週刊仏教タイムス(’99.4.1) 連載

新時代迎えた脳死・臓器移植(第4回)

深く透徹した死生観を・・・
      推進に加担する口実思いつかない

村中祐生 (大正大学学長)

 臓器移植法が成立して、はや三年に近い。その成立の時点で、移植時のみ「脳死は死」であるとする「脳死判定」が意味をもつことになった。ただ一般には、人の死は、心臓死をもって死とするのは変わらない。ここに、二種の死があることを容認する大勢が定まったのである。

脳死様病態の多くは交通事故の若者たち

 ただし、この二種の死のいずれかを選ぶということは、実際にはあり得ない。生前において自らの臓器提供の意思を表明している場合に限って、脳死様病態にいたったその人をもって、死にいたる患者と見立てて「脳死」と判定する。そういう措置は、「脳死移植」を実行する必要からである。すなわち、移植医療を成立させ、その実施に必要な臓器提供を「脳死」に期待し、それを前提として「脳死移植」という医療の新しい領域を形成しようとするのである。

 さて、今年二月下句にいたって、初の脳死判定が実施され、にわかに「脳死移植」が実現したことが大きく報道された。その結果への課題と評価についてもさまざまに聞こえてきたが、多くは移植医療を好意的に支持し、この初動に期待するもののようである。「脳死移植」が緒についたこの事実は重大である。

 人が脳死様病態になる場合の一つに、この度のように「くも膜下出血」という場合があることを知った。それは、脳血管疾患の一つであり、その多くは五十代以降に現れるようになる。脳梗塞、脳内出血などと同じで、加齢するにつれて増える。そういう統計上の数値がある。

 脳死様病態に陥りやすいのは、統計的には「不慮の死」におよぶ場合の若年者において多い。特に若年の男子で、十五歳から二十四歳の間に顕著な傾向が見える。その種の傷病および死亡の外因は、まさに交通事故なのである。

 わたしも檀徒の若者の交通事故死者を弔ったことが何回かあった。その経験からいえば、その死のすべてはまことに残酷なものである。いま、臓器提供の意思を表したものがあった場合、歳が若い者ほど活着性が高いのは自明である。だからといって、その比率の高い若者のそれを予定して、愛や善意の崇高さを説いて、「臓器提供意思表示カード」の携帯を勧める気持ちにはなれない。

それぞれのいのちに差はないはずだが…

 この度の脳死移植の展開では、一方に、その臓器の提供を待つ人の存在も確実に認識された。そして、それらの報道では、「公開性」や「透明性」が、どうやら満たされたかたちであったと論評し、また、多くの人が関心を新たにしたことを見聞している。

 思い出す一つに、『五体不満足』の若者が語っていることがある。その他にも、多くの身的知的障害をもって、なお不屈にこの生を歓び感謝する人びとがいることを知っている。その人々は、生まれながらにして医療者の慈愛の眼差しを引きつける姿態を示すことが出来なかった。その疾病や障害は、確実に、回復不能、全治不能である。それは、医療の場からは見えない。その多くは、社会からも隔離された福祉の場に隠されたりしている。

 すなわち、一方は臓器移植によって回復可能のゆえに法的に医療援助の体制が整備され、一方は不治のゆえに法的に、福祉の名のもとに社会から隔離される体制にある。それぞれのいのちに差は全く存在しないのに、その差の事実はある。

 脳死移植は、いよいよ推進されるだろう。救命治療の一層の進歩に期待し、この事態の推移に注目していくにせよ、それに加担する口実を思いつかない。大事なことは、人のいのちの崇高な意味について、表層的で相対化した美名な評論は避けることである。この人びとの生と死についての、より深く透徹した宗教的世界観・死生観をこそ説き続けたい。その上で、人びとが自らの意思を明らかにすることについて、それをしも否定するものではない。
                           (むらなか・ゆうしょう/天台宗慈照院住職)