中外日報(1991.8.27)

身心観の諸相 脳死臓器移植の思想性を考える

臓器提供がそのままに

菩薩行とはいえぬ

小川一乗(大谷大学教授)


 このテーマは、平成三年六月八日に大谷大学で開催された「比較思想学会」のシンポジウムのテーマと同じものである。そのシンポジウムにおいてシンポシストの一人として提題した内容を多少補足して、ここに提示したい。このテーマについて、人間探究の宗教である仏教思想の立場からどのように応答できるか。二千五百年に及ぶ仏教の歴史の中で種々様々に説かれている教理の根底に流れている仏教の基本的な視点から、身心観というよりも人間観として、このテーマに応答することになろう。

仏教学の立場からの提言

一、仏教の人間観

[T]五蘊仮和合−縁起

 人間の存在をどのように考えるのかという場合、西欧では、その点について「身心論」として哲学的に厳密に論究されているが、常識的には、ギリシャ・ローマの哲学以来、人間は身(肉体)と心(精挿) とから成るといわれている。そのことをもう少し厳密に言い換えれば、人間存在を肉体と精神という二方面より探究し、解明しようとしたものであり、それが「身心論」であるというぺきである。

 その場合、肉体と精神との二元によって人間は成り立っているという人間二元論は、総体的には“肉体と精神とを分断した二元論ではなく、肉体は精神を離れてありえず、精神も肉体を離れてありえないという面をも含んだ上での人間二元諭であったといえよう。

 キリスト教においても、霊と肉ということがいわれ、人が死んで霊の去った肉は無価値なものと見なす面もあるが、半面、肉を抜きにしてはありえない「復活」ということからすれば、肉は無価値なものとされていない面もあるといわなければならない。

 このような二面性を持った。人間二元論が、近代哲学の出発点となったデカルトとの身心二元論「人間二元論になって、肉体と精神とが分断されて、ついに、ラ・メトリの「人間機械論」が出現するようになり、唯物論的に人間存在を肉体の一元のみで探究する研究が近代医学として素晴らしい進展を遂げて現在に至り、「脳死、・臓器移植」という問題が現代の課題となってきたのであるといえる。

 従って、人間を肉体(身)のみの面から探究した結果としてもたらされたのが、この「脳死・臓器移植」問題であり、それがこの問題の原点なのである。それでは、このような人間についての身心二元論に対して、仏教では何が考えられるか、といえば、対応的に考えられるのは、仏教の「五蘊論」である。

 周知されているように、仏教では人間存在は「五蘊」(五つの集合体)、すなわち、色蘊(物質)と受蘊(感受作用) と想蘊(表象作用)と行蘊(受と想とを除いたすべての心の作用)と識蘊(心)という五つの集合体によって成り立っていると考えられているからである。

 従って、精神と肉体という二元論でいえば、肉体に相当するのは色蘊だけであって、他の四蘊は精神に相当することになり、肉体と精神との割合は一対四となる。この割合から、仏教は精神(心)を重視する宗教であるという人もいる。しかし、仏教の本来的な立場は精神と肉体という二元論に立っていないというぺきである。

 ところで、仏教が、人間存在を「五蘊」としているのは、西欧での身心論・人間二元論のように人間存在を科学的に探究しようとしたことによるものではなく、輪廻転生する主体としての「我(atman)」の実在性を否定する目的のためであったというぺぎである。人間存在は五蘊の仮和合であって、仮和合としての縁起的存在である人間は、輪廻に転生する主体として観念的に想定されている我(一種の霊魂)と係わり合いのない存在であるということが、仏教の基本的な主張である。そのことについては、伝統的な究明の仕方として、五蘊と我との関係を四点(@五蘊と我とは同一かA五蘊の中に我が在るのかB五蘊の外に我が在るのかC五蘊と我は別か)から考察し、我の存在を認めない仏教の立場が主張されている。その考察の内容についての説明は目下の課題でなく、しかもよく知られていることでもあるから、いまは省略したい。

 ともかく、仏教においては、人間存在は仮和合であるということが重要であり、必ずしも五蘊でなけれぱならないというものでなく、時として、「五蘊」に代わって人間存在を「六界」(地・水・火・風・空・識)として説くこともある。この他、仏教では人間存在を十二処・十八界として説く場合もある。十二処とは六根と六境、すなわち、六つの感覚器官(眼・耳・鼻・舌・身・意)とその対象(色・声・香・味・触・法)であり、この中の六根から六識(認識判断作用)を別立したのが十八界である。これらは、人間存在が単なる個体存在ではなく、認識論的にそれが関係性において成り立っている存在であるということを提示しているといえる。

[U]生老病死する「死すべき身」

 釈尊の出家は、根本的な苦として迫ってくる生老病死という人間にとっての最大の課題をいかに解決するかという問題意識が動機となっているように、仏教では、人間を生老病死していく存在としてとらえ、死も生老病死という命の流れの中で「死すべき身」としてとらえられている。「死すべき身」を如何に生きるかという問題を解決し、よりよき人生を自覚せしめるところに、仏教の目的があり、そこに「生死一如」という自覚もある。釈尊はその初転法輪にあたって「不死の法」を説くと宣言されているが、生老病死という苦悩を越える教え、すなわち、死に対する自らの執着に目覚め、死が苦悩としての意味を持たなくなる教え、そのことが「不死の法」といわれたと了解してよいであろう。

 この点に関して、臓器提供は仏教における菩薩行(慈悲行)であると短絡的に結び付けてしまう仏教者もいるが、果たしてそうであろうか。第一に、仏教における菩薩行(慈悲行)とは、あくまでも、仏と成るという仏道を前提としているからである。来世において仏と成るために臓器の提供をするというのであれば、それは善隆行がもしれないが、逆に、臓器提供がそのまま菩薩行であるとはいえないであろう。
 
 
苦悩に生きる人間

解放される道説く仏教

 臓器提供を「捨身飼虎」の譬えなどによって菩薩行と見なそうとするが、それだけでは、道徳的な善行ではあるが。菩薩行とはいえない。ジャータカ(本生譚)などにおけるそのような道徳的な善行は、釈尊の正覚という大前提の上に語られているのである。正覚の事実は、過去世における。善行があってこそという仏教徒の釈尊に対する畏敬の念がジャータカを作り出したのである。

 従って、釈尊の正覚ということを抜きにしてジャータカだけが独り歩きをすると、道徳的な善行と菩薩行(慈悲行) との区別がつかなくなるのである。

 第二に、病気を治すということも、医者は治る病気を治すが、治らない病気は治せないのである。

 それに対して、仏教の慈悲行は、すべての病気を治すのである。それゆえに、釈尊は大医王といわれたのであろう。その意味は、苦悩として迫ってくる病気が、病気のままでその苦悩としての意味を失わしめられる真実、病気のままで病気を引き受けていける真実に、目覚めさせるということである。真実の救済に出合わせる働きがなければ、それは慈悲行とはいえない。

 例えて、王舎城の悲劇を持ち出すまでもなく、葦提希夫人を救済した慈悲行は、葦提希夫人を牢獄から救い出したということではなく、牢獄の中にありながら救済していったのである。牢獄から救い出されなくても葦提希夫人は救済されたのである。従って、仏教の菩薩行(慈悲行)は、自他共に真実に、目覚める仏道のための実践であるということを抜きにして考えられないのである。

[V]五趣(あるいは六趣)の中に「生けるもの」−迷いの生存−

 人間は五趣(六趣)・三界という迷いの生存として「生けるもの」の中に含まれている存在であり、無明・渇愛によつて我執我所執して苦悩の中に生きている存在であると、仏教では人間存在をとらえ、そこから解放される道を説いている。

三界という輪廻に流転

 人間は、地獄・餓鬼・畜生・人・天という五趣(阿修羅を加えて六趣)、すなわち、三界(欲界・色界・無色界)という輪廻に流転する「生けるもの」であり、その輪廻の世界は、無明・渇愛によって形成されたものである。

 無明とは、縁起の道理によって明ちかにされた真実を知らない愚痴の煩悩であり、渇愛とは、「私だ、私のものだ」と自己の存在に我執我所執することである。

 この無明・渇愛に執着する限り輪廻の苦しみからは救われないというのが、仏教の立場である。無明・渇愛の自己存在を自覚することによって、生死に輪廻しない自己存在を確認することにより、苦悩から解放されていくのである。


中外日報(1991.8.28)

身心観の諸相 脳死臓器移植の思想性を考える
 

輪廻から解放の世界

人間本来の真実の浄土

小川一乗(大谷大学教授)

 この点についても、重ねて言うまでもなく、釈尊は、無明・渇愛によって《有》(迷いの生存=三界・輪廻)があることを、その縁起説において明示しているが、無明・渇愛によって形成された輪廻が無明・渇愛という原因を離れて独り歩きをはじめると、輪廻の実体化が始まるのである。

 しかし、輪廻転生は無明・渇愛によって形成されるのであるから、輪廻は実体的に存在するものではなく、無明・渇愛という心の働き(精神活動)によって作り出されるものである。この無明・渇愛から解放され、輪廻に転生しなくなった在り方が浄土(極楽)である。

 ちなみに、死後に浄土(極楽)に往生するという浄土教の場合も、死後の浄土(極楽)を実体的に想定する浄土教もあるかもしれないが、それは輪廻の実体化と同じことになるのではなかろうか。浄土とは、輪廻から解放された世界であり、それが人間本来の真実の世界であり、そこへと還っていく。そこが浄土(極楽)であると、縁起という仏教の原理から了解される。

 先に述べたように、われわれが縁起的存在であるということは、われわれの存在が自然の自己表現であるということであり、例えば、われわれの存在は大海の波のようなものであるといえる。縁起し仮和合して波として表現されているわれわれの存在は大海そのものと何ら別ではない。これは縁起という本来的な真実の在りかた(大乗仏教で「空」と表現されている在り方)を大海という具体的な存在によって譬えているので、その真実の在り方が具体的に考えられてしまう危険性があるので、適切な喩例であるかどうか多少問題ではあるが、ともかく、浄土とは、還っていくべき大海という本来的な真実の世界であると了解される。

 従って、只今のわたしをわたしたらしめているもの、それが浄土であるともいえる。

 以上、仏教では人間存在をどのようにとらえているかについて、三点を取り上げてみたが、もとより、これだけに限定されるわけではなく、これ以外にも指摘される点はあるであろう。

 しかし、どのような点が指摘されようとも、西欧における身心論のような人間存在に対する科学的な探究は、仏散の基本的な課題としてなかったといってよい。ともかく、仏教における人間存在とは、以上の三点から明らかなように、主体的に自覚された存在としての人間観に基づいたものであり、対象化された客体的存在としてではない。

霊魂去った肉体の発想みられぬ仏教

二、脳死・臓器移植の思想性

 さて、人間存在に対するこのような仏教の人間観から、「脳死・臓器移植」の思想性についてどのような問題提起が可能であろうか。先に指摘した三点にそって考えていくことにする。

  仏教の人間観〔T〕には、二つの指摘が含まれている 。

 一つは「我」(輪廻の主体)の否定であり、霊魂と肉体という西欧的な範疇で人間存在をとらえていないという点である。従って、霊魂が去った肉体という発想は仏教には本来的にないのである。ただし、日本仏教においては、仏教が伝来する以前からの日本民族の宗教観によって死者の霊の存在を信じている面と、仏教内部において実体化された輪廻観から、死んでも霊は残るという考えが密教主導型の日本仏教の中に入り込んでいるのは事実であるが、それは仏教本来のものではない。

 もう一つは、人間は、仮和合であって、独自的に存在しえない、関係性によって生かされている縁起的存在であるという点である。

 このように、人間存在は、無我であり縁起的存在であるから、わたしたちは、わたしをわたしたらしめているすぺての存在との関係性の中に生きているのである。そのことを端的にいえば、自然の中に生かされているということである。自然によって生かされて存在している人間、それは自然の自己表現としての人間である。このような人間としての自己存在を自覚するとき、そこに「人身受けがたし」「唯我独尊」(ただ我れ独りにして尊し)という仏教の基本的な自覚の立場がある。

 これに対して「臓器移植」は、自然の摂理に逆らって、自然に対峙する人間の科学として進歩してきた医学の成果である。仏教とは方向性を逆にしているのである。

  例えば、臓器移植に伴う生体からの強烈な拒絶反応に対して免疫抑制剤を死ぬまで飲み続けなければならないということをどのように考えるべきであろうか。拒絶反応は、あくまでも克服すぺきものとしてそれに対応して、自然征服の歩みを限りなく続けていくか、自然の摂理からの警告としてそれに耳を傾けるか。これが基本的な分岐点である。

 思うに、十八世紀以降の近代哲学の人間二元論において、掃神と肉体が分断され、それによってもたらされた人間機械論は、科学的合理主義 (効率性、必要性、便利性) によって、特に、外科医療の面で長足の進歩をとげた結果として、「脳死・臓器移植」という問題を生み出している。この科学的合理主義は強烈な脱得力をもって現代社会を制覇している。

 かつては、病気と貧困から人間を救済し、豊かな社会をもたらしてきた科学的合理主義は、いまや、それ自身が人間社会に害をなすようになっているにもかかわらず、しかも、われわれに対して強烈な説得力を持っているのは、その効率性・必要性・便利性が限りない人間の欲望を満たしてきたからである。