唐  突  に   

 

 

 

 

 

健康的な中学生、光熱斗は、二十三時前にはベッドに入ってしまう。

それからカーネルの元を訪れるのが、ロックマンの日課になっていた。

 

その日も、いつものようにロックマンはカーネルのいる電脳空間にやって来ていた。

「カーネル、今日は何調べているの?」

「アレルギーの発生メカニズムと、種類、それと、それらが社会に与える影響だ」

間髪おかず返ってきた答えは、ネットナビには、あまり興味も関心もないテーマだった。

再起動したカーネルは、いつの間にか確保していた電脳空間で、様々な事柄の情報収集にいそしんでいた。ほとんどインターネットシティなどに外出することもない彼の行動に、「…引きこもり?」と言って「せめて隠遁生活と言ってくれ」と苦笑交じりで返されたのも、先日のことだ。

一度、ロックマンも見せてもらったが、ネットナビに関わる科学・機材に関わる情報工学関係から、ES細胞の分裂による器官形成や遺伝病といった生命工学、シリウスβに関する調査などの天文分野、はては神話や都市伝説といった文系分野にまで、探索の手を伸ばしており、彼が一体何をしているのか、したいのか、全く分からなかった。

そしてカーネルも、訪れたロックマンを特にもてなすでもなく――隠す気もないが手伝ってもらう気もさらさらないらしく――ほとんど放って置かれているような状況だった。

それでも、カーネルの拠点となっているこの電脳空間は、不思議と居心地がよかった。

いくつものウインドウを開き、情報を取捨選択していく広い背中に、背中合わせで寄りかかる。

カーネルは、何も言わない。ただ黙って、ロックマンの重みを受け止める。

「そういえばさ」

「何だ」

「そろそろ杉花粉症の季節だよね……君がアレルギーのこと調べてるの、てそのせい?」

背中に感じる確かな感触と、規則的に流れるスクロール音に、ロックマンは体中の力を抜いて、目を閉じた。

 

不意に背中にかかる重さが、大きくなった。静かになった自分の背後に、カーネルは視線をずらした。

青いヘルメットが、ゆっくりと上下している。

ロックマンは、転寝をしていた。

カーネルが静かに肩を抜くと、小さな身体は、そのまま倒れこんでくる。その身体を左手で支えながら、頭を、枕代わりに自分の太腿に乗せてやる。そして、自分のマントの裾を敷布代わりにした。

カーネルは口の端をほころばせると、そのまま作業を続けた。

 

しばらくしてから、ウインドウの隅の時計を確認し、カーネルはウインドウを閉じ始めた。そろそろロックマンを起こさなくてはならない。

熱斗の起床時間には、ロックマンは彼のPET内に戻っていなければならない。そして、その前にもう一眠りする時間を与えてやりたかった。

「起きろ、ロックマン」

二、三度軽く肩をゆすると、瞼が数回、痙攣を始めた。それに合わせ、ゆっくりと、エメラルドグリーンの瞳が現れる。まだ寝惚けているのだろう、焦点の合わない瞳が、カーネルを見上げた。

同時に。

にっこりと、ロックマンは柔らかく、笑った。

それは、とても幸せそうな笑みだった。心の底から安心しきった、不安など、ひとかけらもない、まるで、無垢な赤ん坊がこぼすような。

そんな、笑みだった。

「カーネル…」

笑いながら、ロックマンは自分の肩に乗せられたカーネルの左手に頬を擦り付けた。

まるで、甘えるように。

不意に、カーネルの左目から、何かが溢れ出した。

 

 

 

不意に、自分の顔に落ちてきた水滴に、ロックマンの意識は急速に浮上した。

目を開け、飛び込んできた顔に、一気に覚醒する。目の前にあったのは、見慣れた精悍な面差しだったが、その左目からは、とめどなく涙が零れ落ちていた。

「どうしたのカーネル!どこか痛いの!?」

気が付けば跳ね起き、カーネルの手を掴んでいた。

初めて目にするカーネルの表情に、驚きより先に不安を感じる。

「いや―― …すまん、驚かせたな。先程から止まらんのだ」

そう謝罪しながらも、涙は零れ落ち、頬を伝っていく。

表情は、普段とほとんど変わらない。僅かに寄せられた眉が困惑を示しているだけで、引き締まった口元も、切れ長のエメラルドグリーンの瞳も、一見、無表情に見えるほどだ。

ただ、涙だけが、それも左目からだけ、溢れてくる。

それは、異様な光景だった。

「そんなこといいよ。

 それより、本当になんともないの?どこか怪我をしたとか、ウイルスとか、バグとか……」

どうやら、カーネル自身が何故、自分が涙を流しているのか分からず、また、制御も出来ないでいるらしい。ロックマンは、思いつく限りの原因を挙げてみる。だが、それはことごとく本人に否定される。

「それはない。私はずっとお前といたのだ。ここから外にもでかけておらん。怪我をするにもウイルスと交戦するにも、まず外に出なくて始まらんからな。大体、こういっては何だが、私に手傷を負わせられるバグやウイルスなど、そうおらんぞ?」

「…それもそうか……」

「それよりも、だ」

「なに?カーネル」

「すまないが、この有様ではお前を送り届けることが出来ん。一人で気をつけて帰っ」

「何言ってんの!!」

思わずロックマンは叫んだ。

「このまま帰れるはずないだろう!?」

自分の身に起こった異常事態よりも、相手の、ロックマンの帰宅を心配し、それに対し謝罪するカーネルに、腹が立った。

ロックマンは、カーネルの正面に正座しなおした。床を叩くことで、カーネルにも正座するように促す。

「それで、何があったの?」

改めて、正面から問う。

「先程も言ったが、何もなかった」

「何もないはずないでしょう?だったら君、どうして泣いてるの」

「…泣いているのか、私は」

不思議そうにカーネルは呟いた。

「……涙が止まらないのを、普通『泣く』て言うものだと思うんだけど――本当に、何もなかったの?変わったことは、何も?」

「ああ…」

真剣なロックマンの表情に押されたのか、言葉少なに語る。

「お前が転寝を始めて、それから時間が来たから起こそうとしただけだ」

「…それだけ?」

「そうだ」

それならば、よくあることだった。取り立てて、普段と変わったところはない。ロックマンは、よくこのカーネルの住まう電脳空間で転寝をしていたのだから。

「ああ……」

何か思い当たったのか、カーネルは声を上げた。

「何?何か思い出したの?」

今は少しでも情報が欲しかった。今この時も、カーネルの左目は、壊れた水道のように、透明な滴を落としている。

「そういえば、お前を起こそうとした時、不可思議な痛みがはしったな」

「痛み、てそんな大事なこと!」

「だが、心配することはない」

思わず顔をしかめたロックマンに、慌てた様にカーネルは言い添えた。

「それは、けして不快なものではなかった。いや、アレは、不快と言うより、どこか切ない甘さを伴なう痛みで――むしろ、心地いいような…そんな痛みが、この胸の奥でしたのだ」

ゆっくりと、その痛みを反芻するように、カーネルは自分の胸に右手を添えた。その表情も、一般的な、痛みにゆがめられたものではなく、柔らかく両目を細め、口元に穏やかな笑みを浮かべていた。

まさか、と思った。

痛みでも、悲しみでもないのだとしたら。

その涙の理由は―――――― 。

ロックマンは、もう一つだけ、問いを重ねた。

「―――― …その時、何考えてた?一瞬でもいいから、何か、その痛みが走る直前でも、直後でも、何か、ふ、と頭に浮かんだこと、ない?」

応えが返るまで、しばらく間があった。再び、困惑したようにカーネルの眉間が寄せられる。

 

「―――― お前が笑って」

 

「―――― それが、とても、嬉しくて」

 

「寝惚けていても、私の名を呼び、笑ってくれるほどに、信用されているのだと

甘えるような仕草を見せてくれるほどに、気の置けない相手なのだと

それが、嬉しくて――――」

 

「それが“答え”だよ」

ロックマンは膝立ちになると、そっと、カーネルを抱きしめた。

「ロックマン…?」

カーネルは、ロックマンの細い肩に額を押し当てるように抱きしめられる。

「ママがね、言ってた。

人は、とっても嬉しかったり、幸せだったりしても、涙がこぼれるものなんだって」

小さな手が、そっとカーネルの広い背を撫でる。

そう――痛みでも、悲しみでもなく、そういった、負の感情に負わない涙ならば。

それは、喜びといった正の感情により、流される涙だ。

「君は、嬉しかったから、幸せだったから、涙を流しているんだよ。

…よかった。ケガや、悲しみじゃなくて」

心の底から安堵したロックマンの声に、カーネルは静かに目を閉じた。

「…皮肉なものだな」

しばらくして、ポツリ、とカーネルは呟いた。それまでと違う、どこか沈んだ声に、ロックマンはそのまま先を促す。

「大佐の―― バレルの葬儀の時」

「うん」

「私の胸の中を、たとえようもない寂しさと、身を切られるような孤独と、己の運命と正面から立ち向かい、その生を全うした彼に対する誇らしさが無秩序に溢れかえっていた。

彼の死に対しては、それ以前から、覚悟していたはずなのに。

私は、泣きたかったのだろう。

あれらの感情の奔流は、今ならそう理解できる……。

だが、私は泣けなかった。

バレルを知る人が、涙を流し、嗚咽を零しているのを、ただ眺めていただけだった。あの中の誰よりも、自分はバレルと共に在ったのに。その自負は、思い上がりや錯覚ではなかったはずなのに。

だから私には、『泣く』という感情は――いや、この場合は、行為は、というべきか――備わっていないのだ、と思った。軍事用の私に、そのような機能はないのだ、と。

その私が、今、泣いているのだ。

それも、バレルを失った“悲しみ”ではなく、お前と共にいる“喜び”で」

「きっと、さ」

そっと、カーネルの背を撫でる手を止め、そのまま柔らかく抱きしめる。

「きっと、もともと君にもあったんだよ、「泣く」て感情は。でも、今までカーネルの中で、その行動に出られるまで、カーネルの感情がいっぱいいっぱいになってなかったんだよ。

それが今、たまたまいっぱいになって、溢れてきちゃったんだよ」

「―― …アレルギーのようだな」

ロックマンの懸命な説明に、カーネルはそんな感想を漏らした。

花粉症などのアレルギーは、本来人間が持っている免疫機能の過剰反応によるものだが、その反応が出るのには個人差がある。これは、花粉やソバなどのアレルゲンに対して過剰反応が出るまでの、免疫機能自身の容量のせいだといわれている。その容量は、同じアレルゲンに対してであっても、ある人はコップ程度しかなく、別の人はバケツほどもある、と比喩されるほどに個人差がある。そして、その人それぞれに違う容量が、ある日前触れもなく一杯になった時、アレルギー反応が出るのだという。

「…アレルギー、て…」

先ほどまで収集していたテーマだとしても、そんな連想をするカーネルに、ロックマンは苦笑するしかなかった。