塩山芳明@漫画屋
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没原稿
『映画芸術』 編集プロダクション映芸


『映画芸術』表紙  『嫌われ者の記』単行本読んだ読者は知ってるだろうけど、僕は稿料の出ない『映画芸術』の、5〜6年前の小川徹追悼特集でも1度原稿が没になってる。小川徹編集長時代以前に勤務してた、Aさんて少年画報社等でレイアウターしてる人の紹介だったんだけど。ちょっと傷ついたけどすぐ忘れた。そしたら今度は、大学時代の友人が同誌に流れ着き、「また書いてみない?」「いいよ」で、石井輝男の『地獄』をケチョンケチョンに書いた。ゲラがちっともこないので「何かあったな?」と思っていると、そいつの長い手紙と共に、原稿が返却されてきた。荒井晴彦編集長の意向で、「前説のベテラン監督を批判する部分を削れば載せる」という事らしい。タダ原稿書き直すのもシャクなので、すぐ了解して没にしてもらう。考えたら同誌も小川徹時代のように、映画界以外の者に好き勝手書かせるのじゃなく、良くも悪くも業界誌っぽさを強めてるから、それなりに筋の通った措置。小川時代のつもりで書いた僕が馬鹿でした。でもなかなかないでしょ、タダ原稿を2度も没になるなんて。もう1度持ち込まないとマズイんじゃ? …と、マジで考えてる没野郎でした(小心者は同類をきらうのか?)。 【塩】

生前葬の御不幸まんじゅうは一個で充分



 鈴木清順はカッコいい。『ツィゴイネルワイゼン』以降、ショーもない映画連発、うんざりしてたら、或る時期からパッと撮らなくなった。撮れないだけかも知れないが、ファンとしてはやれやれ。

 映画監督も政治家同様引き際は難儀らしく、黒澤明も超自己陶酔作『まあだだよ』なんぞ撮り、「コレじゃ池田大作の『人間革命』じゃねえか!」と、ガラガラの「浦和ヴェルデ東宝」で怒りに震えたものだ(少ない入場者数を本社に電話連絡する、職員の寂し気な声が未だ耳に残る)。岡本喜八も罪深い。何だあの『EAST MEETS WEST』は?「高崎松竹」で30分観て寝た。

 起きたらまだ終わっておらず、再挑戦。またも熟睡。竹中直人の絶叫が、子守唄の様に心地良かった。映画にPL法があんなら、両作共に返金して当然(長年の映画への功労なんざ、客にゃ関係ねえよ)。こんな怒りも普通何ヶ月で忘れるが、幸か不幸か飯田橋の仕事場の近所に、岡本みね子事務所があり、今もドアに同作のポスターが。週に1度は洋食屋「伊香里」のB定食や、「たんたん」の牛たん定食を食べに行くので前を通る。その度に、愚妻によれば性的にゃ超淡泊だが、小銭には汚く執念深い性格の筆者の胸に、四年前の怒りが甦り、ガラス窓にブロックを投げつけたくなる(俺は、群馬のド田舎から飯田橋まで通う超遠距離通勤者)。

 新藤兼人や篠田正浩の映画なら、こちとらも別に怒りゃしない。昔も今もこれからも、ずっと退屈だろうから。タダ券でももらわにゃ観もしない(ただ、『墨東綺譚』だけは、妻子の隠れてのオナニーライフのオカズに愛用。抜けるぜ墨田ユキ! 結婚相手が創価学会員で、説得され引退したって本当?)。腹立たしいのは、或る期間輝いていた監督が、よしゃいいのに老体にムチ打ち、茶坊主みてなスタッフの老人介護環境で、気持ち良さそーに撮る“冥土みやげの説教映画”(だからケン・ラッセル同様、演出に元々緩急を欠く、塚本晋也が『双生児』の如き愚作で大枚千八百円盗んでも、さほど腹は立たぬ。あきれるだけ)。

 さて『地獄』。『ゲンセンカン主人』(93)はまあまあで、『無頼平野』(95)はちょっとと思ってたら(本作でエキストラ初体験。弁当とTシャツのみで、日当無しは承知の上だから文句はないが、集合地の地下鉄月島駅から、現地への都バス代百数十円が自己負担だったのは今でも悔しくて、年に三回位は夢に見る)、昨年の『ねじ式』でサジ投げた。冒頭で半裸の男女が乱舞するが、全員ツラが幸せ一杯。中流国民の顔なのだ。「芸能界で失敗したら、いつでも戻っといで!」優しい両親の笑顔が、悪ぶる彼等の彼方に透けて見える。一方演出は、相変わらずおどろおどろしい。異常性愛シリーズの頃は違った。女優、男優を問わず、役者の顔がマジでひきつってた。「こんな映画に出ちゃって、私もう田舎にゃ二度と帰れない」そんな嘆きが画面から確かに聞こえた。むろん一顧だにしない、非常な石井演出。ひでえよ、いくら映画でも。けど面白い。「やれやれもっと!!」(心の声)

 今じゃ石井輝男も、カワユイ時代のキャラクター商品。力んでも、ベテラン俳優以外は次のステージへのステップ、あるいは“青春の思い出”位にしか考えてない。画面はガラガラ空回り。裸要員の無名俳優の嘆きはどこからも聴こえず、代わりに「世界の映画シーンを見渡しても、いま現在、こんな映画を作るのは石井輝男だけだという、その事実に感動した」(磯田勉『映画秘宝・この映画を観ろ!'99』)とか、「『ねじ式』も石井輝男監督の筆づかいの荒々しさとキュートさに惚れ直した」(池田憲章・同)だとかの、立ち喰いそばばかりかっこんでるであろう、低能貧民が、生まれて初めてゆでたて食べ、突如そば通ぶってる様なふやけたヨイショばかり(立ち喰いだって、ゆで立ての「小諸そば」から、伸び伸びの「富士そば」まであんだが)。ま、この種のブームに便乗、一旗揚げよってな百姓は、いつでもどこにもいる。情けないのは、石井映画がすっかり馬鹿共のセンスと共鳴し合ってること。

 解説書で木全公彦は本作を“ヤバイ企画”と称してるが、一体どこが? 反オウムのためなら、別件、微罪逮捕等、官権の違法行為も一切フリーパス。これを圧倒的多数の大マスコミと国民が黙認してんのが現状。いくら憎くも、マンションのビラまきでパクんな不当だろう。オウムもひでえが、多額の税金遣って野放しにしてた、警察や公安調査庁はおとがめなしか? 逆に予算や権限拡大して、火事場泥棒じゃねえか。かれらにも責任取らせぬ限り、第二、第三のオウムが必ず登場する――こう思ってる者も少なくない。

 ヤバいどころか、カルトから若者を守る、“文部省推薦の教育映画”にキッチリ仕上がってる(エログロシーンもこの程度なきゃ、近頃のガキは観てくんない)。“石井輝男監督は宗教団体との討論も辞さない。マスコミの批判も受けて立つ”(解説書)そうだが、なに血迷ってんだか。今オウム叩くのは、一昔前の南アフリカ糾弾マンデラ支持、現在の北朝鮮バッシング同様、どんな小心者も胸張って出来る、安全で知的でちょっとオシャレな、実は一番恥ずかしい行為だ(この種の処世術は、黒柳徹子かアグネス・チャンに任せておけ)。

『ゲンセンカン主人』以降の石井は、異常でもカルトでも何でもなく、表通りの常識人だ。つげ義春やつげ忠男という、石井隆同様に奨励芸術会員になっても妙ではない文化人の原作を撮ることで、いよいよ退化した。世紀末を震撼させるエロ漫画の原作は、他に腐るほどある。例えば、早見純、三条友美、町田ひらく、ちょいとレベルは落ちるがユズキカズとか。これは無い物ねだりとして、“石井監督は私財を投げうって”(同書。こっ恥ずかしい表現!)撮ったらしいが、ならせめて教祖の主観、それが出来ぬのなら、獄中の某教祖とは違い、遂に日本の国家権力握った、〈20世紀の天才〉池田大作をモデルにしてこそ、文字通りの“エクスプロインテーション・フィルム”となり得たはず(墨田ユキ、カンバック!!)。

 俺は思い出す。70年代初頭、新宿の「昭和館地下」で、『徳川いれずみ師・責め地獄』を含む三本の、“異常性愛路線”映画を観た日の事を。映画館と言うより、寄せ場の様な館内の下品でざわついた雰囲気。しかし、上映が始まるや、水を打った深夜の雑司ヶ谷墓地の静けさに。セキ払いさえ湿りがち。三本終了後に電気が。客が互いに視線をそらし、コソコソ早足でうつむいて出ていく。「やなもん見ちゃったなあ…」全員の肩に書いてあった。土方も職工も学生も、去勢されたかの如し。

『地獄』で「石井輝男だ!」と思えたのは、垂れ流し状態で逮捕された、白い上着姿の教祖の股間の、茶色いシミのリアルさだけ。つまらん教育映画はもう撮らんで、さっさと引退してくれ。ウブな客の真心を、これ以上弄ぶな。退屈とわかってても、ファンは身銭切って観ちゃうんだ。人間の尊厳と良心を、真正面から踏みにじる映画の面白さを教えてくれた、「昭和館地下」の汗臭い思い出が忘れられずに。それにしても、鈴木清順はカッコイイ(復帰すんなよな!)。

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