週刊仏教タイムス(’99.4.15) 連載

新時代迎えた脳死・臓器移植(第6回)
  
医学的立場からの反対論
      「臓器移植」仏教界の対応を問う

渡部良夫 (藤田保健衛生大学名誉教授)

 私がこれまで一貫して臓器移植法に反対してきたのは、第一に以下の幾つかの論拠から、臓器移植は正しい医療ではないと結論されるからである。

人であることを放棄するもの…

(1)医療は与えられた患者一人で完結すべきであるのに、殺人(「脳死」臓器移植)、死体損壊(心臓停止後の角膜・腎臓移植)あるいは傷害(生体肝移植など)の形で第三者を巻き込む移植医療は、明らかに邪道であろう。

(2)臓器移植は本質的に人肉食(カンニバリズム)に通ずるおぞましい行為である。

(3)菩薩行と賞賛される臓器提供者の善意は、残念ながら善意で終わらない。即ち圧倒的なドナー不足は必然的に人の死を期待する感情を起こさせ、未来永劫人間精神の荒廃を招く一方、既に世界各国で臓器売買や組織犯罪の関与を招いている。

(4)移植は人を単なる部品の集まりと見る人間機械論に基づくが、免疫抑制剤の投与は臓器が交換可能な機械部品と違うことを移植医が認めている証拠ではないか?

(5)移植推進派はレシピエント(移植希望者)の命のかけがえなさを強調する一方、ドナー(臓器提供者)の命のかけがえなさは無視し人の命に軽重をつけ、更に臓器のかけがえを狙うという二重の誤りを犯している。

(6)人は他の人格を常に目的として扱い、これを手段としてのみ扱ってはならぬというカントの定言律は、人を他の動物から区別する道徳律とされる。他の人格を手段としてのみ扱う移植医療の推進者は、人であることを放棄するものと言わざるを得ない。

 第二に、以下の理論から脳死状態を人の死と認めるべきではない。

(1)心臓が止まって体が急速に冷たくなることで泣く泣く愛する者の死を受容するという誰にも納得できる死の基準を用いるのは、人類何万年の経験智が生んだ文化である。

(2)体が温かく皮膚の色もよい脳死状態を死と思えないのは、人情の自然であり、その状態の妊婦からの出産も多数報告されている。

(3)脳死状態ですべての臓器・組織をばらばらに摘出する現在の移植から首のすげ替えまでは一続きであり、そこで歯止めをかけるという推進派の理論は成り立たない。

海外でも脳死を否定する潮流が

 こうした文化論に加え、以下の科学的事実も海外で脳死否定の潮流を生み出しつつある。

(4)脳死状態で体温が正常に保たれるのは、脳の体温中枢の機能健存を示し、脳のある部分からのホルモン発生も認められている。

(5)脳幹死をもって人の死とする英国で、多数のドナーで皮膚切開による血圧上昇(即ち脳幹機能の存在)が報告されている。欧米では脳死のドナーの手術時に麻酔をかけており、厚生省の臓器摘出マニュアルにも麻酔機の設備が示されているのは、脳死患者が痛みを感ずる(即ち生きている)ことを移植医が知っているからに他ならない。

(6)サンパウロ国立大学脳外科教授の行った外傷性脳虚血の動物実験で、脳血流がある程度減少すると脳波は平坦になって脳死判定基準を満たすが、脳細胞は生きており、脳を冷やすと脳血流が増して脳機能は回復するのが見られて、日大の脳低温療法の画期的成果が実験的に裏付けられた。一方、この時人工呼吸器を止める無呼吸テストを行うと、脳血流が臨界値以下に低下して脳細胞は死んでしまうので、本テストは脳死の診断法ではなく、作成法だと結論される。従って無呼吸テストは脳死判定基準から除くべきなのに、高知赤十字病院で脳波が平坦になる前にこれを行ったのは著しい苦痛を与えつつ患者を死に追いやった可能性が高い。最低各県に一つは脳低温療法実施施設を作り、年間一万人に及ぶ交通事故死者の多くを救うことこそ、緊急の課題である。

 以上の諸点に対し、仏教界からの率直な批判とご助言を頂ければ幸いである。

                               (わたなべ・よしお/豊田地域医療センター前院長)