なのはなユニオンニュース

2024年3月27日 No.306






    高滝カントリー支部
春闘開始7年目、基本給1万円アップ!
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 3月2日、高滝カントリー支部の2024春闘交渉が行われた。例年通り、高滝カントリーゴルフ場の会議室にて会社側は社長と支配人、組合側は鴨委員長、片岡書記次長、田中支部長他組合員2名の参加で行われた。

 2001年2月に会社は経営悪化を理由に、従業員45名(正社員35名・契約社員10名)に正社員は解雇、残りたければ基本給10万円を7万円カットし3万円にすると提案。正社員全員が理不尽な提案をのむことはできないと、組合に加入して支部を結成し、交渉と本社への要請行動に取り組んだ。4月29日深夜にわたり行われた最終交渉で、組合は基本給減額だけでは会社再建に協力できない。残る者が会社と力を合わせていくためということで、契約社員の正社員化を最終要求とした。5月2日に●退職者には解決金と引越代を支払う、●正社員は基本給を3万円カット、その代わり契約社員10名を正社員にするということで妥結。組合員らは退職・雇用継続と別れたが「組合に出会って希望がうまれた。」と言った。

 その後、組合員4名が支部を継続。2017年に替わった社長が高圧的で解雇の不安があるということで、4名が2018春闘を呼びかけ、組合員を11名(キャディの過半数)に拡大して支部を再建。

 17年ぶりに行われた2018春闘では、ラウンド手当、一時金、作業手当など計12000円がアップ。

 以降、支部は基本給アップと退職金規定の改定「事務職・勤続34年以上、キャディ・勤続14年となっている支給上限を同じにする」を柱に毎春闘、取り組んできた。会社はその時々、手当アップや一時金を支給したが、基本給アップと退職金規定の改定には応じなかった。今春闘、支部はキャディ16人中12人がすでに勤続14年以上ということで、賃金もあるが一番切羽詰まった要求である退職金の支給上限の改定に絞って交渉するとした。組合は、職務は違うとはいえ同じ従業員で雇用形態も同じ正社員なのに不合理な格差は問題である。何よりも、キャディ16人中12人がすでに勤続14年以上なので、働き続けるためのモチベーションに係る重要な要求である、と主張。

 会社は、代々社長が変わり、何ゆえにこの格差ができたのかの理由は不明であるが、給与体系や就業体系が事務職と異なるので、退職金の計上期間を合わせることはできないとした。その上で、キャディはなくてはならない戦力であり、大切な社員で、一層活躍をしていただくためにということで基本給1万円アップを提案。

 要求とは違った会社の提案であったが、2018春闘から求めて来た基本給の1万円アップであり、基本給は退職金のベースなので退職金アップにもつながる。退職金の上限格差をなくすことについては、今後も要求を継続するが、春闘交渉を継続した力が今春闘の結果に繋がったので、2024春闘は組合員一同、驚きと喜びで妥結することとした。




なのはな2024春    首都高KRMユニオン
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 3月26日、首都高KRMユニオンと会社との2024春闘交渉が行われた。

 昨年9月に支部が結成されて、支部は交渉で、●年1回の昇級がされなかったことでの未払金、●深夜勤務手当の不足の未払金、●休憩が取得できなかったことでの残業代未払金、●アルバイトの日給100円アップ等々について求めた。会社は今後、労使関係の安定化を図るということで、全面的に応諾して早期に解決が図られた。

 その解決に基づいて就業規則と賃金規定の改正も昨年末に行われた。そこには、組合結成のきっかけとなった業務中に事故が起きた時の対応(労災にする、補償を手厚くするなど)がしっかりと明記された。

 そんな経緯があり、今春闘どうするかを組合内で検討中に、会社から合意書「年1回4月に昇級を毎年実施する。昇給額については、会社の経営状況、最低賃金の推移及び入札における落札金額などを加味し、毎年3月末までに労使で協議して決める。」に則ってということで、会社から協議が求められたので、組合としてはその場を2024春闘交渉と位置付けて行った。会社からは社長、弁護士及び他2名、組合からは鴨委員長、鴨副委員長及び佐久間支部長他組合員2名が参加して行われた。

 会社から、合意書の内容に則って昇級を行う前提はあるが、実態としては2年に1回昇級をしていた。また昨年合意を交わした段階で追加で昇級をした。今期はかなりの支出をしたので財源が乏しいので、今回は昇級済みとしていただきたいとの説明が、具体的数字を提示して説明がされた。

 組合としては、昇級していたという事が納得できたので今回は賃上げを要求しない。しかし、今年は住民税が昨年の収入に応じて上がるのでその補填はしてほしいと求める。

 会社は住民税の補填はする。また今年の冬は雪凍待機が多く、従業員が頑張っていることは理解しているので、3月末にボーナスは0.5出す。今後は組合と協議して昇級を決定し、従業員に対する説明をきちんと行う、と回答。なお、労災については不勉強だったことを認め、今後は手厚い保障を行う。首都高では一番厚い保障だと思うのでわかってほしいと述べる。

 組合は、会社が昇級を行っていたことをきちんと説明してくれたので、昇級について理解した。今後も前年対比表などを提示して、従業員にわかりやすい説明を求めるとして、妥結と回答する。

 交渉終了後、職場にて組合員に結果を報告し、了承をえる。初春闘終了!



「関西生コンを支援する会 3/8判決報告集会」に参加して写真


 3月8日(金)連合会館で開催された、「関西生コンを支援する会」の「判決報告集会」に参加しました。一連の関西生コン(関生)事件は、「全日本建設運輸連帯労働組合(全日建)」の「関西地区生コン支部」の正当な労働組合活動が「恐喝」や「威力業務妨害」として刑事事件として扱われ、裁判所もその多くに対して有罪判決を出すという組合弾圧です。大津地裁が今年2月6日に判決を出した「コンプライアンス第2事件」の報告集会ということで、担当された弁護士さん、無罪判決を得た組合員さん、全日建の委員長・書記長が報告と発言をしました。

 コンプライアンス第2事件とありますが、生コンクリート現場でのコンプライアンス活動とは、例えば、本来の決まりよりも多くの水を加えた、いわゆる「シャブコン」が使われることがないか、組合が監視する活動が含まれます。シャブコンは工期を縮めたり費用を減らしたりすることはできますが、強度が劣り安全性に問題がある建物ができてしまうので、決して使ってはいけないものです。現場が法令順守をしているか、安全な建物を建てることに傾注しているのかを組合が監視し、その機会にビラ撒きすることを、恐喝未遂や威力業務妨害だとして刑事事件に仕立ててしまったのです。この事件では9人が被告となり、7人が無罪判決を受け、2人は有罪になってしまいました。検察が高裁への控訴を断念したので7人の無罪は確定しましたが、それは「他地域からの応援」で当該活動のビラ撒きに加わっただけだから「共謀関係があるとはいえない」という理由のために過ぎず、裁判所は組合の正当なコンプライアンス活動を依然として「恐喝」や「威力業務妨害」と見なしているという太田弁護士の説明には、この問題の根深さに暗澹たる気持ちになりました。

 「関西生コンを支援する会」は、裁判所の判断を変えていくためには「無罪の世論づくり」が必要と「事件の再現ドラマ」を現在制作中で、各地で上映し拡げていくそうです。憲法で保障された労働組合の活動が、不当に犯罪とみなされることのないよう、私たちも関わっていきたいと思いました。
(片)



3.20さようなら原発全国集会に参加して


 3月20日春分の日に代々木公園で行われた「3.20さようなら原発全国集会」に参加しました。開会少し前から雨が降り始めましたが、全国ユニオン、なのはなユニオンからも参加者がありました。途中で雨が上がって雨宿りしていた橋の下から出て登壇者の話を聞きましたが、能登半島地震の志賀原発への影響や昨年夏以来の福島第一原発からの汚染水の海洋放出、老朽原発の稼働延長や新型炉の計画など、国が原発に固執する動きに改めて憤りを感じました。「命と原発は共存できない」との思いを強くした集会でした。
(片)
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原告B 復職報告&激励会


 3月16日18時から文京区民センターにて、「原告B 復職報告&激励会」が開催された。参加者は23名、なのはなからは11名が参加した。冒頭、全国ユニオン鈴木会長が「労働災害からの復職は退職和解が多く、元職への復帰はなかなか難しい。原告Bさんが闘う意思と一貫した復職の意思をもっていたことが困難の壁を乗り越える力になった。嬉しい!」と感極まって涙し、挨拶。原告Bもこらえていた涙がポロポロ。

 原告Bの裁判闘争を支援し、舞浜アクションに取り組んでくれたシニアユニオンの島書記長は「最初の頃、帽子を深くかぶりマスクで顔がわからないようにしてマイクを握り、書いてきた文書を読んでいた原告Bが、段々と文書なしでの堂々としたマイクパフォーマンスになり、その成長に驚いた。シニアユニオンが主催したカラオケにお父さんも一緒に参加し楽しい時間をすごした。家族にも理解されているんだなと温かい気持ちになった。これからも全力で支援する。」と挨拶。

 続いて、鴨委員長から2018年7月に「頚椎捻挫・頚椎椎間板ヘルニア」で労働災害に認定されてから5年を経て復職に向け現在に至った経緯が話される。鴨委員長は「原告Bの揺るぎない復職に向けた意思、主治医との連携、そして復職に向けて重ねた団体交渉、全国ユニオンの仲間たちの支援を受けて取り組んだ舞浜アクション、労働安全センターの飯田氏らの助言や労基署への同行などの支援が99.9%の復職実現の力となった。最高裁、就労継続、まだまだ続く原告Bの闘いにご支援を。」と述べた。

 原告Bは復職の過程で学んだことを力強く述べた。

 東京ユニオンの渡辺さんからもご挨拶をいただき、一部が終了。二部への切り替えは原告Bの復職を告げたとき泣いて喜び、激励会をやろうと言ってくれた東京管理職ユニオンの伊地知さんが乾杯の音頭を。その後、ささやかな軽食をつまみながら、飲みながら、参加者全員から一言をいただく。どなたの一言もやさしさにあふれた温かいエールで、原告Bだけでなく涙がウルウル。




 1月31日に、職場復帰を果たしました。最高裁の本人が5年半ぶりの職場復帰という事で、毎日多大なストレスの中出勤しています。出勤2日目には心因性ストレスを発症し、咳が止まらず通院になり、時には心無い言葉に大泣きしながら帰宅する日もあり、心折れそうになりながら毎日必死に出勤しています。そんな中で開催して頂いた復職報告&激励会。沢山の皆様にお越し頂き一人一人から沢山の激励の言葉を受け取りました。

 「世間一般的に労災からの復職は難しい」と言われている事を私自身全く知りませんでした。「怪我が治れば復職できる」と復職出来ない未来を一切想像しておらず楽観的に考え、いつでも復職出来るよう自主的にトレーニングを行い、復職に向けた交渉やアクションを続けてきました。

写真 その結果、復職の願いが叶った事は勿論、5回行われた団体交渉の要求の中には、医師が治癒診断を出した日付から復職トレーニング設定日までの約3ヶ月間の賃金6割の支払い、会社規定では休職期間に関わらず5日間の復職支援プログラムのみでしたが、長期休職のブランクで5日間では到底足りない為、1ヶ月間の復職トレーニングを要望し、こちら側の要求内容が全て叶った上での復職となりました。これらの行動を激励会では「労働者として諦めず闘う強さ」として称賛して頂き、嬉しさと恥ずかしさ一杯でした。私自身は、復職への希望を持ち続けただけで特別頑張ったという意識が無いからです。

 職業柄、私自身も何度目の労災か分からない程、怪我の労災が多い職場ですが、毎回休職になる度に、1番大きな不安となるのは”社会との繋がりが切れた孤独感”だと感じていました。今回の休職で、私が諦めない気持ちを持ち続けられたのは、労働組合という居場所で日々沢山学ぶ機会を与えて頂き、閉鎖的空間の思考を広い世界に向けられた事がとても大きいと思います。きっと、組合事務所で作業を与えられなければ、部屋に閉じこもり、いつものようにたった1人で不安と孤独で心が蝕われてしまっていたと思います。

 “100%大丈夫と言わなければ復職出来ないから痛みがあっても無理して復職した結果、悪化し退職せざるを得ない状態”には絶対にしたくありませんでした。このように去っていく同僚を多々見る中、労災が当たり前の環境に違和感を感じ、自分の身体を1番大切にしたいと考え、今回の怪我は、どんなに長期休職になっても段階が整った方法で安心して復職したいと決意していました。そして結果的に予想よりも長い5年半という月日が流れてしまいましたが、納得の出来た復職方法が叶いました。多分、殆どの人は長期休職すると、元の職場へ戻る気持ちが冷めてしまうのだと思います。しかし、今も昔も仕事が大好きな気持ちを保ち続ける事が出来て、休職が長引けば長引く程、絶対に復職したいという気持ちが大きくなっていくほどでした。諦めない気持ちを持ち続ける事は本当に難しいと思います。しかし、この信念こそが労災からの復職には大切なポイントなんだと感じます。

 「この5年で強くなった」会場で多くの方にこのように言われました。

 私が強くなれたのは、紛れもなく皆様に引っ張られ、救いの手を沢山差し伸べて頂いたお陰です。特に鴨委員長、労働安全衛生センターの飯田さんにはお世話になりました。お二方の早急な判断無ければ、結果は違っていたかもしれません。相談し、早目に行動することで結果が大きく変わる事の大切さを学びました。

 この期間で外の世界に触れるきっかけを得て、大きな変化もあり、今までは会社から雇い止めされないように全てを我慢していたけれど、仕事が好きだからこそ会社で長く働き続けられるように自分を守る方向に気持ちが変化しました。

 現在は復職トレーニング中なので、現場での勤務はまだ先になるかと思います。現場に戻ったら、再び閉鎖的空間での同調圧力に己を失ってしまうのではないかと不安で仕方ありません。最高裁で闘いながらの勤務がどのようなものか想像もつきません。

 そんな状態の私の背中を、この先も皆様に支えて頂けましたら幸いです。



車イスからこんにちは(3)
「一人ぽつぽつ声掛け活動とバリアフリートイレ」
金沢 紀子






【《昭和〜平成》:ヴィンテージとレトロ、その狭間の中で】第10話

 その昔、千葉県には「谷津遊園」があり「船橋ヘルスセンター」があり、そして「ららぽーと」が運営していました「ドライブイン・カー・シアター」や「巨大迷路」、屋内スキー施設「ザウス」なんていうのも出来ましたね。南房総では「行川アイランド」のフラミンゴ・ショウが賑わっていました。昭和の事ですね。

 不詳・筆者が小/中学生の頃は、冷房の効きすぎた夏の「千葉パルコ」が好きでした。また、国鉄(現・JR)千葉駅前の「ニュー奈良屋」の地下にあった「チンタンメン」は、今でも味を想い出せます。どちらも今はもうありません。

 「セントラルプラザ」は「ジョッカー」という「ドン・キホーテ」の先駆け的な総合ディスカウント・ショップになったその後、気付いたらその跡地には高級マンションが建っていました。随分と変わりましたねえ。

 因みに、我らが「なのはなユニオン」の所在地であります津田沼の「パルコ」も、昨年に閉店しましたし「イトーヨーカドー津田沼店」もまた、今年の9月に閉店だそうです。時代は変わるもので、悲しんでばかりはいられないのですが、それでも寂しいです。

 この会報が皆さんのお手元に届く頃には、恐らくリニューアルされた「千葉公園」がオープンしているでしょうか。公園なのにアパレルなどの商業施設が入るそうで。不詳・筆者は、近くの中学校を卒業しましたので、個人的には非常に興味があります。

 さて、千葉県の名物は、何と言っても『東京』を冠する名前の施設(や企業)の多さ、ではないでしょうか?(笑) もちろん、其々、幾つかの理由があるのですが、それでも「何故???」という疑問の残るものもあるのですよ?

 成田空港も以前は「新東京国際空港」でしたし、浦安の某・超有名アミューズメント・パークも『東京』を冠していますように、主に「千葉都民」の多く住んでいます県北部(下総)に多いのですが、私の知る限りの南限に「東京ドイツ村」(袖ヶ浦市)が在ります。

 とまあ、私達は、物凄く『東京』という名称に拘っているようですが、千葉県は地理的に見ましても完全に河川でザック・ザクっと本州から切り離されていますので、そこまで『東京』を使う必要があるのかなあ、等と思う、今日・この頃なのであります。

 不詳・筆者は、高校を卒業して直ぐに実家から逃げる様に千葉を出まして、その東京で暮らし始めました。就業先も都内でした。そこで出会った多くの友人の中でも、私の想い出に残りますのは、慶応大生だった同い年の友人であります。何故なら、彼から訊かれた質問の内容に驚かされたからです。

「千葉県では地元の県地図の一筆描き≠習うんだって!?」

と、嘲笑されたのを今でも憶えています(藁) 私はそれまで、どこの都道府県でも同じような教育が小学校の社会科の授業で教わるものとばかり思っておりまして、その友人に訊かれるまで何の意識もしていませんでした。今でも教育の場で教わるのでしょうか? 改めて考えてみますと、なかなか巧い方法だなあ、と思うのであります。

 名称に『東京』を冠する反面、小学校の早い時期に、県地図の「一筆描き」を習う。もしかしたら「チーバくん」のデザインは、その一筆描きに起源があるのではないでしょうか? 果たして千葉県には、今日までに『東京』を冠する施設や会社名が何個あったのでしょうか。
それでは皆様、今月も御安全に!
(H・K)




☆☆おしらせ☆☆


2024年


3月28日(木)14:00
全国ユニオン厚生労働省交渉
参議院会館B109
※13時参議院会館1階ロビー集合
        18:00
再雇用制度問題を問う集会
参議院会館B109
主催:なのはなユニオン&シニアユニオン、後援:全国ユニオン

4月20日(土)18:00
なのはなユニオン執行委員会

4月27日(土)
連合中央メーデー

5月 1日(水)
全国ユニオンメーデー







なのはなトーク
年末恒例の鰻重

 非正規雇用の労働者の日常生活から、非日常生活となる昨年末の年末年始の出来事について、今回もまたお話致します。JR成田駅に15時にメンバーが予定通り集合しました。すぐに成田山の参道を歩き出しました。しばらく歩いてから坂道を下っていきます。そこで本日の第1回目として、いつもの鰻屋さんに入りました。各自で注文していきました。私の番になり、少し価格を抑えて注文しました。第1回目の支払いとして鰻重を指名して注文しました。これが、年に1回の鰻です。早速運ばれてくると、携帯に写真を撮りました。一年働いてとても美味しく味わいました。

 第2回目として、メンバー揃って成田山へ階段を登って参拝しました。まだ人は多くなく、成田山の関係者と思われる方々が、準備に忙しそうに働いていました。人の流れを制御する柵などを並べたりしていました。私自身は、一年の感謝を込めてお参りして成田山を後にしました。

 第3回目として、予約してある居酒屋さんに入りました。禁煙席しかなくても予約したけど、大丈夫だったかと聞かれました。私はもう何年も前にタバコを止めています。まあ、一年に一回だけ顔を合わせるメンバーのため、私自身それほど、自分の事を話す理由ではないので仕方ないですが…。この居酒屋さんでも話が盛り上がり、2時間位過ごしたと思います。ここでの会計は人数で割って、さらに、私がアルコールを少ししか飲まないため、第2回目の支払いは少し安くなりましたが、丁度、鰻重を1つ頂いた金額となりました。(都合で、鰻重が、2回分です)

 さらに、第4回目として、年越し蕎麦を頂くということで、お蕎麦屋さんに入りました。居酒屋さんの続きの様な雰囲気で過ごしました。途中で各自の蕎麦を注文すると、店員さんはメモを取りました。けれども、このお店に入ってから、1時間30分ぐらい経過しても、いっこうに蕎麦が出てきません。おかしいと思って、確認したら、なんと、店員さんは、注文を失念しておりました。店員さんは、時間は大丈夫ですかと尋ねてきたので、電車が動いていればとお伝えしました。イラスト急ぎで蕎麦を作って頂き、蕎麦を携帯で写真に撮りました。第3回目の支払いも、蕎麦を含めて、約鰻重の代金となりました。都合で、一日で、鰻重を3回頂いた金額になりました。JR成田駅から、最寄り駅についてから自宅に戻りました。ちょうど、テレビは、行く年くる年を放送していました。そして元旦に能登半島地震が発生して、2日は羽田空港で飛行機事故が発生しました。メンバーが九州へどのように帰路に着いたかは不明です。

 震災と飛行機事故にお悔やみとお見舞いを申し上げます。
(田中)