さ行

沢村貞子(1996年10月16日逝去 享年87歳)

 元女優でエッセイストとしても知られる沢村貞子(さわむら・さだこ、本名・大橋貞子=おおはし・ていこ)さんが心不全のため、16日午後十時ごろ神奈川県横須賀市の自宅で死去していたことが18日、分かった。葬儀・告別式は故人の遺志で行わないという。
 東京・浅草生まれの素敵な江戸っ子。日本女子大学師範家政学部中退。昭和4年、新築地劇団に入団。九年、日活京都撮影所に入り「潮」でデビュー。名わき役として評価され、主な出演作品は、31年に毎日映画コンクール女優助演賞を受賞した「赤線地帯」、「西鶴一代女」「太陽とバラ」など。
俳優の長門裕之さん、津川雅彦さん兄弟はおいにあたり、故加東大介さんは弟。52年に日本エッセイストクラブ賞を受賞した「私の浅草」が翌年、NHK朝のテレビ小説「おていちゃん」としてドラマ化された。
 生前から「死んだら、夫(平成6年に亡くなった放送評論家の大橋恭彦さん)の骨と一緒に砕いて相模灘に流してほしい」と周囲に話していた。 海や山に遺灰をまく自然葬を実施する、「葬送の自由をすすめる会」の顧問を務めていた
遺族の手によって、故人の遺志通り相模灘に散骨されていたことが29日、明らかになった。 沢村さんの死後、身内として「秋のいい日を選んで骨を撒いてあげたい」と話していた沢村さんの甥で俳優・津川雅彦が28日、都内で行われたテレビドラマの試写会に出席し、語ったもの。時期など詳細については明言しなかったが、遺族だけで沢村さんの散骨式を済ませたという。 沢村さんは1995年11月、最後に出版したエッセーの中で「私も骨になったら、あなた(夫・大橋恭彦さん)の骨と一緒にして海に投げ込んでもらいましょう」と夫婦の会話を記していたように、散骨は沢村夫妻の生前からの強い希望だった。 6年前、女優を引退してからは、大橋さんと相模灘の見渡せるマンションに移り住み余生を送っていた沢村さん。一昨年7月、大橋さんが心不全で亡くなった後も、夫婦の約束を守り、大橋さんの遺骨は墓に納骨せず、自宅の居間に飾って「その日」を待っていたほどだった。散骨式では沢村さんの遺言通り、最愛の夫・大橋さんの遺骨も一緒にまかれ、夫婦で大好きだった海に還った。

ジーネット・ノーラン(Jeanette Nolan1998年6月5日逝去 享年86歳)

 ジーネット・ノーランさん(米国の女優)5日、脳卒中で倒れ、ロサンゼルスの病院で死去、カリフォルニア州出身。 70年以上にわたり、ラジオ、映画、テレビなどで個性的な役者として、西部劇からミステリーまで幅広く活躍した。300以上のテレビ番組に出演し、エミー賞に4回ノミネートされた。映画の代表作は「マクベス」(1948年)で、監督・主演のオーソン・ウェルズと共演した。最近では米で公開されたばかりの「ザ・ホース・ウィスパラー」で、主演のロバート・レッドフォードの母親役を演じた。(共同)

ジミー 時田(2000年3月10日逝去 享年63歳)
 ジミー 時田氏(じみー・ときた=歌手、本名・時田圭介=ときた・けいすけ)10日午前7時35分、肺炎のため東京都杉並区の荻窪病院で死去、63歳。東京都出身。自宅は杉並区阿佐谷。1936年生まれ。青山学院高等部在学中にウェスタンランブラーズに加入、米軍キャンプを回り、プロの第一歩を踏み出す。青山学院大学在学中にマウンテンプレイボーイズの前身を結成。マスコミ界、学生に圧倒的な支持を得る。タレントのいかりや長介さん)、エレキギターの名手、寺内タケシさんがメンバーだった 、又、歌手の尾崎紀世彦さんらが世に出た。
42年から2年間は、アメリカ国内でコンサートを行い、TV ラジオにハンクスノウ、マック・ワイズマンらと共に出演。活躍を認められデンバーで開催されるANNUAL MUSIC FESTIVALで受賞。日本人離れした英語力と歌の表現力は全米のアーティストが認めるところで高く評価されている。レパートリーは五千曲とも言われ、本場の歌手顔負けのボーカルは、ジャズなど他ジャンルの歌手にも影響を与えた。 2月12日に東京都内で行われたライブが最後のステージになった。若い時から酒を愛したが、近年は肝臓などをかなり悪くしていたようだ。ライブの六日後に体調を崩して入院。肺炎を併発し、眠るように息をひきとった。告別式にはテンガロンハットをかぶった仲間ら約五百人が駆けつけた、参列者みんなで歌ったのが「ユー・アー・マイ・サンシャイン」(君はぼくの太陽だ)。春の陽光が降り注ぐ中、参列者たちは涙をこらえながら棺の中に花をささげ、別れを惜しんだ。

ジャック・レモン(Jack Lemmon 2001年6月27日逝去 享年76歳)
Apartment, The" Jack Lemmon, Shirley MacLaine 1960
Jack Lemmon 1998米国の映画俳優ジャック・レモン(本名John Uhler Lemmon III)は1925年2月8日、ボストン(マサチューセッツ)のエレベータの中で生まれる。舞台俳優だった父(ドーナツ会社の社長)の影響を受け、小さい頃から舞台に立った。ハーバート大学でWar Service Sciences)の学位をとり、'50年代からラジオ・テレビ・舞台で活躍する。'54年に「It Should Happen To You」で映画デビュー。'55年の「ミスター・ロバーツ」で、早くもオスカー(アカデミー助演男優賞)を受賞。"Some Like It Hot" Jack Lemmon and Marilyn Monroe 1959
その後、ビリー・ワイルダー監督と出会い、「お熱いのがお好き」'59年、「アパートの鍵貸します」'60年などでコミカルな中にも悲哀をにじました演技で評価を受けた。
"Buddy Buddy" Jack Lemmon, Billy Wilder, Walter Matthau 1981 また、「恋人よ帰れ!わが胸に」'66年からのウォルター・マッソーとの名コンビぶりは晩年の作品まで続いた。'73年の「セイブ・ザ・タイガー」で念願のオスカー(アカデミー主演男優賞)を獲得。70年代からはシリアスドラマに新境地を開き「Kotch」'71年では監督を、「チャイナ・シンドローム」'79年と「ミッシング」'82年でカンヌ映画際主演男優賞を受賞する。
8回のオスカーノミネートと19回のゴールデン・グローブ賞ノミネートの内5回受賞。
「Tuesdays with Morrie」'99年で.エミー賞を受賞。
最後の映画は「The Legend of Bagger Vance」2000年でナレーターで出演しました。



ジョージ・モントゴメリー
George Montgomery 2000年12月12日逝去 享年84歳)
 ジョージ・モントゴメリー氏(米俳優)米紙ロサンゼルス・タイムズによると、12日心不全のため、ロサンゼルス近郊の自宅で死去。
 モンタナ州出身。1935年、西部劇のスタントマンとして映画の世界へ。30−40年代にかけ、カウボーイ役や戦争映画の兵士役で有名になった。代表作に「バルジ大作戦」(65年)などがあり、合計87本の映画に出演。
 監督、プロデューサー、脚本家としても活躍したほか、建築家や芸術家としても知られ、親交の深かった西部劇のヒーロー、ジョン・ウェインやレーガン元米大統領らの銅像もつくった。


菅原謙次(1999年12月24日逝去 享年73歳)
 新派俳優菅原謙次(すがわら・けんじ=本名小松原重政)さんが24日午前10時55分、都内の病院で急性肺炎のため死去したことが25日、分かった。
1926年(大正15年)3月14日、東京・浅草生まれ。常磐津の師匠の長男として生まれる。妹に日本におけるフラメンコダンスの草分けである小松原庸子さん。中学卒業後の1943年、日本映画学校に入った。49年(昭和24年)俳優座養成所に1期生として入所し翌年本格的デビュー。柔道3段の腕前が買われ50年大映入社。51年の「絢爛(けんらん)たる殺人」に菅原謙二の芸名でデビュー、53年「花の講道館」以来、講道館シリーズ9本に主演。61年フリーとなりTBSドラマ「七人の刑事」がヒット。67年作家の北条誠氏に口説かれて新派の「夜の窓」に客演したのがきっかけで、俳優活動の中心を新派の舞台に移し、73年、正式に新派に入った。当時の人気スター佐田啓二、高橋貞二の死を気にして六八年、芸名を謙次に変えた。「明治一代女」「滝の白糸」「日本橋」「婦系図」など名作に出演。水谷八重子亡き後、水谷良重、浪野久里子、安井昌二と並ぶ「新派4本柱」となる。今年11月の新派新橋演舞場公演「明治一代女」での福地桜痴役が最後の舞台となった。
 この日、菅原さんの妻の芙美恵(ふみえ)さん(当時61)が「1000年に1度の節目の年を固辞するかのように、菅原謙次は73年間に及ぶ人生という名の公演に幕を下ろし、新たなる舞台の初日を迎えるため、12月24日クリスマスイブに旅立ちました」とのコメントをマスコミ各社にファクスで送り公表した。菅原さんの遺志により、芙美恵夫人、菅原さんが48歳のときに授かった長男の太一さん(当時25)ら身内だけで25日に密葬を済ませた。自宅は東京都港区西麻布。
 菅原さんは今月13日に風邪をこじらせ入院していたが、容体が急変したという。この日夜取材に応じた芙美恵夫人は「きれいな顔でした。11月の新橋演舞場公演(「明治一代女」)で実は肺を痛めていたのですが、隠して務めておりました」と話した。夫人への遺言は「新派のためになってほしい」と「幕が下りるまで、自分のことは言わないでほしい」だった。
 ドラマ「七人の刑事」で味わい深い演技を見せた菅原さんは、舞台に全力を注いできた。1日100本のヘビースモーカーで、86年7月、心筋こうそくで倒れた。回復後、健康管理に努めていた。98年11月、新派公演中に、勲4等瑞宝章受章の知らせを受けた。「30年、この劇団(新派)で俳優をさせていただいたからこそ。まだこうしたご褒美は早い。いつまでも若々しいイメージを保ちたいと思います」と語っていた。
TVの出演としては七人の刑事、忠臣蔵、薄桜記、鬼平犯科帳など

杉村春子(1997年4月4日逝去 享年91歳 )

 劇団「文学座」の創設に参加、日本を代表する女優で文化功労者の杉村春子(すぎむら・はるこ=本名・石山春子=いしやま・はるこ)さんが4日午前零時半、すい臓がんのため東京都文京区の日本医科大病院で死去した。広島市出身。遺体は文学座に仮安置 。苦難超えた「女の一生」に幕を閉じる。
 自宅は東京都新宿区信濃町。 杉村さんは今年1月、体調を崩して、4月から放送のNHK水曜ドラマ「棘・おんなの遺言状」を降板したほか、2月には十二指腸かいようを理由に、新橋演舞場の3月公演「華岡青洲の妻」も降板、治療に専念していた。
 舞台は1996年9月、劇団のアトリエ公演「華々しき一族」、映画は1995年、故乙羽信子と共演し、数々の映画賞を受けた新藤兼人監督作品「午後の遺言状」が最後となった。
 昭和2年、築地小劇場の研究員になり、その年の藤森成吉作「彼女」で、せりふのない役で初舞台を踏んだ。12年、作家の岩田豊雄、岸田国士、久保田万太郎、先輩女優の田村秋子らと文学座の創立に参加。東京大空襲直後の20年4月に、東京・渋谷の東横映画劇場で生涯の当たり役になる森本薫作「女の一生」の布引けい役を初演した。
 この「女の一生」で23年、戦後初の芸術院賞を受賞した。「女の一生」は平成2年まで何度も再演され、947回の上演回数となった。ほかに代表的な舞台はテネシー・ウイリアムズ作「欲望という名の電車」、三島由紀夫作「鹿鳴館」、有吉佐和子作「華岡青洲の妻」など。
 映画では小津安二郎、黒澤明、溝口健二監督ら巨匠に請われて百本以上の作品に出演。小津作品の「晩春」「麦秋」「東京物語」「秋刀魚の味」などで数々の映画賞を受賞した。テレビでも活躍した。
 平成4年、「ふるあめりかに袖はぬらさじ」で芸術祭賞など、七年の「午後の遺言状」でキネマ旬報主演女優賞などを受賞。同年の文化勲章を「私には大き過ぎる」と辞退して話題になった。

スビャトスラフ・リヒテル(1997年8月1日逝去 享年82歳)
 
世界的ピアニストとして知られるロシアのスビャトスラフ・リヒテルが1日、モスクワ郊外の別荘で心臓発作を起こし、モスクワ中央病院で死去した。4日、モスクワ市内のプーシキン美術館でしめやかに行われた。チェルノムイルジン首相ら政府、音楽関係者のほか市民やファン合わせて数千人が参列、二十世紀最後の巨匠に別れを惜しんだ。 ロシア文化省によると、告別式はリヒテル氏が毎年12月に恒例の演奏を行っていた同美術館で国葬として行われた。生前に録音したピアノ演奏が流れる中、中央ホールに安置されたひつぎにはエリツィン大統領の花輪も飾られ、参列者が次々に哀悼の意を表した。チェルノムイルジン首相はイタル・タス通信に「世界の人から愛されたリヒテル氏の死はロシアにとって大きな損失であり、心からこの死を悼む」と語った。
リヒテル氏はモスクワの西約百三十キロに位置するタルサ町に別荘をもっており、バシュメット(ビオリスト)やビルサラーゼ(ピアニスト)らと「タルサ音楽祭」を開催するなど、晩年も音楽に情熱を注いでいた。ここ数年はパリで暮らしていたが、7月5日に祖国の地に移り住んだばかりだった。
リヒテル氏はウクライナ生まれ。父親の手ほどきと独学でピアノを始め、16歳でリストの難曲を弾きこなした。後にモスクワ音楽院で、ゲンリヒ・ネイガウスに師事し、モスクワ音楽院在学中の1942年、プロコフィエフの新作ソナタの初演者に抜てきされてデビュー。戦後の49年、当時最高の賞とされたスターリン賞を30代半ばで受賞した。卓越した技術と幅広いレパートリーで“現代のリスト”と称された世界最高のピアニストの一人だった。
 西側に存在が知られたのは、東欧諸国で演奏活動を始めてから。大の飛行機嫌いで西側での公演をまれにしかしなかったため、“幻のピアニスト”とも言われたが、60年の米国での初の演奏会は大成功を収めた。 わが国には70年の初来日以来、これまで十回近く来日。日本製のピアノを愛用するなど、親日家としても知られた。 また、ソ連崩壊後、優秀な芸術家の国外流出を防ぎ、若手を育成・支援するため、「リヒテル基金」を設立。日本ツアー中、企業スポンサーや個人募金を募集するなどの活動も行ってきた。80年代に入ってからは高齢などの理由で国内での演奏も激減、毎年暮れに開かれていた恒例の演奏会もここ数年は中止していた。
 ダイナミックかつ精緻(せいち)な表現力で二十世紀最後の巨匠ともいわれた。レパートリーは幅広いが、特にバッハやベートーベン、シューベルト、シューマン、ラフマニノフを得意としていた。