理想失われた時代

ボードリヤール(03/10/23朝日新聞)


 20世紀の冷戦時代の恐怖の均衡は相手が目に見えた。だが、見えない敵を相手にするテロとの戦争には、決定的な勝利も終わりもない。テロリズムを悪として一掃し、根絶やしにすることが出来るというのは幻想にすぎない。

 問題は、グローバル化によって生まれた強大なパワー自身がもろさを抱えていることだ。グローバル化は世界を同じ価値観で覆いつくすために、文明が抱えるさまざまな葛藤や対立を排除してしまう。ところが、対立軸や多様性を失って一極化した世界は、かえって不安定になり、内側から崩れていくことが多い。

 普遍的な共通の価値を世界に押しつけようとして失敗した歴史の反省から、今日の欧州は個別性や多様性を重視する方向に変わっている。

 単一の価値で世界を統合しようとする米国流の原理主義は、欧州が遠い過去の世界に置いてきたものだ。

 異質な意見に対して開かれるべき言論の世界までが、政治的に敵か味方かという色分けで判断する傾向に侵されている。

 寛容という理念は何かを新しく生みだすものではなく、消極的な、いわば弱い価値観だ。寛容が強調されるのは、強い価値観や理想が失われた時代だという特徴がある。その意味では、いまは価値が衰退した時代だ。政治の見せ物化が進んでいるのも、政治の言葉や理想が力を失っている現実を映し出している。

 いまはイメージで政治家が選ばれる新しい時代だ。

 情報が過剰な社会の問題は、中心が失われることだ。見た目のイメージに関心が向かうのも、何が重要かわからなくなっているからだ。

【ボードリヤール】
 元パリ大学教授。社会学者として現代社会を批判的に分析し、モノの価値よりも、ブランドや記号としての価値に動かされる消費社会の到来をいち早く予見して注目を集めた。大学を離れた後は哲学者、文明批評家として活躍。74歳。