あ行
芦田伸介(1999年1月9日逝去 享年81歳)
「七人の刑事」「氷点」渋い演技派。
テレビドラマ「七人の刑事」などの渋い演技力に定評があった俳優、芦田伸介(あしだ・しんすけ、本名・蘆田義道=あしだ・よしみち)さんが9日午後八時十二分、肝臓がんのため東京都中央区の国立がんセンターで死去した。島根県松江市出身。自宅は東京都港区白金。
昭和12年、東京外国語学校マレー語科を一年で中退して中国東北部(旧・満州)に渡り、昭和13年、旧満州(中国東北部)の大連でチェーホフの「伯父ワーニャ」を見たことがきっかけだった。熱いものが込み上げるのを抑え切れず、新京放送劇団に入団した。その後、森繁久弥さんらとともに満州劇団を結成するが現地で終戦を迎え、22年に帰国。 戦後の22年に帰国して森繁さんと劇団を結成。その後は劇団「民芸」に入って「炎の人」「イルクーツク物語」など舞台を中心に活躍し、25年ごろからは日活映画の常連になり、アクションものを得意とした演技で人気俳優の座を確立した。45年長年籍を置いていた劇団「民芸」を退団し、「芦田プロダクションズ」を設立。 昭和33年、交通事故で重傷を負い、百四十七針も縫うけがを負い、その後遺症から失語症になったこともあったが、芝居にかける意気込みが克服した。顔の傷痕がかえって表情に深みを加え、カムバックに成功。特にTBS系「七人の刑事」(36年〜54年)、NET(現テレビ朝日)系「氷点」(41年)での活躍がお茶の間でも評判となる。「海峡物語」「遥かなるわが町」、映画は「戦争と人間」、舞台は「鹿鳴館」など代表作多数。自伝的エッセー「ほろにがき日々」では文筆の才能も発揮した。平成元年、勲四等瑞宝章を受けた。
三年前に肝臓がんであることをテレビで告白してからも、テレビに舞台に立ち続けたが、入退院を繰り返していた。1998年は19年ぶりに復活した「七人の刑事」に出演、話題を集めた。年末に体調を崩し、12月中旬から国立がんセンターに入院。1999年の東京・明治座での正月公演「初姿次郎長富士」を降板した。
長女、亜子さんは故・松山英太郎さんとの間に男女二児をもうけた。長男の芦田昌太郎さんは大河ドラマに出演。長女の芦田由夏さんも文学座で研修中とのこと。
市川右太衛門(1907年2月25日生まれ 1999年9月16日老衰のため逝去。享年92歳)
◆ 市川右太衛門(いちかわ・うたえもん)本名浅井善之助。1907年(明治40年)2月25日、大阪市西区九条中通りで生まれ。5歳で日本舞踊を習い始め、6歳で初舞台。演技力が認められ2代目市川右団次(市川宗家の弟子筋あたる市川小団次一門の幹部)の弟子となり、市川右一の名で関西歌舞伎界の女形として活躍。若手役者が集まり中村扇雀(先代・中村雁治郎)が座頭で後見人に片岡秀郎さんが中心になった「青年歌舞伎」に参加。この時の仲間には、林長丸(のちの林長ニ郎・長谷川一夫)、嵐徳太郎(嵐寛寿郎)、坂東ゆたか(坂東寿之助)、市川百々之助(もものすけ)ら、で五年間興業するも扇雀が大歌舞伎に戻る事により解散。関西歌舞伎をはたあげる。顔ぶれは市川延蔵、尾上松太郎、女形の嵐徳ニ郎などであり,右一は抜擢され
「勧進帳」の弁慶を演ずる、この時の富樫は『大成駒屋』の初世中村雁治郎です。この勧進帳がきっかけとなり、25年(大正14年)、18歳の時に映画界入りし、日本映画の父といわれた故牧野省三監督が「市川右太衛門」と命名した。歌舞伎の師匠市川右団次の「右」を取ったものだが、肝心の右団次は「大成駒屋(先代の中村歌右衛門)」と同音であることをしきりに気にした。「黒髪地獄」でデビュー。長谷川一夫、嵐寛寿郎、阪東妻三郎、片岡千恵蔵、月形竜之介らとともに無声映画全盛期の看板スターになる。27年(昭和2年)、独立して右太衛門プロダクションを設立し、代表作「旗本退屈男」(原作 佐々木味津三 昭和4年)シリーズに主演。36年、同プロダクション解散。新興キネマ、大映を経て49年、東京映画配給(後の東映)に入社。52年、取締役に選任され、片岡千恵蔵とともに重役スターとして東映の黄金期を支え360本あまりの映画に出演。56年、二男の北大路欣也と「父子鷹」で初共演。家族は妻スエノさんとの間に2男1女。72年紫綬褒章、79年勲4等旭日小綬章を受章。北大路に長く住んでたとこから"北大路の御大”と呼ばれる。
売り物となった退屈男の剣法「諸羽(もろは)流青眼崩し」の刀をぐるりと回して顔の横に引きつける独特の動きや「眉間(みけん)にさえる三日月形、天下御免の向こう傷」も名フレーズも自身で工夫した。
嵐寛寿郎、片岡千恵蔵ら同世代のスターたちが"年輪"をそのまま生かして渋いワキ役に転身していったのに対し、あくまで主役にこだわった。「私の目標は目玉の松ちゃんこと尾上松之助さん(1875〜1922年)です。苦しくても体を張って主役1本で通したからです」と何度も繰り返した。
エピソード
小学校卒業前に芸能界入りした右太衛門さんは二男の北大路欣也に大学進学を強く勧めた。67年3月、北大路は無事早大卒業を決めたが、仕事のため全体の卒業式はでたももの、学部の卒業式は欠席した。進んで代理出席したのが当時60歳の右太衛門さんだ。息子の名前を呼ばれると退屈男ばりの大音声で返事。ひと際大きな拍手を受け、語りぐさともなった。「あの時は照れくさかったですな」。豪快さの中に秘めたそんなちゃめっ気こそ、右太衛門さんの本当の魅力かもしれない。【日刊スポーツ、相原斎さんの記事引用に一部加筆】
東千代之介 (2000年11月9日逝去。享年74歳)
東映の時代劇大スターである、東さんは長唄6代家元の杵屋弥三郎の元に1926年(大15)8月19日、東京・四谷生まれ。暁星小、中学、高校を経て、東京芸大邦楽科を卒業。在学中から花柳徳太郎、藤間勘十郎、故坂東三津五郎に師事して日本舞踊を学び師匠となる。東京芸大邦楽科卒業後、54年に東映に入社。デビュー作「雪之丞変化」で一躍スターに。特に故・萬屋錦之介(当時・中村錦之助さん)とコンビを組んだ「笛吹童子」(54年)「里見八犬伝」(同年)などで日本映画時代劇の黄金時代を築いた。82年に日舞の若菜流を起こし、舞台を中心に活躍。98年には最後の映画出演となった「ザ・ハリウッド」で、元気な姿を見せていた。晩年は子供向け特撮ドラマに出演したり、NHK朝の連続テレビ小説「京、ふたり」ではベテランの演技を見せていた。1000人を超す日舞若菜流の家元として、弟子の指導にも全力を尽くした。
東さんはもともと心臓病と糖尿病を患い、じん臓も1つしかなかった。7年前、脳こうそくで倒れた時は驚異的な回復を見せたが、10月16日にじん臓の機能が悪化して入院。透析などの治療を受けていたが、8日早朝に容体が急変。美千子夫人(当時49)、長男広司さん(当時33)、二男の史弥くん(当時9つ)にみとられながら、静かに息を引き取った。 「ICUに入っても呼び掛けるとこちらの方を見てね―」と美千子さん。先立たれた前妻(39歳の時に女優千之赫子(ちの・かくこ)さんと結婚。1男1女をもうけた。85年に赫子さんが死去した後の87年に、日舞の孫弟子だった24歳年下の美千子さんと結婚。)との間に長男(当時33)、長女(当時30)もいたが、再婚の美千子さんと65歳で授かった二男史弥くんは、睡眠中に蹴飛ばされてもかわいがり、ベタぼれだったという。
法名は、頑固一徹に映画にまい進したという意味を込めて「映徹院釋深照(えいてついんしゃくじんしょう)」と付けられた。
一昨年には俳優人生を振り返る「東千代之介 東映チャンバラ黄金時代」を出版した。
渥美清(1996年8月4日逝去。享年68歳)
さくら、ちょっと出掛けてくらぁ.........
「寅さん」シリーズなどで、国民的な人気を集めた俳優の渥美清(あつみ・きよし=本名・田所康雄)さんが4日午後5時10分、転移性肺がんのため東京都内の病院で死去したことが7日午後分かった。東京都出身。自宅は渋谷区代官山町。密葬はすでに近親者だけでとり行われた。 中学卒業後、劇団に入り、浅草のロック座などに出演。1968年、フジテレビ連続ドラマ「男はつらいよ」に寅さん役で出演。翌年には映画化され、人懐っこいキャラクターの「フーテンの寅さん」こと「車寅次郎」役が受けて大ヒット。以後、山田洋次監督とのコンビで生み出す作品は正月映画には欠かせない長寿映画となった。昨年末に公開された「男はつらいよ 寅次郎紅の花」まで、48作を数えた。49作目が12月に公開される予定だった。芸術選奨文部大臣賞、キネマ旬報主演男優賞などを受賞。88年には紫綬褒章を受賞した。
新珠三千代(2001年3月17日逝去 享年71歳)
新珠三千代(あらたま・みちよ)本名戸田馨子(きょうこ)さん(1930年(昭和5年)1月15日、奈良県生まれ)が17日午後8時35分、心不全のため東京・港区の慈恵医大病院で死去していたことが22日わかった。奈良市小西町で、父が高校教諭の4人姉妹の二女として生まれた。13歳で女学校を中退し宝塚音楽歌劇学校入学。初舞台は46年「グラナダの薔薇」。芸名は、夏目漱石の小説「それから」のヒロイン、三千代からとった。「ハムレット」のオフィーリア、「ひめゆりの塔」の恵子役などで、かれんな美ぼうと歌唱力で娘役スターとして活躍し、有馬稲子、八千草薫とともに「3人娘」と呼ばれた。51年東宝「袴だれ保輔」で映画デビュー。55年に宝塚を退団。日活に入社して映画女優として活躍、月丘夢路、北原三枝とともに看板スターに。57年に東宝に移籍。59年スタートの6部作「人間の条件」でブルーリボン助演女優賞。東宝「社長」シリーズも数多く出演。テレビ界に進出して66年のNET(現テレビ朝日)「氷点」の夏枝役、日本テレビ系「細うで繁盛記」(1970年(昭和45年)から73年まで放送。伊豆・熱川温泉の旅館に嫁いだ新珠さん演じる加代の奮闘記。【原作:花登 筐】加代は、小じゅうとらにいじめられながらも弱小旅館「山水館」を大手チェーンに育て上げる。共演は夫役の滝田裕介、義妹役の冨士真奈美、加代の恋人役の高島忠夫ら。平均視聴率は28・1%で、40%を超える回もあった。)で人気を決定づけた。舞台も「細雪」の二女は当たり役。本名を恭子、靖子、馨子と変えた。実妹乃理子さんは元女優の桂典子。
最近では映画やテレビ出演は少なく、舞台を中心に活躍。最後の仕事は、昨年11月東京・銀座で開かれた朗読会「ハロルドとモード」で、文学作品を張りのある声で読み上げていた。平成6年12月には大阪の劇場飛天で「女たちの忠臣蔵」で浅野内匠頭の妻を演じたが、体調を崩し途中降板。虚血性心筋症で3カ月間、入院した。その後は1、2年前から腰痛を訴える以外、健康な様子だったといい、自宅で静養していた。仕事と私生活をはっきりと区別する人で、仕事が終わるとすぐに自宅に戻る生活だった。プライベートを全く明かさず、独身のまま生涯を終えた。
アレック・ギネス (Alec Guinness 2000年8月5日逝去 享年86歳)
映画「戦場にかける橋」や「スター・ウォーズ」で知られる英国の名優、アレック・ギネス氏が五日午後、英国南部のウェストサセックス州ミッドハーストにある病院で死去していたことが七日、明らかになった。ギネス氏は1914年4月2日
イギリス・ロンドンに生まれ。広告会社勤務後、演劇学校に入り、1934年、ロンドンのプレイハウス劇場「Libel」の通行人役で初舞台を踏んだ。その後オールド・ヴィク座を中心に活躍して英国を代表する俳優となる。46年に巨匠デビッド・リーン監督の「大いなる遺産」で本格デビュー。「オリヴァ・ツイスト」(48年)、57年の「戦場にかける橋」では早川雪洲ふんする日本軍の捕虜収容所長と対じする英軍大佐(ニコルソン大佐役)を好演し、アカデミー主演男優賞を受賞した。「アラビアのロレンス」(62年)「インドへの道」(84年)などの名作では、知的でナゾめいた役柄を演じ、世界的スターとしての地位を確立。ヒトラーからハムレットまで演じる変幻自在の演技で「千の顔を持つ」といわれた。 一方、ハリウッド大作「スター・ウォーズ」(ジョージ・ルーカス監督、77年)シリーズの共和国騎士オビワン・ケノービ役で、若い世代の人気をつかんだ。59年に“サー”の称号を贈られた。38年に女優メリューサ・サラマンと結婚、舞
台俳優の一人息子がいる。さまざま
な役柄に挑戦
し、安定した演技力と独特の存在感を見せていた。
リンク先英語です
淡谷のり子( 1999年9月22日老衰のため逝去。享年92歳)
「別れのブルース」「雨のブルース」などのヒット曲を持つ歌手淡谷のり子(本名淡谷のり)さんが22日午前4時30分、老衰のため東京都大田区内の自宅で死去していたことが25日、分かった。淡谷さんは今夏の猛暑で体調を崩し、家族たちに見守られ息を引き取った。「ひっそりと送ってほしい」の遺志で死去は伏せられ、この日、都内で親族だけで通夜が営まれた。約70年、戦前、戦後を通じて日本の歌謡界を生きたブルースの女王が、現役歌手のまま静かに逝った。
生涯現役を貫いたブルースの女王が、ひっそりと旅立った。今夏の猛暑で体調を崩していた淡谷さんは、22日早朝、同居していた妹のとし子さん(当時90)や1人娘の奈々子さん(当時60)夫妻らに見守られ、東京都大田区上池台の自宅で、眠るように静かに息を引き取った。取材にとし子さんは「とても穏やかな顔でした。ファンの皆さまには、本当にありがとうございました」とだけ言葉少なに話した。
事務所関係者によると、淡谷さんは1993年(平成5年)に一過性脳虚血で倒れてからは、車いすでの生活を余儀なくされてきた。一時は復帰したものの、最近は体力もなくなり寝たきりの状態だった。さらに今夏の猛暑が食欲も奪い、衰弱していった。それでも、先月12日にはベッドの周りで92歳の誕生会が開かれ、ハッピーバースデーの曲に淡谷さんは笑顔でこたえたという。
淡谷さんは子供のころから歌が好きで、東洋音楽学校(現東京音大)にクラシック音楽を学ぶために進学。絵のモデルのアルバイトをするなど、苦学の末に首席で卒業。「10年に1人のソプラノ」と言われたが、クラシックでは生計が立たず、29年に歌手デビューした。 流行歌を歌ったことで母校の卒業生名簿から除籍される悲哀を味わったが、37年に「別れのブルース」が大ヒット。圧倒的な声量で人気を集め、その後も「雨のブルース」など、哀調を帯びたブルースものが次々とヒットして「女王」の冠がついた。もっとも、本人は「私の場合のブルースは単にタイトルで、黒人音楽とは全然、別もの。間違っちゃいけませんよ」と語っていた。
津軽ジョッパリ
歌手として人気が出る一方で、津軽のジョッパリ(強情張り)精神に支えられた反骨精神や強固なプロ意識は、世代を超えて共感を呼んだ。軍国主義一色の中でも、濃い口紅やパーマを愛国婦人会のメンバーに非難されると「歌手の化粧はぜいたくではありません」と反論。戦地での慰問公演では、退廃的と発売禁止になっていた「別れのブルース」などの外国曲を堂々と歌った。39年には未婚で1女をもうけていたことを公表するなど、奔放な行動ぶりも注目を集めた。
アンソニー・クイン(ANTHONY QUINN 2001年6月3日逝去。享年86歳)
個性的な風貌と性格俳優で2度のアカデミー助演男優賞を受けたアメリカ俳優、アンソニー・クイン(本名、Anthony Rudolfo
Oxaca Quinn)がボストン市内の病院で死去した。
メキシコのチワワで、アイルランド人の父と,メキシコの母親の間に1915年4月
2日生まれる。少年時代にアメリカのロサンゼルスに移住。父が死去したため、靴磨きなど様々な仕事をして、家計を支えた。映画デビュー当初はギャングなどの端役が多かったが、プロードウェーの舞台で注目され、'52年の「革命児サパタ」でアカデミー助演男優賞。
'54年にはイタリアに渡り、フェリーニ監督の「道」に主演。粗野で獣性むき出しにした大道芸人の役で、一躍世界的なスターとなった。'56年の「炎の人ゴッホ」で2度目の受賞。
その後も「アラビアのロレンス」などに出演、メキシコ人を始め、ギリシャ人・イタリア人・バスク人・アラブ人など幅広い役柄を演じ、出演作品は100本を越える。
当り役、「その男ゾルバ」'64年はミュージカル化され、再演の舞台に出演した。'90年代にはいっても、「雲の中で散歩」などで活躍した。
石ノ森章太郎(1998年1月28日逝去 享年60歳)
「サイボーグ009」や、「仮面ライダー」などのヒット作を生んだ漫画家の石ノ森章太郎(いしのもり・しょうたろう、本名・小野寺章太郎=おのでら・しょうたろう)さんが、28日午前二時三十三分、リンパ腫(しゅ)による心不全のため東京都文京区の順天堂医院で死去した。宮城県出身。自宅は東京都練馬区桜台。
故手塚治虫さんに師事し、宮城県立佐沼高校在学中に「二級天使」でデビュー。昭和31年、高校卒業後に上京、藤子
不二雄さん、赤塚不二夫さんらが集まったアパート「トキワ荘」に住み、本格的に漫画をかき始めた。そこでの友情と競争が後に日本の漫画全盛時代を築くことになった。手塚さん、藤子・F・不二雄さん(藤子不二雄の一人)に続いて石ノ森さんが亡くなり、青春時代を漫画で埋め尽くした「トキワ荘」世代が消えていく印象が強い。 昭和39年から「週刊少年キング」に連載したSF漫画「サイボーグ009」は背景にベトナム戦争を描いた。最終章は構想を練り直すため中断、「必ずかく」と宣言していたが未完になった。この作品で人気を得て、「佐武と市捕物控」「幻魔大戦」などの名作を次々に発表した。とくに、人造人間を主人公とする「仮面ライダー」はテレビシリーズ化され、ウルトラマンと並んで子供たちのヒーローとなった。
少年漫画だけでなく、多様なジャンルで活躍。「マンガ日本経済入門」は二百万部を超えるベストセラーになり、「マンガ日本の歴史」(全五十五巻)にも取り組んだ。青年誌「ビッグコミック」には、人間模様を巧みに描いた「ホテル」を連載。
作品は単行本だけで四百冊を超え、多彩な漫画家という意味で自らを「萬画家」と呼んでいた。亡くなった石ノ森章太郎さんは、故手塚治虫さんと並び、物語性豊かな日本漫画の基礎を築いた。
発病したのは平成4年7月、その後、入退院を繰り返した。「だれにも話さないでくれ」。昨年夏にごく近しい人には病気を告白したが、退院すれば普通に振る舞った。
ヴィンセント・エドワーズ(Vince (Vincent) Edwards1996年3月11日逝去 享年67歳)
1928年ニューヨーク・ブルックリンに生まれる。父親はブルックリンにレンガ工で七人兄弟姉妹。膵臓癌により死去。ヴィンス氏は東ニューヨーク(East
N.Y.)の職業のハイスクール(Vocational High
School)での航空機整備士の勉強しました。彼はそこで水泳チームのキャプテンでした。14歳の頃、彼は水泳場救助員として夏をすごしました。その優れた水泳選手の能力でオハイオ州立大学への奨学金を得、ニューヨーク州チャンピオン、さらに1947-1948全米水泳チームのメンバーでした。ヴィンス氏はさらにハワイ大学に通いそこでの多くはアマチュアの芝居に専念し、大学を中止し演技術に専念することになりました。そして、エドワーズ氏は、1940年代にステージで演じ始めました。また、エドワーズ氏は1950年代に映画に、およびテレビ上で活躍しましたが、1961-66
ABCのシリーズ「ベン・ケーシー」の暗くハンサムなケーシー博士役として、エドワーズ氏はテレビ・アンチヒーローを演じて、一躍スターになりました。:当時は「ドクターギルモア」「外科医ギャノン」などの医者者シリーズが多くTVで放映されましたが、最初は「ドクターキルデア」に取られたものの第2シーズンには抜き去りました。「♂(男) ♀(女) (誕生、記号が無い) †(死亡) ∞(そして無限)」の出だしは今でも、インパクトがあります。
「ヘ゛ン・ケーシー」リンク
ウォルター・マッソー(Walter Matthau 2000年7月1日逝去 享年79歳)

コメディー映画「恋人よ帰れ!わが胸に」(1966年)や「おかしな二人」(68年)などで知られる米俳優のウォルター・マッソー氏が一日、心臓発作のため、カリフォルニア州サンタモニカの病院で死去した。
1920年10月1日、ニューヨークで移民の子供として生まれ、第二次大戦後、舞台俳優となり、55年に映画デビュー。ジャック・レモンと共演したビリー・ワイルダー監督の「恋人よ…」で、アカデミー助演男優賞を受賞。レモンとコンビを組んで女房に逃げられた二人の男性を演じた「おかしな二人」で、スターとしての地位を不動のものとした。「がんばれ!ベアーズ」(79年)では、少年野球チームを立て直した監督役を熱演するなど六十本近くの作品に出演した。
ジャック・レモンとウォルター・マッソーのリンク英語です
宇野千代(1996年6月10日逝去。享年98歳)

長編「色ざんげ」や「おはん」などで知られる文壇最長老の作家で、文化
功労者・芸術院会員の宇野千代(うの・ちよ)さんが10日午後四時十五分、急性肺炎のため東京都港区の虎の門病院で死去した。山口県出身。自宅は東京都港区南青山。 明治30年、山口県岩国市生まれ。岩国高女卒後の大正10年、「脂粉の顔」でデビューし上京。作家の尾崎士郎、画家の東郷青児と同せい、結婚を繰り返し、昭和10年の「色ざんげ」や「別れも愉し」「未練」で評価を確立した。同11年、当時結婚していた作家、北原武夫とともに女性雑誌「スタイル」を創刊。自身がモデルもしました。モボ・モガが闊歩した時代の、まさに寵児でした。
戦後、男の性の妄執を描いた代表作「おはん」を書き継ぎ、昭和32年、野間文芸賞や日本女流文学賞を受けた。古希を過ぎてからも健筆ぶりを示し、76歳で北原への鎮魂歌「雨の音」を発表。85歳で新聞連載した大河自伝小説「生きて行く私」は、単行本が百万部を超えるベストセラーとなった。昭和47年、芸術院会員。同57年、第三十回菊池寛賞受賞。平成2年には文化功労者にも選ばれた。
エリック・フレミング(Eric Fleming 1966年9月28日逝去 享年41歳)
1925年7月4日、カリフォルニア・サンタモニカ生まれ。
連続テレビ番組「ロー・ハイド」(CBS TV,日本ではフジTV'59.11.28〜'65.3.28)の隊長役のギル・フェーバー(南北戦争の南軍の元軍人)で有名となり日本でもおなじみのフレ
ミング氏は、俳優になる前は、商船のメンバーで、第二次世界大戦中の太平洋で貢献し、設営部隊員中のマスター大工、新聞売り子、鉱夫、救急車ドライバー、即席料理コック、ウェイター、ソーダの売り子、油田非熟練労働者、裏方、煉瓦職人の助手および舞台助監督など色々な職業を経験しました。その後、舞台演奏、B級映画俳優、そして、TVでの成功。彼は、ハワイへ引退することを決定したが、彼の死に結びついた1966年の「High
Jungle 」(MGM とCBS)の撮影中に事故死しました。
エピソード
ロディ役で出てたクリント・イーストウッドは、その後”マカロニ・ウエスタン”で一躍有名になり、再びハリウッドに戻り、今や大スターとなりました。ウィッシュボンの爺さんの吹き替えをやっていた永井一郎はこのときまだ20代だった、"磯野波平"をやっている声優サンです。
Eric Fleming リンク ロー・ハイドのテーマ曲のリンク
オイゲン・キケロ(EUGEN CICERO 1997年12月5日逝去。享年57歳)

オイゲン・キケロ氏(ジャズ・ピアニスト)5日、スイス・チューリヒの自宅で死去、ルーマニア生まれ。ドイツのDPA通信によると、4歳からピアノを始め、10歳でラジオコンサートでデビュー。18歳でジャズに転向し、アンサンブルを結成。東欧圏で成功を収めた後、西欧諸国を巡業。日本でも演奏会を開いた。バッハに限らず、クラシック曲をジャズ風にアレンジした独特の演奏で人気を博し、「ミスター黄金の腕」の異名をとった。この十年はチューリヒで過ごした。
大泉 滉(1998年4月23日逝去 享年73歳)
口ひげと特異な存在感で知られる俳優の大泉滉(おおいずみ・あきら)さんが23日午前十一時十三分、肺がんのため東京都立川市の立川相互病院で死去した。
大泉さんは大正14年1月1日に東京で生まれる。祖父は本人いわく、ロシアの貴族とも外交官ともいわれてる。父はロシアの文学者、大泉黒石。小学校5年のとき、児童劇団に入る。城西学園中退後、昭和15年、映画「風の又三郎」で初出演。昭和21年、文学座入り(昭和29年退団)し、二枚目俳優として活躍。昭和26年、映画「自由学校」で"イカレポンチ
の隆文"にふんし、一躍その名を高めた。以後、独特の風貌と、ひょうひょうとしたキャラクターを持ち味に個性派俳優として重用され、がんに倒れるまで、貴重なバイプレーヤーとして活躍した。当たり役はテレビドラマ「モッキンポット師の後始末」のモッキンポット神父役。このドラマで「トンデモハップン」という言葉をはやらせた。家庭菜園研究家としても有名だった。東京・国立の自宅での家庭菜園は有名で、手作りの無農薬野菜は不格好でも味は抜群だった。近所にも評判で、葬儀では多くの市民も、別れを惜しんだ。
3年前の食道がんの手術後は健康を取り戻したのに、昨夏、再び体調を崩し、今年2月、肺がんの告知。放射線治療の一分間を、十倍にも百倍にも感じた。治療から戻ると真っ青だったが、再起への思いがあった。「苦しそうな顔は見せなかった。三十三年連れ添った女房に対してさえ、役者根性を貫いたと思います」と妻、道子さん(当時55)。夫婦共演のテレビ番組では恐妻家を演じたが、実は愛妻家だった。「ありがとう」の言葉を、いつも絶やさなかった。
無類の酒好きで、銀紙を巻いたビールを、アフレコ現場に持ち込んで時折ラッパ飲みしたり、畑仕事の合間にはびんを土に埋め、掘り出して飲んでいたという。
「暖かい五月になったら…」遠ざかってしまった畑の土に、いつも思いをはせていた。「ぼくトマトやキュウリ、また作るからね」。入院した今月十日、近所の人に、そう言い残していた。
大川橋蔵(1984年12月7日逝去。享年55歳)
手錬の投銭で悪を懲らすテレビドラマ「銭形平次」の平次親分役で、お茶の間の人気を集めた時代劇の二枚目俳優、大川橋蔵(おおかわはしぞう、本名・丹羽富成・には とみなり)さんが7日午前1時25分東京・千駄木の日本医大付属病院で亡くなった。自宅は左京区北白川。大川さんは、「銭形平次」終了後のさる五月初旬、急性肝炎が悪化して、東京・聖路加病院に入院。六月の明治座公演や地方公演をすべて中止し,静養に励んでいたが思うように回復せず、来年三月,帝劇で中村勘三郎や佐久間良子らと「浮舟」に共演する予定もキャンセルしてた。
大川さんは昭和9年、市川男女丸として四歳で歌舞伎座の初舞台を踏み、尾上菊五郎の妻・丹羽千代さんの養子となって、19年にニ世大川橋蔵を襲名。女形として約二十年間、歌舞伎の舞台をつとめた。
その後、30年に「笛吹若武者」で東映から映画スターとしてデビュー。「若さま侍捕物帖」「新吾十番勝負」なと、次々と当り役を作り、中村錦之介(現萬屋錦之介)と並ぶ東映時代劇の美男スターとして、百本以上の映画に出演した。40年にはテレビに進出する。十手をかざした投銭姿が看板の「銭形平次」(原作 野村胡堂【銭形平次捕物控】 昭和6年)は、昭和41年5月から59年4月まで17年11カ月、888回にわたる
もので、ギネス・ブックで「テレビの1時間番組世界最長出演」と認められた。(投げ銭や立ちまわりは、同じ役を演じた長谷川一夫さんが直々に伝授した)この間に最高視聴率35.5%(42年9月6日、ビデオ・リサーチ調べ)を記録。茶の間の幅広いファンに親しまれる一方、歌舞伎座を中心とする舞台公演でも多くのファンをひきつけてきた。 その第1作から11年間撮影を続けた佐々木康監督は語る。「最後まで平均5日に1本という重労働の上に、年3回、東京と大坂で舞台公演をつづけてきたから、ほとんど休みがない。それでよく撮影の間にはセットの片隅で、椅子に腰かけ、顔に布をかぶって眠っていました。しかし出番がくるとパッと起きて、長いセリフの芝居をやっていました」。大川橋蔵は昭和58年9月ごろから体調悪く、入退院を繰り返しながら、番組が終わった昭和59年の11月25日に入院した。この最後の入院のために家を出るとき、玄関先に椅子を出させ、家じゅうの電灯をみなつけさせて、それを眺めてから車に乗った。病名は結腸ガンで、すでに肝臓に転移していた。彼には直接知らせなかったが、しかし彼は「おれは自分の病気を知ってるんだ」といい、また医者に、「大酒も飲まず煙草も喫まず、食事にも気をつかい、いつも腹に健康帯を巻いてきた私が、なぜこんな病気になったんです」といった。もっとも橋蔵は妙に凝り性のところがあって、天丼が気に入ったら天丼ばかり、1年以上、昼飯に天丼を食い続けたことがあったという。12月4日、突然橋蔵は、「おれの命はあと3日だ」といった。そして7日午前1時29分に死んだ。棺には平次用の十手と投げ銭がいれられた。葬儀で、未亡人となった妻の真理子は、「主人はたった1つの宝はお前だといってくれました。主人の楽しみは女房をきれいにして連れて歩くことだ、と常にいってくれました。ほんとうに幸せでした。日本一の主人でした」と、芝居掛かった挨拶をしたが、それは烈しい恋愛合戦の末に祇園の芸妓から橋蔵の妻となった彼女の、かつてのライヴァルたちに対する勝利宣言であったろう。
オードリー・ヘプバーン(Audry Hepburn 1993年1月20日逝去 享年64歳)
1929年5月4日 ベルギー ブリュッセル生まれ。本名エッダ・キャスリーン・ヴァン・ヘームストラ・ヘプバーン−ラストン(Edda
Kathleen van Heemstra Hepburn-Ruston)父はイギリス人で銀行家、母はオランダ人。ベルギーで生まれた彼女は、9才からバレーを習い出す。10才のとき、オランダに移住するが、第2時世界大戦にまきこまれ、ドイツ軍に叔父を殺される。その少女期をつらい戦争とともに歩ゆむ。彼女は、アンネ・フランクと同じ年でした。そして、アンネ・フランク同様、ナチス占領下で九死に一生を得る。1948年ロンドンに移りバレエ学校に入る。
48年から映画に出演し、52年の『初恋』で初主演を飾る。翌53年の『ローマの休日』でアン王女を演じてアカデミー主演女優賞を受賞、世界中で
「 オ〜ドリ〜カット」がたいへん流行し、世界中で人気が高まった。麗しのサブリナ(54)では、衣装を作るために、パリのジバンシーをたずねる。ジバンシーは「ヘップバーン」が来るというので、「キャサリンヘップバーン」が来ると思って楽しみにしていた。しかし、ドアをあけて入ってきたのは、オードリーであった。この、
ジバンシーとの出会いがなかったら、オードリーもここまで輝かなかったかもしれない。ジバンシーなしでは彼女の映画は語れないと思う。それ程、ジバンシーの衣装はオードリーを引き立てた。この作品の中で彼女が着ていたトレアドルパンツにフラットシューズは大評判になり、サブリナルックとして日本でも大流行した。以後、ティファニーで朝食を(61) シャレード(63)マイ・フェア・レディ(64) おしゃれ泥棒(66)などを演じ、映画ではオールウェイズ(89)が最後となった。映画出演は少ないものの、彼女の優雅さは絶えずファンを魅了し続けた。オードリーは晩年、国連親善大使を引き受け、ほとんどの時間をそれに費やしました。ソマリヤで飢えに苦しむ子供を抱きしめながら、その惨状は彼女の想像をはるかに超えていたそうです。自分が戦争を体験していたときのことを思い出していたのかもしれません。そして1993年1月20日、オードリーは癌のためその生涯を閉じました。彼女の死を発表したのは国連でした。
スイスはローザンヌの隣のトロシェナ村にある「ヘプバーン記念館」そこはヘプバーンが後半生の30年住んだ、人口わずか700人のこの村に、小さな建物が建っています。トロシェナ村の村民が「最も偉大な仲間の1人」のために建てた記念館には、映画のポスターやアカデミー賞のオスカー像、ソマリアなどアフリカ難民キャンプでの写真が展示されています。その入場者のほとんどは日本人だそうです。日本での圧倒的な人気を裏付ける結果でしょう。もし、ここを訪れることがあったら、記念館の近くにある彼女のお墓にお参りすることも忘れないでください。
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