週刊仏教タイムス(’99.3.11) 連載
| 新時代迎えた脳死・臓器移植(第1回) 「にも拘らず」ドナーの意思を… 提供に同意する家族の智恵、慈悲 中野東禅 (曹洞宗教化研修所講師)
このたび脳死・臓器提供の善意が生かされ尊い布施行の歴史を飾ることになった。
今回の出来事を通して、 @医療の信頼性に最善を尽くしたこと、 A臨床的脳死判定によって脳死状態に陥った事を家族に伝えて、 B家族の提供の意思の確認がなされ、 C法律に基づく二回の脳死作業に進み、 D臓器移植ネットワークに連絡してレシピエント(臓器を受け入れる人)選択の作業に入り、 Eコーディネーターの家族への支援と説明に進み、 Fレシピエントの決定と移植希望の確認、移植医師団の編成、臓器摘出チームの派遣と搬送の準備、 G検死の作業、 H臓器摘出と搬送、移植の実施と術後の管理、 Iマスコミヘの公開と家族のプライバシー保護の調整、 J心臓移植の保健医療費適用へなど、次段階への経験となった。 試行錯誤はあったが反省点として改善の努力をしたようで、大筋の国民の信頼の形成する方向で働いていたと見ていいであろう。 仏教の立場からすると、信頼の形成は「和」の実践と捉えられる。特に和田移植の反省から情報公開で密室性の排除に努力したのは国民的「和」の形成である。医師や社会・マスコミなどの患者・家族への専門家としての保護義務は四摂法の「同事行」と位置づけることができる。 そして何よりも臓器移植医療でなければ救われない患者の移植への期待は、たとえ「人の臓器を当てにしても救われたい煩悩」であっても、その痛みに対する慈悲の菩薩行として、その人の痛みを受け入れる「大心」の社会になろうとしているといえる。そして何より、自分と家族の脳死を「死」と認める知性と、臓器を提供する「布施行」の実現である事はたたえるべきことである。 提供家族のプライバシーの保護のうちでも重要なことは、「あの人、家族の臓器を売ったんだって。いくらもらったんだろうね」という心無い人の声を起こさせないことである。何かの見返りがなければ行動しないという愚かな自分を物差しにして、家族の一番つらい心を逆撫でする世間の声である。献血で三輪清浄を社会的に実現できた。そのように臓器提供を三輪清浄の修行の場にしていく努力が必要である。 昨年から天台宗の杉谷義純師を世話人にして、救急医療センター医師、臓器移植ネットワークの人たち、仏教情報センターの人たちと、筆者も加わって移植のための心理的抵抗にどう応えていけるのかという研究会を続けてきた。 その中で一番大きな課題は、身内が脳死状態になった時、混乱と、負い目と、死の事実を認めたくない気持ちという「情緒的態度」と、事実を認め、本人の意思を尊重しようとする「知性的態度」との調整はどの様にして可能になるかということであった。 家族が死に直面したショック・混乱・藁をもつかむ思いから、回復の見込みがないかも知れないというあきらめに変化し、病状を如実に受容するようになり、迷いつつ、何かをしたいと考えるようになる。その過程で、後悔し、負い目を持つ。家族にトラブルがあったりすると、負い目は、運命や加害者への憎しみに変わる。従って家族が提供の意思を認めるのは知性への信頼を確立する作業だということが分かるのである。 自分の死(一人称の死)は、自分が主体であるから、意外に知性的になり突き放して観照している(癌の病名告知にしてもそうである)。ところが家族の死(二人称の死)は感情的態度に転落している。従って、ドナーの知性による意思を、家族が受け入れるということが、提供に同意する事である。 上智大学のアルフォンス・デーケン教授のいう「にもかかわらず笑う」をもじれば、家族は悲しい「にもかかわらず」母さん(父さん)が望んだ智恵と慈悲を大切にしたいという決断をしたことになる。それは家族への愛情を切り捨てることではなく、その両立である。臓器提供の場が心に深める修行の場になるのである。 (なかの・とうぜん/曹洞宗龍宝寺住職) |