。



「スイ君が呪いにかけられて、貴方はすぐ今の過酷な旅を始める道を選んだ」
「当たり前でしょう。私の歪んだ好奇心のせいで弟をこんな目に遇わせて」
布団に覆われた膝の上で、すやすやと静かな寝息を立てる若草色の塊に視線を落とす。成長期にあったスイの貴重な5年間をただ無為に過ごさせてしまった。いっそ替わってやれたら、どんなに良かったか。
「俺は当たり前とは思いません」
「?」
緋の視線と翡翠の視線が交錯して、そのまましなやかに絡み合う。
「現在、どのくらいの種族が生息しているかすら把握していないのに、世界中の男の子モンスターをひとつ残らず集めるなんて、果てしもない作業じゃないですか。もちろん、貴方の限られた人生は全部それに費やされることになる」
「スイの失われた時間を考えたら、何でもありませんよ」
「迷わずそう言い切れること自体が凄いです。誰もが皆、白鳳さんのような決断をするとは限りません」
肉親だって足手まといになると分かった途端、ないがしろにしたり、見捨てたりする人間はいくらでもいる。ましてや自分の生活を何もかも犠牲にして、当てのない旅を続ける選択をする者が果たしてどれだけいることか。当初はそのつもりでいても、終わりの見えない孤独な行程で挫折する場合も少なくないと思われ、最後までその意思を貫ける者はほんの一握りではないだろうか。
「誰の助けも借りずに、未知の国を渡り歩いて、男の子モンスターを捕獲して来た5年間は、この国で安穏と過ごしてきた俺などが想像もつかない、長く厳しい日々だったんでしょうね」
ダンジョンでの闘いは言うまでもなく、情報収集の過程や旅に伴う雑事に関しても、海千山千の連中を相手に、己独りで全てを捌き、決断していかねばならない。強かにもなるだろう。擦れもするだろう。それくらいでなければ、乗り切ることは出来まい。
「俺だったら、肉親がこんな目に遇わされても、即座に厳しい道に踏み出すことを決意して、ひとりで頑張り通せるかどうか」
セレストの両の手が再び白鳳の薄い肩先にかけられた。白金の束に彩られた紅の双眸をひたむきに見つめて、しみじみと穏やかに告げられる言の葉。
「貴方はとても強い人ですね」
「・・・・そ・・・んな・・・・」
そんなことない。自分は長い闘いに疲れ果て、魔に荷担する安直な道を選んだのだ。セレストなら、間違いなく自分と同じ選択をするだろうし、自分なんかより遙かに強く賢く闘い抜けるに違いない。そんな白鳳の内心の葛藤を知ってか知らずか、セレストは涼やかな笑みさえ浮かべ、続きを紡いだ。
「この5年間、貴方は己を犠牲にして、弟さんのために必死に闘ってきた。それ自体は尊く立派なことです。たとえ事情を知らない人間が何を言おうと、貴方はこの月日を誇っていいと思います」
「!!」
「手段の是非や偽悪的な言動など、表面上のことを性急に糾弾する前に、どうしてこの一言が言えなかったんだろうと、ずっとずっと後悔してきたんです。貴方の5年間を否定する結果になって、本当に申し訳なかったと」
「・・・・・セレスト・・・・・」
心の奥の何かがじんわりと溶けていく気がした。彼がこんな言葉をかけてくれるなんて、想像もしなかった。だけど、本音ではこれを望んでいたのかもしれない。彼に同情されたいのではなく、認めて欲しかったのだ。向かう方向こそ正しいと言えなくても、自分なりに全力を尽くして闘って、それなりの結果も出して来た。その事実を理解してもらいたかった。己で招いた結果だから、独りで頑張るのは当然だし、疎まれても憎まれても構わないと思ってきた。けれども、残念ながら、自分はそこまで強い人間ではなかったようだ。心のどこかでこの闘いを誰かに認めて欲しかったのだ。そんな言葉に値しないと承知しつつも、よくやった、よく頑張ったと労ってもらいたかったのだ。
(〜〜〜〜〜〜〜。。)
溶けたものが胸から上にせり上がって来て、涙腺をぐっと緩めるのが分かった。でも、彼の前でそんな醜態だけは見せたくない。ただでも泣くときはひとりで、が信条なのだ。






「・・・・・ねえ、セレスト」
白いパジャマの襟を指で弄ぶ人の、仄かに甘え加減の声が耳を掠める。
「はい」
「私は今、いっそ貴方に縋りついて泣きたい気分なんですが」
「え」
露ほども想定しなかった内容にびっくりして、思わず呆けた声を漏らしてしまった。改めて、眼前の端麗な顔に注目した。緋色の瞳に心なしか霞がかかっている。震える睫毛や唇にも確かにこみ上げる衝動の兆しが見られた。
(まさか)
ここで泣かれたらどうしよう。いや、ここで泣くことはないだろう。そんな対極にある思いがセレストの胸中で幾度かぶつかり合った。
「でも、私の中の何かがどうしてもそれを許さないので・・・・・」
青年の容赦ない視線から逃げるようにぷいと顔を逸らすと、白鳳は消え入りそうな声で付け足した。
「却下、ということで」
俯いたまま、じっと何かを堪えている。一所懸命、涙を我慢しているのだろうか。噛み締められた薄い唇。小刻みに揺れる肩先。きつく握られた拳。そんな様子を見ているうちに、セレストの中にふと妙な感情が芽生えてきた。
(可愛い)
かえってここで縋りつかれて泣かれるより何倍も何十倍も。二歳も年長の同性に向かって、いくらなんでもこれはないだろう、と思う。自分ですら、かつて白鳳にそういう表現をされたとき、決して良い気分はしなかった。なのに今、彼に対して、まさにそんな感情を抱いていた。そもそも、この人に”綺麗””美しい”と感じるのならまだしも、大真面目に”可愛い”などと感じている時点で、すでに人生大きく踏み外してしまった気がしてたまらない。予期せぬ感情への困惑もあって、セレストは部屋のあちこちに視線を泳がせながら、しばらく時をやり過ごしていたが、やがて白鳳がついと顔を上げた。涙の衝動はどうにか修まったらしい。
「済みません。時間を取らせましたね」
「いえ」
でも、ほんのちょっとだけ、縋りつかれて泣かれてみたかったかもしれない。もちろん、そんな素振りはこれっぽちも見せず、会話を再会したが。
「・・・・・貴方が過ごしてきた月日の重みを深く考えもせず、あれこれ偉そうなことを言って、しかもこともあろうに気の毒な人だなどと・・・・・今考えると恥ずかしいです」
「いいえ、あの時の私はセレストにそう言われても仕方なかったと思います」
気の毒な人、と言われて、”幸せな人”と切り返した自分は、彼の境遇に嫉妬していたのかもしれない。大事なものを何ひとつ壊すことなく守り抜いてきた彼は、全てを手中にした人間に見え、自分が惨めに思えた。でも、本当に惨めだったのは、たった一瞬でも、そんな風に考えた己の心根の方だった。自分は恵まれた環境にいるとは言いがたいけれど、もっと過酷な運命に立ち向かっている人だっていくらでもいる。世界各地を旅する過程で、そんなことは分かりすぎるほど分かっていたはずなのに。スイのことだってそうだ。まだ、自力での解呪の方法があるだけ幸せではないか。
「白鳳さん・・・・・」
「だけど気の毒かどうかは、私自身が決めます」
ついつい誰かと比較して、己の状況を判断してしまうけど、本来、幸福や不幸は他者と比べるものではない気がするから。
「え」
いきなり睨み付けるようなきつい眼差しを投げつけられ、セレストは一瞬怯んだ。やはりあの発言は相当、勘に障っていたのだ。しかし、白鳳はすぐに顔を綻ばせて、ゆっくりと言いかけてきた。
「客観的に見ても良いことばかりじゃなかったけど・・・・・でも、貴方に会えたから」
紅の瞳から一途で熱っぽい視線が放たれた。艶やかな風情に心惹かれ、目が離せなくなった。
「セレストに会えたから、私はもう二度と自分の運命を呪ったりはしない」
あまりにもストレートに宣言され、胸にぐさりと何かが刺さった。言葉に詰まって、唇を舐めつつ何度か息を飲む。
「な、何を言うんですか」
「だって、旅を始めなければ、貴方には会えなかったわけでしょう」
にっこりと笑われ、その色香に不覚にも胸がときめいた。一年前と比べて、微妙に雰囲気が変わったのは、きっと顔から険が取れたせい。少なくとも今の彼は不安定な状態から立ち直り、ある種の余裕すら感じられる。けれども、この先も旅が続く限り、きっかけひとつで良からぬ方向に傾く危険を孕んでいることには変わりなく。







「けれども、これ以上貴方が独りで闘うのを見ていられないというのも、また本音なんです」
きっと彼の気分を損ねることになるだろうが、これだけはどうしても言っておきたかった。案の定、白皙の青年の細い眉がきゅっとたわめられた。
「お気持ちはありがたいですが、自力で全てのモンスターを捕らえるのが解呪の条件ですから」
「そういう意味ではなくて・・・・・・・誰かと新たな絆を作ることを考えてみてもいいんじゃないですか」
整った顔が露骨に色をなすのが分かった。しかし、一見不機嫌に見える面持ちのどこかに迷いも滲ませて。
「貴方は何を言いたいのです?」
「ここで今回のことを持ち出すのはずるいかもしれませんが、こうして病に倒れれば、医師なり付添人なりの世話になるわけでしょう。やはり人は独りでは生きていけないものですよ」
「旅暮らしの身につまらないしがらみなんて面倒なだけです」
もはや視線すら合わせて来ない。見えない鎧に護られた真の姿を見失いそうだった。
「だったら、なぜ俺にあんなことを言いかけたんです。それは貴方が独りで闘うことに耐えられなくなったからではないんですか」
「・・・・・・・・・・・・・」
きっと彼の指摘は正しい。5年間脇目もふらず、ひたむきに走ってきたけれど、あの時、ついに疲れ果て力尽きてしまったのだ。今はなんとか持ち直しているけれど、再びそういう状態にならない保証はどこにもない。先が見えない旅路ならなおさらだ。
「別に俺じゃなくてもいいんです。誰か貴方を真に理解して、支えになってくれる相手を見つけて」
「他人に支えてもらおうなんて思いません」
「今のやり方を続けたら、またあの時みたいな状況に陥りかねませんよ」
ウルネリスの化身に誘われたときだって、身近に頼りになる相談相手さえいれば、白鳳もそんな破滅的な選択をしなかったに相違ない。
「おあいにくさま。二度とあんな失態は繰り返しません。とにかく、私は他人の助けなど借りるつもりはありませんから」
せっかくの前向きな提案をあくまでも頑固に突っぱねて。その頑なな様に皮肉のひとつも投げつけたくなった。
「つまらない意地ですね」
「ちっぽけな意地です」
少し俯いて寂しく笑った顔に、彼の真意が映った気がした。この人は全部承知しているのだ。己の弱さも強がる虚しさも。
「そこまで分かっていながら、どうして」
「あなたと違って、私にはこのなけなしのプライドくらいしかないから」
眼前の青年に祈るような眼差しを流すと、白鳳はポツリと呟いた。
「・・・・・どうか張り通させてください」
虚勢も気取りもない。完全に素の表情になっていた。ひょっとしてもう一押しすれば、こちらの主張を全面的に受け容れてくれるかもしれない。が。
(ダメだ。俺には出来ない)
惑う瞳。歪んだ唇。張り詰めた表情。崩れそうになりながら、必死になって己を支える姿は、いつもにも増して細く儚く見え、不意に愛しささえこみ上げてきた。




(・・・・・う〜ん・・・・・)
なんだか不思議な気持ちが湧き起こっていた。直前まではひとりで頑張らずに、肩の力を抜いて、寄りかかってもいいのだと伝えたかったはずなのに、ここまで意地を張られると、逆に最後まで頑張らせてやりたくなってしまった。己独りで試練を乗り切ることが彼の最大の望みだったら、その意思を大事にして、基本的には余計な口出しをせず、じっと見守っていてやりたい。順調な道のりではなかろう。心身共に疲労困憊することもあるだろう。そんな風に彼が本当に窮しているときだけ、さりげなく馳せ参じてやればいいではないか。きっとこの人はいかなる状況に陥っても、助けなんて求めて来ないだろうけど、その時はこちらの意思で勝手に動いて助けるだけだ。
「分かりました。貴方の好きなようにすればいい」
取りあえず、ここは撤退することにした。これ以上、彼が困惑した顔を見るのは辛かった。追い詰めて苦しめることが目的ではないのだ。こちらの望みをはっきり形にした以上、後の選択は彼の心次第だし、今すぐに結論を出すべきことでもなかろう。
「セレスト・・・・・」
内に秘めた本音を揺さぶる言葉を聞くたび、壁の奥で身を震わせていたが、彼は結局、極限まで追い詰めては来なかった。自ら引き下がって逃げ道を残してくれた。本当に優しい人だと思う。自分よりよほど大人だと思う。こんな意地を張り通すことがいかに馬鹿げたことかは十分分かっている。でも、スイのことを考えると、どうしても安直な道は選べなかった。
「私は今までもこの先も誰の助けも受けないし、弟は私ひとりの力で元に戻してみせます」
「そうですか」
眼前の青年の表情が心なしか曇ったように見えた。
「でも」
「?」
話としてはケリがついたのだし、ここで終わりにしてもいい。だけど、何もかも承知の上で、こちらの領域を侵すことなく退いてくれた彼の心遣いを思うと、その忠告を100%拒絶した態度を貫くのは、あまりにも意固地で大人げないような気がしてきた。とは言うものの、相手を壊したり捕らえたり、そんな稚拙なやり方でしか他者と触れ合うことが出来なくなった自分が、他人と揺るぎない絆など作れるのだろうか。もし失敗した場合を考えると、一歩踏み出す勇気が出ない。いつもは高飛車に出て、相手を威圧していても、実際の自分はなんとちっぽけで臆病な人間なことか。
(どうしよう)
しばらくは方針を決めかねていた白鳳だったが、緑の瞳の優しい光が迷う心を後押ししてくれた。他者との自然な接し方や上手い距離の取り方すらおぼつかないけれど、彼を信じて前に踏み出してみよう。思い切って扉の外に顔を出してみよう。
「・・・・・新たな絆については、改めて考えてみます」
「白鳳さん」
これが自分を追い詰めなかったセレストへのせめてもの気持ち。実のところ、自分は彼の前に陥落したのだ。彼の意見の方が正しいと知っているのだ。それでも素直に応えられない愚かなこの身を、彼は黙って見逃してくれた。だから、もうこれ以上、彼との、他者との関係から逃げるのはやめよう。





それから一週間のち。どうにか旅に耐えられる程度に快復した白鳳は、アーヴィング家に別れを告げ、私邸への帰路に向かうことになった。旅立ちの日、アーヴィング夫妻はもちろん、セレストやシェリルも見送りにやってきた。透き通った朝の空気の中、玄関前で和やかに語り合う一同。
「本当に何から何までお世話になりました。このご恩は忘れません」
心なしか頬が痩け気味ではあるが、青白くさえ見えた肌はいつもの雪色に戻っていた。動作も無駄なくきびきびとしており、これならもう心配ないだろう。
「いいえ、慣れないだけに行き届かないことも多かったと思いますよ。でも、元気になって良かったわ」
「道中、十分気を付けてな」
「また機会があったら、遠慮なく寄って下さいね」
「ありがとうございます」
「きゅるり〜」
誰かに温かく見送られることに慣れていないのか、白鳳はやや戸惑いつつも、素直に謝意を表して頭を下げた。その動作に呼応するごとく、スイも高らかに啼き声をあげた。
「セレスト、白鳳さんを国境まで送ってあげなさい」
「分かった」
ここに来たときから、そうするつもりだった。
「カナン様には俺から話をしておこう」
「うん、頼む。さあ、白鳳さん、行きましょう」
「はい。それでは皆さんお達者で」
おっとりと微笑んで、軽く手を挙げると、白鳳は踵を返して歩き始めた。つかず離れずで、その傍らに陣取るセレスト。振り返って、まだ一家が手を振っているのが目に入ると、ショールを押さえながら軽く会釈をした。
「いいご家族ですね」
「どこにでもいる平凡な一家だと思いますが」
「それがいいんですよ」
ふと、彼が両親を早く亡くしたことに思い当たり、不用意な発言に自ら横っ面を張り飛ばしたくなった。が、白鳳は特に気にする風もなく、囁くように小声で切り出した。
「貴方の家に手紙を出してもいいですか」
「え」
「ふふ、実はこっそり住所をメモしておいたんです。旅先から珍しいものでも送ります」
「そんな。そこまでしてもらわなくても」
「いいじゃないですか。私がそうしたいんです」
セレストの実家であろうがあるまいが、アーヴィング家とはさすがにこれで、はいさようならというわけにはいくまい。行き倒れの自分を拾ってくれたばかりか、家族同様に親身になって面倒を見てくれたのだ。絆云々は抜きにしても、世話になりっぱなしでは気が済まない。けれども、それとは別の部分でセレストに会ういい口実が出来たと、ほっとしている自分がいた。特別な存在になることなど、これっぽちも期待していない。こうして顔を見て、普通に話をするだけで新たな力が湧いてくるのだ。スイには申し訳ないと思うが、この既得権を捨てることはもう出来なかった。
「モンスターは捕獲できなかったけれど、今回の旅は非常に有意義なものになりました」
「俺も貴方に会えて嬉しかったです」
抱えていた問題を全て解決することは出来なかったし、噛み合わないままの部分ももちろんある。でも別の環境で異なる人生を過ごしてきた者同士が、そんなにすぐ理解し合えるわけがない。とにかく、お互い率直な気持ちで話をしただけでも良かった。少なくとも一年前のわだかまりは名残すら留めず消え失せていた。白鳳も精一杯本音を語ってくれたと思うし、ほんのわずか歩み寄りも見せてくれた。固く閉ざしていた心の扉を自ら開けてくれた。まだ開きかけたドアから、おずおずとこちらをうかがっている程度の状態ではあるが、それでも大きな進展だ。扉を完全に開いて、姿を見せてくれるかどうかは、これからの努力次第。無理のないペースで徐々に彼の心を解して行けたらいいな、と思う。




心地よい鳥のさえずりを耳にしながら、若葉に彩られた道を連れ立って歩くふたりの前にやがて国境が見えてきた。
「それではここでお別れですね」
優雅な動きで半回転すると、紅いチャイナ服の裾がふわりと翻った。そよ風に靡く前髪をそっとかき上げながら、形の良い唇が歌うように奏でる。
「ねえ、セレスト。私は貴方が好きですよ」
「!」
「凄く、凄く好き」
深紅の瞳に自分が逆さに移るのが見えた。驚きのあまり、締まりのない呆けた顔をしている。それだけ唐突で真摯な告白だった。
「本当はこれを一番伝えたかったのかもしれない」
セレストからふっと視線を逸らすと、白鳳は上空で群れる鳥を目で追いながら、スイの後頭部を優しく撫でた。
「白鳳さん・・・・・」
「何も言わないで下さい」
「しかし」
「貴方の答えは聞いていません。あの時は一夜を共にしてくれたけれど、貴方にそういう趣味がないことはよく分かっているつもりですし」
「・・・・・・・・・・・」
「ただ、諦めずにずっと好きでいさせて欲しいだけなんです」
彼との関係から逃げないと決めたからには、自分の気持ちとも正面から向き合おう。もうごまかしたり、ましてや無かったことにしたりはしない。これはそのための誓いにも似た宣言。どんな顛末を迎えるかは分からないけれど、最後までしっかりと見届けよう。
「言いたかったことを残らず言ってすっきりしました」
吹っ切れたように屈託ない顔で微笑む白皙の美貌。
「白鳳さん、俺は」
その切羽詰まった顔付きから、彼の言わんとする内容を察し、白鳳はぴしゃりと押しとどめた。
「今日はこのままお別れしましょう」
「ですが」
「私にも少しは夢を見させてくれませんか」
理性では悟っていても、この場で愛されてないと告げられるのはさすがに辛い。自分が本気で愛する相手は、決して自分のことなど愛さないような人だから。
「・・・・・分かりました。それなら今日は何も言いません」
ここではっきりと答えを返してやらない自分はなんて優柔不断なヤツだろう。しかし、白鳳に対して抱いている気持ちの正体が未だに掴めていなかった。いや、実のところ、とっくの昔に気付いているくせに、相手が男性だという事実が足枷になって、踏ん切りがつかないだけかもしれない。こんな中途半端な心境で軽々しく応答する方がよほど失礼だし、かえって彼を深く傷つける結果になりかねない。相手が真剣だからこそ、こちらもそれに見合った覚悟を決めて返答すべきなのだ。きっと、もう答えは決まっているに違いない。後はあらゆる固定観念と拘りを捨て去って、逆風に立ち向かう決意を固めるだけ。
「さよなら、セレスト」
「必ずまた来て下さい」
「ええ」
和やかな笑みを交わし合って、最後に握手をした。掌を通して互いの温もりが身体の隅々まで伝わるのが分かった。たとえこの身は離ればなれになろうとも、ゆっくりと、しかし、確実に近づいていく心の距離。軽やかな足取りで遠ざかる紅のシルエットが見えなくなるまで、セレストはその場でいつまでも目を凝らし続けていた。



FIN


 

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