241号 2018年3月10日 |
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2月25日13時からユニオン事務所に15名の仲間が集まり「、なのはなユニオン2018春闘開始の集い」が行われた。春闘要求を作成し、交渉に臨む仲間が集まり、たたかう意気込みを実感する場となった。鴨委員長は、2018春闘で支部及び個人組合員は、要求の柱として(1)2018年4月施行の「無期転換ルール」を活用し、対象となる組合員は無期転換を申請する、(2)無期転換申請と同時に、正社員との格差是正を求める、(3)賃金のベースアップを求める、(4)評価給賃金になっているところは、公平な評価とするために、賃金基準及び評価の開示を求めることを掲げ、会社と春闘交渉を開始しようと挨拶した。春闘要求を作成した成田エアカーゴサービス支部と3人の個人組合員、要求作成中のオリエンタルランドユニオンから春闘要求と取り組みの決意報告がされた。その報告を受けて質疑応答が活発にされた。
※3月13日交渉 (1)賃金について 1)時給アップの上長評価の開示。 2)土・日・祝日手当(1時間50円)の新設。 3)繁忙日手当(1時間50円)の新設。 (2)無期転換後の労働条件について 1)労働契約法18条「無期転換ルール」に則り申請した無期転換について実施時期の確認。 2)無期転換にあたり所属部署は現在のまま。 3)無期転換にあたり1日の労働時間「8時間以内」を「8時間」とする。 4)無期転換にあたり、人事規程集(正社員・就業規則)に明記された休暇や手当について、 正社員と同一の取得及び取扱いとすること。 (3)労働条件について 1)子の看護休暇と介護休暇を全従業員が取得できることの周知徹底。 2)「時間」で取得できる年次有給休暇。 (4)福利厚生について 1)社バスの土・日・祝日及び月末日の常時運行。 2)女子更衣室に、個室的に使用できるところ(厚手カーテンなどで区切る)の設置。 3)洗濯機と乾燥機を各1台増やす。
1.「無期転換」について (1)労働契約法18条「無期転換ルール」に則り無期転換を申請する。 (2)無期転換にあたり、 1)日給7426円を日給8560円とする。 2)課のミーティングに参加できる。 3)仕事が終了しないための残業は認める。
交渉3月2日 (1)労働契約法18条「無期転換ルール」に則り、無期転換を申請する。 (2)無期転換後の労働条件は、直前の有期労働契約を下回ることなく向上させる。
※3月18日交渉 1 賃金について 基本給7万円を15万円とする。 基本給の昇給は17年間一度もなく、作業手当(4500円⇒4600円)とラウンド手当(3人8000円⇒8500円)が2017年に上がったのみ。基本給のみでは最低賃金を下回り、作業手当とラウンド手当が加算されて最低賃金を上回る賃金体系になっているために、客数や業務内容に左右され、夏・冬は大幅な減額となる。1年間を通して安定した賃金とするために基本給を15万円にする。 2.病気休暇について 1)病気休暇を取得した時、「欠勤扱い」としない。 2)法定の手続きにより、労働災害補償保険法に基づく休業補償給付金、健康保険に基づく傷病手当金の請求をした場合、会社は本人の請求により法定の給付額が支給されるまで立替払いする。 3.有給手当について 有給手当の算定方法について、説明を求める。 4.退職金について 勤続14年以上の退職金を同率ではなく、勤続が1年延びるごとに支給率を「3.0」づつ加算する。 5.今後、就業規則及び賃金規定を改定する場合、事前に協議することを求める。 6.その他 今後、カートへの「ナビゲーション」導入はしないこと。
※2月27日交渉⇒3月19日18時社前・宣伝行動、 1.賃金 2.組合関係[説明する] 1)経営状態は健全財政なので、賃上げは十分可能。全社員一律に2000円ベースアップする。[ゼロ回答] 2)安定した退職金制度(中小企業退職金共済制度など)を導入する。[] 3)実質賃金の低下のため、住宅手当(1万円)を復活する。[ゼロ回答] 4)通勤用駐車場料金は全額会社負担とする。[ゼロ回答] 2.組合関係[説明する] 新規社員に対して労働組合が二つあることを説明する。 またはプレゼンの場を設ける。 3.労働審判で出された審判に基づき田倉組合員を「主事」とすること。 [審判はそこまで命令していない]
1.嘱託社員の基本給を20万円とする。 2.協力度の評価基準の明確化 |
2017年7月にパートとして雇用契約「就労時間9時から15時、週30時間、契約期間平成29年7月11日〜平成30年7月10日」を締結し就労しました。 2017年12月7日に、Kさんは支配人から「貴方の就労は15時までだが、15時以降パーティなどで忙しいので、15時以降働ける人を雇いたい。貴女も安定した職の方がいいよね。2月末までは面倒見る」と通告されました。その後、「解雇ではないか」というKさんの問いに支配人は「勘違いではないか」と誤魔化しました。しかし、2月8日に行われた支配人との話し合いの場で、同席した料理長が「11月8日に、支配人はKさんに退いてもらう、うちの会社に合わない、素行が悪いと話しました」と述べたことで、会社に雇止めの意図があったことが明確になりました。 ユニオンは、(1)退職勧奨ではなく中途契約解除である、(2)就労時間・週所定労働時間が締結されているのに、客数の減を理由に、朝6時30分または前日に電話にて休業を指示した8日間について休業補償を求める、(3)仕事がないことを理由に早退を指示した3時間について補償を求める、と交渉しました。交渉にて、会社はユニオンの要求をほぼ認め、納得できる解決をしました。
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暑い日からの一所懸命 −初めての恋文−」
これ、黒歴史(隠したい過去)ではありません。今でも、私の心で、元気に生きている約30年前からの物語です。
■子供会参加か何かで、何を観るのか知らずに行った映画館は、上野公園近くにありました。『どうせアニメだろ』と、斜に構えていた12歳頃の私が観たのは、"ネバーエンディングストーリ―"。バスチアン君と勇者アトレーユ、同じ年代の少年が二人出てきます。苛められっこで、本が好きで、埃かぶった薄暗い屋根裏風の部屋が好きで、想像と妄想の物語に心安らいで遊ぶバスチアン君は、頑張って生意気をしている私そのものでした。そのバスチアンが、勇者アトレーユに、夢や願いや思いを全て託しながら一緒に戦います。バスチアンはアトレーユなのです。かつ、その時のバスチアンは私でもあったのです。私は、勇者アトレーユに、吸い取られたような強烈な一目惚れをしました。 ■あれから今まで一度も、この映画の事を調べた事もなければ原作すら故意に読んでもいません。私はこれを記憶だけで書いています。誰がなんと言おうと、私の"ネバーエンディングストーリ―"は、あの映画なのです。それはなぜでしょう? ■あの日の帰りの上野公園は、とてもとても怖い印象でした。あふれかえるゴタゴタした人々の中に、(授業や本やテレビとかでうっすら浅く知ってはいた)戦争の名残を鮮明に出している人達を初めて見てショックでした。いいえ、むしろそれよりも『怖い』と思った自らの心に対して大ショックでした。 ■数日間、ひたすらずっと一人で考えました。 『アトレイユにこの思いを伝えたい。伝えるにはどうすればいい?貴方がとにかく大好きだから、貴方と一緒に戦いたい。貴方じゃなきゃダメなんだ。戦う場所はここにもいっぱいあんだよ』って。月々の僅かな小遣いを貯め、本屋に何度も出入りし、地蔵のように雑誌売り場に居ついて、ドキドキしながら大人っぽく見えた映画雑誌を買いました。何度も書き直して、清書して、いっぱいの力が抜けてから気付いた事・・・「あっ、外国人は英語・・・英語・・・英語か?」 ■皆さんにも、何かに勝手に一瞬にして心奪われ恋い焦がれ、とにかく一所懸命だった甘酸っぱい切ない季節があるのではないでしょうか? ■私は一所懸命書いて、決死の思いで投函しました。ローマ字でしたけども・・英語とローマ字の区別が分からない小学六年生でした(笑)。記念すべき初めて書いた恋文がなにをかくそうこれです(笑)。 ■『誰かに言うのは恥ずかしい、でも、言ってもみたい』と思ってもいる、もどかしい出来事を、いつまでも懐かしく優しく大切に持てる余地があって、"ぽろっ"とこぼし合って笑い合える世の中になってほしい』と思いながら、『こっそり聞かせて』とも思っています。 ■今年46歳になる私は、今も、バスチアンです。 『(人や物を傷つけない)妄想は世界を救う』と思っていて、本と映画好きで、たそがれている場合じゃない毎日をアトレーユになって過ごしています。だから、あの映画だけが、いつも腹八分目モードで一生懸命な私の"ネバーエンデリングストーリー"です。ByQ (金沢) |
「今、何処ですか?」
忘れもしない昨年の3月18日、寝ぼけ眼で携帯をとると、飛び込んできた鴨委員長の第一声。「自宅ですけど」と返事しつつ、「あ、やっちまった!」と気づく。電話は、新宿を出発し見切り発車で福島へ向かう全国ユニオンのバスから。大事な日程を間違うとはお恥ずかしいかぎり!――私の「リベンジマッチ」の始まりでした。 5月から、ユニオンの仲間や知人を誘って、福島へ。別件絡みも含め計4回のフィールドワーク・イン・フクシマ。10月には、大震災以後、集会参加込みで、とうとう14回目となりました。昨年も、南相馬市の「鹿島の一本松」から小高区の双葉食堂、広野町の「高野病院」、等々をめぐり、フレコンバッグに詰められた汚染物質の集積所の傍を縫うように走行し、国道が開通したばかりの浪江の赤宇木をめざすも、パトカーによる通行止めで進入不可、等々。様々な想いを抱かされました。南相馬市では、震災後に強い発信力・指導力を発揮し、自然エネルギー生産拠点への転換や、「緑の防潮堤」の構築を始めた桜井さんが市長選挙で落選するという残念な「事件」もありました。被災地の重い空気が窺われます。 しかし、昨年の一番の学びは、同行した仲間や知人たちの様々な驚き、悲しみと痛み、憤りの声を聞けたことです。「聞くとみるでは大違い」、「百聞は一見にしかず」、の連続でその度に人の心の暖かみを感じ、「一緒に来てよかった!」という想いを強くしました。 今年もまた、3月17日の福島県民集会が迫っています。初めての楢葉町開催です。私は楢葉町はこれまで素通りしたのみで、つぶさに拝見したことがありません。 私にとっては15回目の「フクシマ」ですが、何度行っても新しい発見と学び、強い感慨があります。「フクシマ」が福島に戻り、日本が「原発災害」の悪夢から解放されるまで、私のフィールドワーク・イン・フクシマも続きます。同じ想いを抱く多くの皆さんともに。 (橘)
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