週刊仏教タイムス(’99.3.25) 連載
| 新時代迎えた脳死・臓器移植(第3回) 「脳死」は人の死にはあらず 他者の臓器で余命延ばすことは拒否 遠藤 誠 (弁護士)
高知赤十字病院における脳死患者からの心臓その他の諸臓器の摘出・移植が「成功」したため、これからは日本の国内でもこの種の移植が広く行われることになるだろうと、肯定的な期待感が広がっている。
御都合主義的な言葉 しかし私は、今でも、脳死は、人の死ではないと思っている。なぜならば、この世に医学というものが現れた紀元前十八世紀以来、医学者も医師も一般の人も、誰もが疑わなかった「心臓が完全にとまった時が人の死である」という常識をくつがえし、「いや、心臓死より、もっと前の脳死の段階を以て人の死とすることにしよう」と医学者たちが言い出したのは、免疫抑制剤というクスリが発明された昭和三、四十年代以後のことであって、別に人間の死に関する医学上の理論が変わったからではないからである。 それまでは、aという人の生きた心臓を取り出してbという人の体内に埋めこむと、bの体内に拒絶反応が起きるため、aの心臓は、絶対にbの体内に定着しなかった。ところが免疫抑制剤が開発されたため、それが可能になったので、3,800年間、人類が信じて疑わなかった心臓死という真理をねじまげて、「そのちょっと前の脳死の時を死亡時にしよう」という、御都合主義的・便宜主義的考えから生まれた言葉が、「脳死」という新語だったのである。 ちなみに「脳死」という言葉もゴマカシである。というのは、「臓器の移植に関する法律」(以下、「臓器移植法」と略称)によれば、「脳死」とは、「脳幹を含む全脳の機能が不可逆的に停止するに至ったと判定されたもの」を言うと定義されているように (同法六条二項)、脳が死んだのではなくて、脳の機能が停止しただけの段階を以て「脳死」と呼んでいるからである。 つまり、「脳死」という段階においても、心臓から送られてくる血液は脳の全てに循環しており、脳細胞は全て生きているのである。そしてその脳細胞が死ぬのは、心臓がとまってそこから血液が送られなくなった時であるところ、それでは心臓を移植に使うことができなくなるので、脳細胞が生きているうちに心臓を取っちゃおうというのである。 脳細胞がまだ生きているから、妊婦が脳機能の停止に陥った後、子を産むことは可能であり、現にそのような実例があったと報告されている。また、そのような患者に声をかけると、血圧や心拍数が上昇することもある。 提供は布施行だが… さらに、「臓器移植法」がいわゆる「脳死」患者から臓器を取り出すのに、本人の生前の意思表示を絶対の要件としているのも、「脳死」を人の死と認めていないことを意味する。なぜならば、本当に死んだ場合、すなわち心臓死した場合、遺体はモノであって人ではないから、遺体というモノの所有者、すなわち相続人の同意さえあれば臓器の摘出ができ、その外に本人の同意は全く要らないからである(臓器移植法附則第四条等)。 かくして、「臓器移植法」があるにかかわらず、脳機能停止の患者から心臓その他の臓器を取り出してこれを死に到らしめることは、殺人となる。 しかしながら、生きている自分の心臓その他の臓器を、不治の病いで苦しんでいる他者にさし上げ、そのために死ぬという生き方は、まさに「自分ノコトヲ勘定二入レナイ」(宮澤賢治氏)菩薩としての布施行として、賞賛に値こそすれ、決して非難されるべきことではない。 しかし、私が不治の病いにかかり、生きているか死んでいるか分からない他者の心臓その他の臓器を埋めこむ以外に治療法がなくなった場合、私は、他人の臓器を頂戴してまで余命を数年間延ばすことを絶対的に拒否する。 なぜならば、釈尊をはじめとするお祖師がたのすべてが言っておられるように、「自然に生き、自然に病み、自然に老い、そして自然に死んで行く」のが、一番よいからである。 (えんどう・まこと/現代人の仏教の会士睾) |