いのちのリレーなの? 臓器移植




「ヒトのいのち」を犠牲にして人の生命を救う医療(ES細胞作製を利用しての再生医療)は
今後必要となるだろうが、他の人の臓器を移植して人の生命を救おうとする医療は、
野蛮な医療行為であり、医療方法自体間違ったものである。


一つ一つの臓器にも個性があり、たましい(魄)がある。
臓器移植は一つの身体に
「二つのたましい(魄)」を同居させてしまう。
移植された「たましい(魄)」(他の人の臓器)の個性を殺さなければ、本体は生きていけない。
そのためにレシピエントは、「他の人のたましい」の個性を抹消させるために、
一生涯、免疫抑制剤を使用し続けなければならない。


免疫を抑制する薬のはたらきにより、他の病気にかかりやすくなり、
病気が病気を呼んで、結局は、一生涯病気を抱えていくことになる。
他のたましいのはたらきや免疫抑制剤の副作用など、臓器移植者(レシピエント)は、
死ぬ苦しみよりも、大きな生の苦しみを一生涯負い続けることになる。


子どもの臓器移植がとりだたされ美化され報道されるが、
親の欲によって子どもは、不幸なる生き地獄を負わされることになる。
親のエゴが分断された子どものいのちを作り出す。


また、私たちは両家の先祖の因縁を受け継いでいくはたらきを担っており、
他家の臓器を体内に入れることは、
他家の因縁も背負い込むということである。

ただでさえ大変な先祖の因縁を受け継いでいるのに、
他家の因縁まで背負い込むことは、本人への負担は計り知れなく、
その生命はまさに生き地獄の生涯を送ることとなる。


※よく尋ねられる「輸血」については、血液の寿命から言って、他家の因縁を受け継ぐ期間は短く、許されるものと解される。
血液の寿命は、赤血球は120日、白血球は顆粒球は2週間、
リンパ球のうちT 細胞は4〜6ヶ月、B細胞は2〜3日ほど。血小板は10 日間程度





脳死・臓器移植に対して、宗教団体の見解 (99年4月現在) 
(各教団の主張するところには、多少のニュアンスの違いがあることを了承して頂きたい。)




  
反対 原則として反対
ドナー意思に
基づき肯定
教団内で賛否両論
個の死観に基づく
ドナーの意思に基づき肯定 賛成推進

大本(人類愛善会)

全日本仏教会

曹洞宗(曹洞宗現代教学研究センター)
 

創価学会

浄土真宗大谷派(東本願寺) 天台宗 浄土真宗本願寺派(西本願寺)
立正佼成会(生命倫理問題研究会)
 


 脳死・臓器移植について、宗教界の考え方は「週刊仏教タイムス」等に記事が掲載されている。ご関心のある方は、どうぞご覧ください。

仏教タイムス 1999.3.11 「にも拘らず」ドナーの意思を・・・(中野東禅:曹洞宗教化研修所講師)
仏教タイムス 1999.3.18 もっと「自然」な生のあり方を (田代俊孝:同朋大学教授)
仏教タイムス 1999.3.25 「脳死」は人の死にはあらず (遠藤 誠:弁護士)
仏教タイムス 1999.4.1 深く透徹した死生観を・・・ (村中祐生:大正大学学長)
仏教タイムス 1999.4.8 どのような社会望むのか (有村浩一:カトリック中央協議会福音宣教研究室研究員)
仏教タイムス 1999.4.15 医学の立場からの反対論(渡部良夫:藤田保健衛生大学名誉教授)

仏教タイムス 1999.3.18 肯定も否定も・・・(曹洞宗現代教化研究センター)
仏教タイムス 1999.3.25 いのちの尊厳を見失わせる危険性孕む(大谷派が初の脳死移植で見解)

仏教タイムス 1999.4.15 脳死生体臓器移植職業別アンケート

中外日報 1991.8.27 脳死臓器移植の思想性を考える(小川一乗:比較思想学会シンポジウムテーマより)
文化時報 1999.3.27 移植医療は差別を助長しないか(石川浩徳:本念寺住職)
文化時報 1999.3.27 「脳死と臓器移植」を発刊(本願寺派基幹運動本部事務局)

曹洞宗報4月号別冊付録 「脳死と臓器移植」問題に対する答申書(曹洞宗宗務庁)
『異議あり!脳死・臓器移植』(人類愛善会・生命倫理問題対策会議)


臓器移植肯定・推進 臓器移植反対
1.執著について
自分という身体に執着すること無く、もし欲するものがあれば与えるのが、佛の教えである。
臓器は、それぞれにその人の個性をもったいのちの一部であり、そのいのちを人為的に失ってはいけない。身体を守ることは、執著ではなく生命への尊厳であり、自らの生命を大切にできない者は、他人の生命も大切にできない。
2.布施と捨身行について
消え行くいのちから、生かされるいのちへ臓器提供は捨身行であり、最高の布施行なのである。 布施には、身施、財施、法施、無畏施がある。
    『法華経 妙荘厳王本事品第二十七』

 身施とは、身体をもって、生きている人が自ら行動し他の生命のためになること。
 財施とは、金銭や物質を他人に施し、他の生命のために自らの財を使うこと。
 法施とは、人に正しく、他の生命のためになることを教えること。
 無畏施とは、自分の行いによって他の生命のために、心配や苦労を少なくしてやること。

 捨身行とは、自らが行じてこそ、その人の徳につながることであり、他者が手を加えるべきではない。それは他者への罪作りともなり、捨身行とも最高の布施行とも言えない。
3.三輪清浄の施与について
臓器提供は献血と同じように三輪清浄の施与につながるものであり、多くの人の理解によって、今後も三輪清浄の施与にしていかなければならない。 臓器提供と献血とを同じレベルで論じるべきではない。
  すべての布施には、一切の欲が絡んではならないし、布施行は「三輪清浄の施与」でなければならない。

佛教の三輪清浄の施与とは、
 @ 施与する者(能施)、A施与を受ける者(所施)、B施与される物(施物)がともに執着しない純粋なものでなければならない。(とらわれるものであってはいけない。)
 施与する者:与えることによって世のためになったと自己満足してはいけない。与えられたものの喜びや感謝を期待してはならない。
 施与を受ける者:与えられることを期待してはいけない。望んでもいけない。
 施与される物:施与される物は、正しい行いによって得られたものでなければならない。

臓器移植には、
 @いずれ死にゆく身体であるがゆえに本人の意思をまっとうさせてやりたいというドナー側の自慰の思い。
 A他人の臓器を頂いてでも生きたいというレシピエント側の思い。
 B医学の発展のためという名のもとに、移植医の実績と生命操作への興味。
 C海外の臓器移植に見られる臓器入手における加工処理費等の名目での金銭の流れ(臓器売買等)。
  などの思惑、金銭の流れが絡む。

 これらの思惑、金銭の流れを生み出す臓器提供は、本人の意思に関わらず三輪清浄の施与とはならない。
4.佛典について
佛典に、以下のように捨身供養の大切さが説かれている。
@兎本生:老人に食を供養するために自分の身体を火中に投じた兎(釈尊の前世)の説話。
A銀面女本生:飢えた乞食の母子に自分の乳房を切り与えた説話。
B抉目王本生:盲目の老バラモンに自分の目を抉(えぐ)り出して与える説話。
C捨身飼虎(しゃしんしこ:金光明最勝王経)の説話。
佛伝の捨身供養では、すべて自ら自分の身を火に投じたり、切り取ったりして布施したのであって、死んだ我が身を他人に任せたのではない。

 また、その主旨とするところは、捨身供養とは、佛(宇宙のいのち)から頂いたこの身を惜しまずに、身を動かして他人のためになることの大切さを説いたのであって、実際に身体を切り刻んだり、灯油をかぶって焼身供養を行うことを勧めたものではない。
5.死体の考え方について
魂の抜けた死体は抜け殻であり、抜け殻である身体はモノであり、モノにとらわれることを釈尊は否定したのである。『法句経』に説いてある。 釈尊は、肉体や財産にとらわれることを否定したのであって、肉体をモノとして見たのではなく、財産などの形あるものを永遠のものと見たのではない。そこには、固有のいのちにとらわれることを否定し、いかに「生」をまっとうし、いかに生き抜くかという生命の流れ「縁起観」という法が説かれている。

『法句経』(中村元:『ブッダの真理のことば』岩波文庫)
  62 「わたしには子がある。わたしには財がある」と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。
 113 「物事が興りまた消え失せることわりを見ないで百年生きるよりも、事物が興りまた消え失せることわりを見て一日生きることのほうがすぐれている。」
 170 「世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、死王もかれを見ることがない。」
6.生前の意思について
臓器移植は、生前の本人の意思を尊重するものである。 生前の意思を尊重するといって、他者が死体を切り取ってよいものではない。
 死体にはすでに当人の意思は存在しない。いかなる人も本人の生前の意思といって、臓器を摂取したり提供したりできるものではない。

 死んだ身体は、すでに当人のもの、家族や第三者のものではなく、佛(宇宙のいのち)に帰属する。死者へのとらわれをなくすためにも、また次のいのちのためにも自然へ返す必要がある。

 
死んだ我が身は、次のいのちを育む佛(宇宙のいのち・自然)のためにある。
7.救いについて
臓器移植によって尊いいのちをもって、他の尊いいのちが救われる。 臓器移植によってレシピエントは、本当に救われるのかといえば、そうとも言えない。
 それは、死ぬまで免疫抑制剤を飲み続けなければならないと同時に、生命抵抗力の低下を招き他の病気で亡くなることが多い。

 結局は、人の生命を犠牲にして生き続けるという自分への負い目、周囲の人々への負い目、もし臓器が適合しなければ、もっと適合する新たな臓器を望む思い、移植への疑問などなど、そこには、臓器を頂いた感謝などいつのまにか忘れ去られ、新たなる生きる苦しみを味わうことになる。

 ドナー側にも死者は本当に救われたのかという自問自答が残る。

「救いとは、自らを生かし、他を活かすこと、生活をすることである。」
8.いのちのリレーについて
臓器移植はいのちのリレーである。 いのちは出産によってリレーされるものであり、他のいのちをとってリレーされるものではない。

 自らの死に関わることにおいては、自分以外のいのちを巻き込んではならないし、いかなる人のいのちも守られるべきであり、その人のいのちの一部として授けられた臓器は、その人のいのちとともに最後までともにするのが自然である。
 それは最後まで、自然から頂いた自分のいのちを大切に守ったということになるのである。

 よって、脳死における臓器移植、また現在日本で認められている肉親による生体間における臓器移植においても、佛教の立場から言えば生命尊重には当たらないし、認められるべきものではない。



臓器移植

 心臓に関する学会には、日本循環器学会(実験研究を主体とした学会で、生理学、薬学などの基礎医学研究者、医療機器・医薬品メーカーが加わった大きな団体)と日本心臓病学会(実際に患者を診察している診察科医、心臓病専門医の会)がある。
 マスコミ報道では、日本循環器学会のみの意見が強調報道されたが、日本心臓病学会には心臓移植に反対する医者が少なくなく医者の総意が反映されているとは言えない。
 脳死・臓器移植法案は、医者の実績と名声と、生命操作への興味と国家財政における医療費の負担削減、経済効果をねらい、心臓移植医と厚生省の思惑により、専門知識のない国会議員を動かし、「他の人の生命を助けるため、法律で人の生命の存続のあり方を規定し、臓器移植を医療につなげよう」というところから出発する。
 平成6年4月12日「臓器の移植に関する法律案」が国会に提出され、それ以来審議の結果、平成9年6月17日臓器を移植する場合に限り、脳死を人の死とする「臓器移植法」が成立した。
 限定的とはいえ、「脳死を人の死」と認めた。脳死を人の死とすることは、終末医療のあり方も「死」の概念もすべて変えてしてしまう。
 この法の成立により、結果としては「脳死」と「心臓死」という2つの死が法的に認められることになった。見方を変えると、私たちは、脳死による臓器提供を希望した場合には「脳死」を望んだことになり、そうでない場合には「心臓死」を望んだことになる。自らの「生死」を私たち自身で決めることになる。
 同じ死という現象を見つめる中で、本人の意思と家族の思い、それに医者の判断で、この人は「死んでいる」「死んでいない」という2つの解釈が人為的になされることになる。
 脳死・臓器移植が公に行われるようになると、将来とも慢性的な臓器不足や公正な臓器の確保と分配がきわめて困難な状況になることが予測される。
 海外においては、現実に腎臓売買とは、貧しい人が腎臓を売ってそれを金持ちが買うという構造が成り立っていたり、臓器移植が進んでいる、アメリカにおいてでさえ、臓器提供者は臓器移植希望者の約10分の1である。
 そのため臓器不足解消のため臓器提供者の家族に報奨金を払うという案が提出されたり、一つ一つの臓器に加工処理費という名目で値段がつけられたり、植物人間をもドナー候補にしようという動きが出たり、交通事故による脳死者が減ったのに対し、移植医の一部から「高速道路の速度制限をゆるめろ」との声が上がったりもしている。
 アメリカにおいて臓器移植を希望していた人で、交通事故による脳死患者が出やすい金曜日の夜や週末が待ち遠しかったと述懐している人もいる。
 いずれにしても臓器不足は避けられない。
 臓器移植が認められたにしても、臓器不足が解消されない限り臓器移植を希望する人々は、病気の苦悩に加え、いつ回ってくるか分からない移植への期待と失望を繰り返し、生きる苦しみを受ける。
 医療は心の隅で「他者の死を待ち望む医療」へと変貌していくことになると同時に、脳死・臓器移植の普遍化により、社会的弱者がさらに抑圧され、差別され、臓器が商品として売買される社会が到来することにもなる。
 生命倫理、社会秩序、人類の文化に与える長期的悪影響を無視し、人為的に生命操作を行い、抑制・管理しなければ成立し得ない現代の移植術は、確立した医療とはいえない。

  

臓器移植は、生命尊重の行為ではない。


「脳死・臓器移植問題」講演会より

 天心堂へつぎ病院院長の松本文六先生、弁護士の光石忠敬先生を招いて『脳死・臓器移植をめぐる現状と課題』の講演会が開催された。以下、その内容と参加しての所感である。
 最初に光石先生より、臓器移植法の見直しについての考え方、「脳死・摘出・移植」問題におけるコトバの概念操作について、次に松本先生から、今までの臓器移植の事例・課題が次々に紹介され、臓器移植が実施された病院側の対応についての詳しい検証の未公開さ、あいまいさ、問題点等が指摘された。
 1985年、脳死判定基準である竹内基準が発表されたわけであるが、その後脳死についての解釈表現が、1991年、1992年、1997年と次々に改変されていく。多くの人々は、脳死とは全脳死と考えているのであるが、現行法は、全脳死する前に脳死と判定している。
 2000年10月に行われる「脳死・臓器移植法」見直しにおいては、「臓器移植の法的事項に関する研究班」(上智大学法学部の町野朔教授を分担研究者とする厚生省の研究班)の案を採用する方向で動いている。それは、
1.「脳死は一律にヒトの死である」。
2.「親権者の同意があれば年少者の臓器提供は可能」。子どもには未知のファクター(因子)があり、生き残る可能性があるのに、6才以下の乳幼児からの臓器摘出も可能としている。
3.「死者の生前の書面による意思表示は不要、遺族の承諾で臓器摘出は可能」。本人が臓器移植を明確に反対していない限り、家族の同意さえとれば即、臓器摘出を行える等である。
 また、救命措置への疑問がなされた。それは、脳低温療法により脳死寸前の人でも社会復帰できる可能性がある。しかし、移植医とすれば、患者が「臓器提供意思表示カード」に臓器提供意思表示をしていれば、移植目的で脳死をできるだけ早い時点で判定してもらう必要がある。最後まで救命措置をおこなった臓器は、移植では使いものにならないためである。よって、できるだけ早い時点での無呼吸検査の実施(無呼吸検査を行うと蘇生の可能性を断ってしまう、脳死状態を作ってしまう)、臓器の新鮮さを保ち摘出するための準備として、チューブ(カテーテル)の挿入などの措置が必要となる。事実上の救命治療の放棄である。
 そしてさらに、インフォームド・コンセント(威嚇または不適当な誘導なしに、理解できる言葉で説明された後に患者が自由に行う同意)のありかた、自己決定権のあり方への疑問、家族への同意の求め方の問題点などが指摘された。
 移植推進医、また移植を可能とせしめる大きな病院の医者は、一部の医者であり、多くの医者は脳死・臓器移植には無関与である。多くの医者は、臓器移植よりも、また臓器を新鮮に保つことよりも、救命措置に全力を尽くしていることも事実である。しかし、厚生省においては、臓器提供者数をあげることを念頭において2000年10月、臓器移植法見直しに臨んでいることも事実である。
 不幸にも正しい認識の無いまま「臓器提供意思表示カード」に臓器提供の意思を表示し、臓器移植の設備のある大きな病院に運ばれた人は、確実に救命措置はとられず、移植医の名声と医術的興味のために、さらに「いのちのリレー」の美談のもと、インフォームド・コンセントの名のもとに、臓器を提供する道を選ばされることになる。患者は摘出の際、反応があるという。反応があるということは痛みがともなっている可能性もある。そのため患者には、諸外国においても日本においても麻酔を打ち、移植医は臓器摘出に臨む。
 生命を真剣に考える医者は臓器移植に疑問を積極的に投げかけている。宗教者においては、特に仏教者においては、臓器移植に対して意見の分かれるところである。それは、布施の問題があるからである。しかし、布施は「三輪清浄の施与」でなければならない。この布施の解釈を取り違えると、いのちのあり方をも否定することになりかねない。
 仏教者はこの「三輪清浄の施与」を正しく解釈し、生命を真剣に考える医者とともに、宗教の立場から、今後も積極的に意見を述べていく必要があるであろう。