ここで昭和批評史みたいな話になるが、この数十年間の日本の批評は、小林秀雄の悪影響がはなはだしかった彼の、飛躍と逆説による散文詩的恫喝の方法が仰ぎ見られ、風潮を支配したからである。無邪気な批評家志望者たちはみな、彼のようにおどしをかけるのはいい気持ちだろうなとあこがれた。そういう形勢を可能にした条件はいろいろあるけれど、大ざっぱな精神論が好まれ、それはとかく、道学的になりやすく、その反面、対象である作品の形式面や表現の細部を軽んじて、主題のことばかり大事にしたのが深刻に作用しているだろう。つまり文芸の実技を抜きにして、いきなり倫理とか政治とか人生とかを扱いがちだったのである。小林の『本居宣長』が、この国学者にとって生涯を通じて大切なものであった『新古今』との関係をないがしろにし、墓の作り方の話に熱中したり、日本神話の原理主義的受容を褒めそやしたりするのは、自分でそのような形勢を代表したものであった。

 吉田さんの方法はまるで違う。いつも音楽の実技と実際とがそばにある。鑑賞も思考も武断主義的でなく、但し書がつけられたり保留があったりしながら、なだらかに展開するし、しかもそれが鋭い断定や広やかな大局観を邪魔することは決してない散文の自由自在と論旨の骨格とが両立し、むしろ互いに引立てあう。わたしがいつの間にやら私淑したのも、こういう筆法のせいが大きいだろう。

 これは、2004/11/9付けの朝日新聞で丸谷才一さんが書いたエッセイ「袖のボタン」からの抜粋です。吉田秀和さんと小林秀雄さんとの対比がおもしろかったので掲載しました。
 なかでも、小林さんが近所に住む吉田さんを訪ね、小林さんの最後の大著「本居宣長」を置いていったのに対しての吉田さんの返礼の様子を吉田さん自身が本に書いているんですが、これが実に興味深い。しばらくして吉田さんが小林さん宅を訪ね、「やっぱり私にはこの本はわかりません」と言うんですね。そして、こう書いているそうです。「せっかくの好意に、正直にいうよりほかないのが悲しかったが。」