2023年11月24日 No.302 |
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JR錦糸町駅に集合。東京ユニオンとシニアユニオンの仲間になのはなの7人も合流。駅近くにある「こひつじ会」に要請書を持参。 パワハラ・モラハラの防止と看護師をめざす学生の教育環境を守りたいと教員4人が組合を結成。直後から組合員に対し、異動などの不当労働行為を連発。労働委員会に救済申立を行うなか、組合員がマイクを握って紛争の早期解決を訴える。 「指導確認書」問題の相談が相次ぐ。「指導確認書」は改善を要する事実、指導内容を受け止めて改善を約束するものであるが「改善が出来なかった場合、時給およびグレードの変更、あるいは契約が終了となる可能性がある」との文言が記載されている。
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社会的労働運動研究会
山城博治さん「今、沖縄で起きていること〜現状と課題〜」に参加して
11月1日に参議院会館で行われた、「今、沖縄で起きていること〜現状と課題〜」という山城博治さん(沖縄平和運動センター顧問)の講演を聞きました。全国ユニオンが事務局を担う、「社会的労働運動研究会」の新版第II期の学習会ということで、なのはなユニオンからは、鴨委員長はじめ執行委員計4名で参加しました。 沖縄では北朝鮮からのミサイル発射と、台湾有事という中国の脅威があおられることにより、与那国・宮古・石垣などの南西諸島に自衛隊基地が作られ、緊張した毎日が続いているとのことです。沖縄の地元紙は連日、基地のことを大きく伝えているのに、本土に来ると沖縄のことはまるで他人事のようだという山城さんの言葉にハッとします。辺野古新基地建設反対はもちろん大切だけど、沖縄本島(「本島」という言い方にも他の島の人々から異論があるという話もされました)の人も辺野古反対に気をとられている間に、島々の自衛隊基地建設が進んでしまったと言います。危機をあおることで自衛隊基地が作られるのと同時に「攻撃に備えたシェルターを作ってほしい」、「F15が離発着できるような長い滑走路を整備してほしい」、「大型艦船が接岸できるように桟橋を長くしてほしい」などの要望を地元首長がするように仕向けられていると、憤りを表していました。 もう一つ印象的だったことは、山城さんが新しく始めた「沖縄を再び戦場にさせない県民の会」のことです。これまでの枠組みだけではない、いろいろな団体の結集をよびかけて、すでに70もの団体が参加しているそうです。若い人たちにも集まってもらったという経緯を話してくださいましたが、運動のやりかたについて現在進行形で「世代対立」のようなものがあると言います。昔ながらの「反対」を声高に言うのは、若い人たちはついていけない、「集会を私たちのやりたいやり方でさせてほしい」という中で、「争うよりも愛したい」というチラシのメインスローガンや、手作りプラカードを作るテント出しのアイデアが出てきたそうです。今も年配の人からも若い人からも、いろいろな批判を受けながらの運動スタイルについては、「11月23日の県民平和大集会をとにかく成功させることに尽きる。(奥武山陸上競技場という)大きな会場を使うんだから数千人しか集められなかったらだめだ、数万人集めて成功させるしかない」という意気込みでした。 平和運動は組合活動とは直接結びつかないとか、なかなかこういう学習会に参加する余裕がないという方々が多いのかもしれませんが、迫力ある山城さんのお話を直接もっと多くの方が聞いてもらえたら良かったのになと感じました。 (片岡) |
11・3 久々の国会前行動4000人が参加!
国葬反対デモ以来、同場所では1年少々ぶりの国会前行動(憲法改正反対集会)に参加しました。 11月なのに季節はずれの猛暑。日陰は涼しいですが、照っているところは湿気の無い暑さ。開始直前に具合が悪くなる人も。11月という季節を意識して、長袖の洋服を着用している人も多いのも原因の1つと思いました。ちなみに自身は半袖TシャツにGパンと夏の定番で(これも異常)。リュックには長袖の洋服を忍ばせましたが、帰宅時の終点のバス停まで出番はありませんでした。 地下鉄駅(国会議事堂前)を出て目的地に向かう途中、場所は不明ですがステージ近くで“右”の方々のうなり声が。「パレスチナが〜」「中国が〜」等、お決まりのフレーズを駆使しての宣伝(はいはい、ご苦労さん)。改憲賛成の人達が至近距離で街宣やっているのが、今までの国会前行動との違いでしょうか。憲政記念館の入口で全国ユニオンと東京ユニオンの幟を発見、合流。 内容ですが、社民・立憲・共産・れいわ・沖縄の風の議員の他、大学教授や弁護士、福島原発被災者等の人達が「岸田はイスラエル戦の停戦機会を逃す」「与党の一部で文化の日を明治の日に改名。バカ言うな」「現政権は女性閣僚数5人を目的化」「被災後、新潟へ避難したが差別が続く」「マイナンバーカードの問題」等、批判を語っていました。中でも印象に残ったのが、日体大の憲法学専門の教授(名前忘れました。失礼)の話で「TVを一緒に見ていた小5の娘が、岸田が経済I3と連呼していた場面を見て、「出来ないことを言うな、『増税くそメガネ』と言った」との発言で、参加者一同大爆笑。続けて「小5にも見透かされる政策しか立案出来ない」と現政権の批判をしていました。 個人的には本当に岸田政権というより、自公連立政権を直ぐにでも終わって欲しい。10年以上も政権を握っても経済は上昇どころか、最近では生活保護申請数が8ヶ月連続上昇。アベノミクスの予定だと年収が平均1人当たりプラス150万円の予定が、平均1人当たりプラス75万円という話も(平均値なので年収が下降した方が多いのでは?)。反して政党内では、維新の会や参政党の様な党が自民党アベ派を継承していたり、迷惑 YouTuber が議席を獲得したN党のような副産物政党が生み出され、モリカケサクラ、旧統一問題等反社との接近問題が噴出。勿論、政治と金の問題もですが。国民の生活や賃金より、政権の悪事の方が上昇しています。 集会は2時間程で終了。「増税くそメガネ」と言っている人達も参加すれば、と思いました。 (清水) |
10月26日14時から衆議院第二議員会館にて、全国ユニオンと厚生労働省との交渉が行われた。冒頭、鈴木会長が厚生労働省の役目は安定雇用を作ることにあるので、まともに生きられる雇用と政策を求めると挨拶。 [交渉項目と厚生労働省の回答及び質疑]
成田空港株式会社の再雇用制度は57歳で58歳以降の雇用について選択させる制度で、(A)60歳定年を選択した場合には58歳〜60歳まで賃金・ボーナスは変わらず。退職金は60 歳で精算。(B)65歳までの雇用継続を選択した場合、58歳で退職金は精算。賃金とボーナスは58歳〜60歳の間は60%、60歳〜63歳は50%、63歳〜65歳は40%になる。(A)と(B)を比較すると、支払われる「賃金・ボーナス・退職金」の合計は、(A)60歳で計4100万円、(B)65歳で計4400万円なので、その差((A)−(B))は300万円である。ということは、(B)65歳までの再雇用を選択した場合の60歳〜65歳までの間の年収は60万円(300万円÷5年間)ほどでしかない。60歳定年時の年収653万円の1割以下である。
つまり、この「Q&A1−5」は、労働者にとっては廉価で、経営者にとっては得する再雇用制度を作ることを可能とする。この問題について、なのはなユニオンの鴨委員長、佐藤(ナ)執行委員、当事者で60歳以降の雇用継続を拒否されて裁判を準備中の富田組合員は、全国ユニオンの仲間らと、高齢者が安心・安全に働くためにという高齢法の趣旨に反する再雇用制度を作ることを可能とする「Q&A1−5」は削除すべきだと、強く求めた。 |
10・7東京ユニオン第44会大会 委員長が渡辺氏から関根氏に交代 渡辺氏が委員長だった16年間、印象に残っているのは京品ホテル闘争である。ホテル閉鎖に抗し自主営業、品川駅前での大宣伝、ホテル屋上での毎夜の集会、2009年1月の強制代執行、その後見えない敵・外資と闘い続けた1年間。熱い思いでスクラムを組んだ場面が何年経っても色あせない。その同時期の2008年末〜2009年正月にかけて日比谷公園で開村された「派遣村」。その呼びかけ人で、今も派遣労働者の強い見方であり続ける関根氏が新委員長に就任した。この交代は、渡辺さんと同年齢で世代交代を考えている私にとって、単なる世代交代ではないぞ! というワクワク感がある。これまでもその活動に追いつきたいと目標としてきた東京ユニオンが、この世代交代によってさらに飛躍することを願う。 なのはなの石油活性化、鴨川ヒルズホテル、鴨川製氷等々の闘いで、交渉・現地行動・労働委員会など一緒に取り組んでくれた渡辺さんには、組合としての闘争終結のあり方を教えてもらった。 心からありがとう! お疲れ様でした! これからも一緒にやりましょう! (桃) |
克子さんの死を悼む
「克子さんから人の悪口を聞いたことがない」と言われ、いつもニコニコしている克子さん、しかし、筋を通し、ブレない克子さんは他党の政治家からも評判が良かった。その人間性豊かな克子さんが、突然10月20日永い眠りについた。84歳でした。「十二分に生きた」と克子さんは思っていたかもしれないが、社民党にとって難しい時代であるだけに、克子さんは貴重な存在でもっとご健在でほしかった。残念でたまらない。まだまだご指導を賜りたかったけれど・・・。 おおらかで、細かなことにこだわらない性格は、小さくなった社民党にとっては絶対必要で、その価値は年々高まっていた。新たな社民党づくりにとって、貴重な人材を失ってしまった。 克子さんは活動仲間として、ともに闘い、ともに語り、ともに学習し、ともに飲み、好きなカラオケを歌った仲間として、ともに歩んできただけに、私たちの心の痛手も、大きい。 克子さんは、都内の小中高で学び、大学は東京学芸大を卒業して教師の道を歩んだが、大学時代には社会への関心を強め、60年安保闘争ではノンポリ学生であったが、デモに参加した。このことがその後の人生に大きく影響を与えたのだろう。 大学卒業後は、教員として千葉県内の小中校を歴任。後半は市川の学校に赴任、そのうち自然に組合役員を経験し、市川教職員組合市川支部の女性部長を務めた。 1987年には、市川教組が市議会に送り出していた大久保節子市議(社民党)が引退し、その後継候補として、市川市議選挙に立候補、見事2位当選を果たし政治家の道を歩みだした。私とは、これ以降市議と党専従の間柄として関係が深まった。 その後1996年には、民主党が結成され、多くの党員・議員が離党。市議では、村上克子市議だけが社民党に残り、市川社民党は存続しました。1998年には千葉県議会議員選挙に克子さんを擁立し闘い、当選した。県議会議員は2期8年を務めた。3期目の選挙では、女性県議一人の克子さんを落選させようと、他党などが女性候補を擁立、女性票が分散して僅差で当選することができなかった。落選しても誰かを批判することなく、落ち込むことなく活動を続け、かつまた竜大市議を支え続けた。 克子さんは、社会党・社民党が4度にわたり分裂しても一貫して働くものの側に立ち、社会党・社民党七十数年間の歴史を受け継ぐ道を選択し、市川の社民党を存続させ、また千葉県連合の存続にも奮闘された。
村上克子さん、安らかにお眠りください。社民党は、相変わらず党の存亡が問われる危機的情勢にあります。平和と暮らし、人権を尊重し、選別・差別のない多様性がある社会民主主義の政党として、社民党を発展させていきますので、残された私たちにお力をお与えください。長い間ありがとうございました。 中村昭司(元社会民主党市川総支部幹事長)
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【《昭和〜平成》:レトロとヴィンテージ、その狭間の中で】第6話 《海外からの客人》 皆様は御自宅に客人を招く事が出来ますか? そして、その客人を宿泊させる事が出来ますか? それも時間的に準備の余裕が無いという状況で。 それは、部屋数の問題や、広さの問題、またはその状態(直ぐに客人を招ける状態にあるのか=片付いているのか)など、色々な難関を解決し、漸く客人を招き、宿泊させられるのだ、という事を改めて認識させられました。 私は以前、フィリピンに住んでいた事があります。約30年前の事になりますが、その頃に現地で知り合ったフィリピン人の知人が、人生で初めての日本(そして恐らく最後の日本)に、人生で初めての一人旅で来日したい、との依頼を受けまして、齢76のその御爺ちゃんを案内する事となったのです。 当初より色々な懸念がありました。あの人はきっと、何処其処に行きたいと言うだろう、あの人はきっと勝手に動画撮影するだろう、あの人はきっと…… 考えたらキリがありません(苦笑) 果たして、予定の日よりも1日早く到着、そして予定日より1日多い帰国のスケジュールで航空券を購入し、勝手に来てしまったのです(溜息) そんな御国柄(人柄?)なので、御当人さまには全く悪気はないのですが、手にした2台のスマホで博物館の中でビデオ撮影、駅のエスカレーターで写真撮影を、寿司店の中でライブ中継の電話を始めてしまう始末。何とも面倒極まりない客人の相手役と致しましては、先に伝えておけば良かったろう、という皆様の御指摘もあろうかと存じますが、それは既に来る前から考えておりました。そして実際に数点つくりましたが、書き始めたらこれまたキリがないのです。多すぎて・多すぎて(爆笑) しかも一応の英語圏の人にもかかわらず、私以上に英語が出来ないとくれば、本来は丁重に宿泊場所の提供と滞在期間の案内役をお断りするべきなのですが。私はこの御爺ちゃんにお世話になっており、これが最後の恩返しと思ったのです。 滞在中、私の拙い英語で説明しましたが、その数分後には同じ事をもう一度説明する羽目に。そうなんです、少し「物忘れ」があるようで。 海外からの来日観光客が増えるその只中で、恐らく何の経済効果もなければ、何の宣伝にもならない、手持ち金の限りある御老人一人のご案内。有給休暇を含めて5日間、仕事以上に疲れました(泣) それでも、素晴らしい、綺麗だ、何て優しい人たちだ、と言われると、50代の半ばに差し掛かった私も、頑張ってあげたい、と。 当初はアレコレと1日で回る予定を組んでいましたが、今回の案内をして解った事は2つ。(1) 1日で見て回れる数は2個所。(2) 千葉県は思ったより広い。 勿論、浦安の某テーマパークにも「連れて行ってくれ」と頼まれました。ですが其処は最初からお断りしておりましたし、都内観光の帰りにフラっと立ち寄れる場所でもありません。何より、なのはなユニオンの抱える最大案件の1つですので、私と致しましても複雑な心境なのであります。 それでも、概ねの予定場所に行き、そして無事に御爺ちゃんは帰国し、お陰様で多くの感謝を頂きました。 それでは皆さま、今月も御安全に! (HK) |
☆☆おしらせ☆☆
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75歳を越えて考えること
この歳になって自然と考えることは死ということである。まず事実の問題として、友人、知人、昔から親しくしていた仲間が1人、2人といなくなっていくということである。年賀状を通して1年に一回仲間の近況に接するが、必ず年に数枚は年賀状の前に、喪中はがきが届くのである。 私も妻も年齢が近いので妻の事情もまた、同じである。そんな訳で、これからはどこかに旅行に行く時は、行く所に近い親しい友にできるだけ会うようにしようということになった。死ぬ前に会える人には会っておこうということである。 11月第二週の日月に年に一回全国から集まり、飲んで語らう会がある。今回は先の考えに沿って、つい2ヵ月前に亡くなった前橋の友人の所へ線香をあげに行き、その後、数年会っていない長野市の大学時代の友人を訪れ、そして魚津市で行われる飲み会に参加することにした。 前橋では友人の御連れ合いさん、妻と私で故人をしのび、話が尽きなかった。長野でもこれまた話題が次から次に湧き出して、話が尽きず、頭が痛くなるほど、おいしい日本酒を飲んでしまった。長野の友人はフルマラソンにはまって毎日8kmくらい走っているということで、同じくらいの年齢だが、腹がまったく出ていなかった。私の方はまさに太鼓腹である。8kmはともかくとして少しまた走らなければという思いに至った。 漢詩の世界でも、「友有り、遠方より来る。また楽しからずや!」と言っては酒を飲んでいるが、まさに古来より古い友人と会って語らうのは実に楽しいことである。そして何よりもこうした付き合いが人生を楽しく、豊かにしてくれるのである。生きるエネルギーを蓄積してくれるのである。毎日一生懸命脇目も振らずに働いていると、自分では充実しているように思い込んでしまうが、まったく逆で、実は心身の疲労とストレスを溜めまくっているのである。そういう毎日を送っているといつか突然身も心もバーストしてしまうのである。 時には忙しい日常を捨て去り、友人と酒を飲んでゆっくり過ごすということが人生において大切なことだと気づいた旅行であった。やはり日常と違うステージに立たないと自分の疲れやストレスのレベルがどうなっているのかわからないものだということを自覚したのである。今まで考えたこともない発想で旅行して、いろいろなことに気が付いた経験談である。皆様も是非お試し下さい。 (哲)
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