文化時報(1999.3.27)

移植医療は差別を助長しないか

我が子の生命、仏に任せて-

石川浩徳本念寺住職(日蓮宗)に聞く


 脳死による臓器移植が行なわれ、一般の関心も高まっている。仏教者の声は消極的なものも含め、賛同できないというのが多い。しかし現実に苦しむ人を前に、宗教の教えはどこまで響くだろうか。仏教者でかつ心臓病の我が子を持つ石川浩徳氏(千葉県本念寺住職) に経験から得た感想を聞いた。

 石川氏はドナーカードを肌身離さず持ち歩いている。そこには一番最後の欄、「臓器移植はしません」を選択し、提供しない代わりにもらうこともしないと決めている。これはもともと人の死の判定と臓器移植に疑問を持っていたところへ、我が子が先天性心臓病を患って悩んだ経験からだそうだ。

 「私の息子は心臓の中に障壁があって血流が悪く、小学生の時に手術せねばならないことになった。主治医からは場合によっては生命にかかわるとの通告も受けた。その場合、助かる方法があるとすれば心臓移植しかないと。我が子を助けたい。親なら誰でも思うことだ。当時、心臓移植の推進者である和田寿郎医師(和田移植の執刀者)にも相談した。和田医師は心臓をモノとしか受け止めていないかのように、『悪いモノは取り換えればよろしい』との返事だった。まるで、モーターの部品を取り換えればいいかのように。この言葉を聞き、これは違う、生命はモノではないと感じると共に、我が子のことだけを考えていた自分に恥ずかしさを覚えた。この時、我が子の生命はみ仏のお計らいに任せようと心に決めた」と。

 仏教者としての決断のようだ。しかし親として子の生命を何とか助けたい。心臓手術は二十四時間にも及んだ。待合室でお題目を唱えずにはいられなかったそうだ。「これは親子の情であって小さな慈悲である。大きな慈悲に生きることを教えられた日蓮聖人の教えとは違う。私たちは仏教に示す三世のいのちを説いている。移植医療は今世のいのちを問題にしている。仏教者なら、自分の近くにいる人だけを救うのではなく、全体がどう救われていくかを考えることだ。他人のいのちを犠牲にしてまで生きることは自然に反しないか。このことを自身にも家族にも言い聞かせていた」と話している。幸いに手術は成功し、今では元気に大学に進学している。

 臓器提供は慈悲行、菩薩行と受け止める向きもあるが−−と問うと、「菩薩行とは仏の世界に導くことであって、臓器提供を菩薩行と言うことには疑問だ。よく議論される雪山童子の捨身供養はこれは法を請わんため差し出したのであって『一心欲見仏』を求めたもの」と、臓器提供と仏教でいう菩薩行とは一線を画するという見解だ。

 そして「心臓を思い、移植を希望する人は潜在的には三千人以上おられるそうだ。今回一人の人に手術が行なわれたが、後の二千九百九十九人はどうなるのだろうか。誰が生き延びて、誰が提供を受けずに亡くなっていくのか。この移植医療は平等を欠くのみならず、見方によっては差別を助長することにもなる。また、人の死は法律で決めることではないし、臓器提供者側の決断に無理はないのか。授かった"いのち”を与えられたままに生きていく。他人の脳死を待ちながら生きていくのが本当に『安心』を得られる道だろうか」と。

 発展途上国では、健常者からの臓器売買があるなどの報も含め、医療機関での汚職や死の判定の不充分さや移植の優先順位など、種々の問題なしとは言えない-−と付け加えていたが、個々の問題点は問題点として、この"本当の安心を得させる”が仏教者としては一番に考えねばならない問題だろう。