週刊仏教タイムス(’99.3.18) 連載
| 新時代迎えた脳死・臓器移植(第2回) もっと「自然」な生のあり方を 法律で隠してもカニバリズムと同じでは 田代俊孝 (同朋大学文学部教授)
臓器移植法に基づく移植が、ついに実施された。ある移植医は、記者会見の冒頭で「和田移植以来、三十一年ぶりの心臓移植ができたことをまずもって、おめでたいことだと言いたい」
(取意)と言っていた。また一方では、一度目の脳死判定の後で、判定に関わった人が「患者は、まだ脳死状態ではありません」と言っていた。
「待ち遠しかった」他人の死期待する 一人の人間が、死んでいく、その横で「めでたい」といい、脳死を期待して、「まだ…」と、死ぬのを待っている。異様な光景である。ひとりが死んで、たくさんの人が助かる。「いいことではないか」「まにあわないものでも、こんなまにあいかたもあるんですよ」「究極のボランティアだ」「人の善意の移植を邪魔するな」…。新聞の投書欄をみていると様々な声がある。 ところで、一昨年の八月、日本テレビ制作の「ドキュメント 97」(一九九七年九月七日放映) への出演依頼をうけて、ドナー家族の会の方、移植を待っていた患者の家族の方と出演した。移植を待っていた患者の家族の方は、五歳の娘さんに心臓疾患があり、渡米して移植を待っていたという。お母さんは、その時のことを振り返って正直に言ってくれた。「毎週金曜日の晩が待ち遼しかった」と。 なぜなら、アメリカでは、週末に家族で、ドライブに出かけることが多い。それで、一週間のうち、金曜日に子供の脳死患者が出る率が、もっとも高いからである。「娘のためとはいえ、誰かが死ぬのを待っている自分がいた」と語っていた。 結局、その子は移植が間に合わず、亡くなってしまった。それで、せめてもと、両親は角膜の提供を申し出たという。 自分の自我的生命延長欲のために、他の生命を犠牲にしてもいいのか。言っている自分も、「さるべき業縁がもよおせば、いかなる振る舞いをもすぺし」 (『歎異抄』)であり、何をしでかすかわからない。しかし、それは、慚愧すぺきことであって、肯定したり、誇ったりすべき事柄ではない。 本来、人間は、無数のいのちの犠牲の上に存在している。したがって、食事の前に、「(いのちを)いただきます」と言うように、そのことへの痛みを持ち続けなければならない。どこまで、ドナー(提供者)側の心がわかっているかである。 でも、そこまでしてわれわれは、自らの延命をはかるべきなのだろうか。もっと、自然であっていいのではないか。「他力」の意のままでいいのではないか。如来の勅命によって生かされ、また、如来の勅命によっていのち終えて行く。 あくなき生命延長欲末恐ろしい未来が 先端医療の場では、いのちがモノ化され、臓器を役立てるとか、いのちを役立てるというが、いのちを役に立つ、立たないというものさしだけで測っていいのかどうか。死にかけている「役に立たないいのち」が切り捨てられていく。いくら法律で、包みかくしてもカニバリズム(人肉食)とどう違うのか。 また、不足する移植用臓器を補うため、クローンや、ヒトと動物の合成であるキメラが作られている。すでに、ヒトの遺伝子をブタに投与し、ヒトと同じ体質を持ったブタを作っている。人間のあくなき生命延長欲を満たすために、あらゆる手段がとられている。末恐ろしいことである。まさに、今、そういう坂道を転がり始めた。それを進歩といえるのかどうか。自然にそこまで手を差し挟んでいいのだろううか。人類の未来に光は見えてこない。 (たしろ・しゅんこう/名古屋大学医学部倫理委員、真宗大谷派行順寺住職) |