啓中
不快指数の罠
キヨカワウグイ様
外は雨だ。待ちに待った週末だが、走りに行く気にはなれない。
梅雨時であればそれも仕方なく、啓介は蒸し暑い中里の部屋で、その部屋の主と共にベッドの上にいる。
「エアコン、入れてくれ」
中里は、ベッドヘッドに放られっぱなしのリモコンを仰向けのまま手探りで掴もうしたが、なせず、大きく一つ息をつくと、赤みの残る瞳で啓介を見上げた。
やっとかよ、と呟いて、代わりに啓介が手を伸ばす。中里が知り合いから譲り受けたというそのエアコンは旧式で、かかる電気代が馬鹿にならないからと、なかなか稼動のお許しが出ないのだ。夏場は寒いくらいに冷房を効かせた部屋で過ごす習慣のある啓介に、これからの季節、中里の部屋は、なかなか厳しい環境になるであろうと予想できた。
お許しが出たからには、一刻も早くこの部屋を冷やしたかった。が、探った中里の指先に弾かれ、彼の頭上からさらに離れたところまで滑っていったリモコンには、啓介の手も、ほんの少し届かない。
「あれ、届かね……」
よっ、と短くかけ声をかけ、体を前へと押し出す。すると中里が、ぎゅっと目を瞑って、喉を反らせた。
「てめっ……馬鹿……っ」
「しようがねえだろ。……えいっ」
なんとか手にしたリモコンで、中里推奨の設定温度を内緒で低くし、「運転」ボタンを押す。ゴウン、と低い音を立てて回り出す室外機の音が響き、やっぱ年代物は違えな、と妙なところで感心した。
「……除湿でよくねえか」
中里が、諦め悪く恨めしげに見上げてくる。啓介は苦笑とともにその顔を見下ろし、機嫌を取るように、その頬に軽く唇で触れた。
「あとでそうする。とりあえず、冷やそうぜ、今は」
実際、湿度さえ下がれば、それほど不快でもない室温ではある。真夏ではないし、真っ昼間というわけでもない。だが、確かに、手っ取り早いところで室温を下げてしまいたいのも事実だった。
蒸し暑い部屋で、湿度も室温も上がるようなことをしていたのだから、仕方ない。
ベッドの上、中里が啓介を見上げ、啓介が中里を見下ろす体勢を維持するような行為だ。ちなみに双方、素っ裸である。
その素っ裸の中里が、素っ裸の啓介の下で、もぞりと身動ぐ。
「……高橋、」
低く呼んでくる彼の意図を、啓介は察しないでもなかったが、あえて「なんだ?」と素知らぬふりをした。
この行為に関することを、彼は口にしたがらない。拒絶の言葉はいくらでも吐くくせに、どうしてほしいのかを言ったりはしない。行為の最中であれば、自分も夢中になっているから、恋人が言外に求めているものを察した時点で応えている。少ない時間を、駆け引きなどに費やしたくはない。
ここで少し意地悪してやりたくなったのは、今夜は帰宅の必要がなく、時間がたっぷりあるからだ。
中里はもぞもぞしながら、大して力も入っていない手で、啓介の肩を押し返してきた。
「ちょ……っと、離れねえか」
「やだよ、なんで」
健気な抵抗を抑え込むように体を被せ、逃げようとする腰を抱え込めば、震える吐息が頬に触れる。
「……っふ、」
「部屋も冷えてきたし、仕切直し。な」
暑いと集中できなくていけねえよ、と笑ってやれば、一瞬ぎょっとしたように目を剥いた中里が、次の瞬間呆れたように細く長く溜息を吐いた。
「仕切直すほどのことかよ」
「嫌か?」
いや、という答えは、「嫌」ではなく、否定の意の「いや」だった。即座に返ってきたそれが意外で、真意を問うように啓介は彼の顔を覗き込んだ。
「……まじで?」
一拍おいて、その目から顔を背けた中里が小さく舌打ちする。
「悪いか」
「いやいや悪くねえ。むしろいいことだ、うん」
この機を逃してはならないと、啓介は体勢を整えるために少し腰を引く。中里の体が、びくりと戦く。さっきから繋がったままのところが、体の震えに連動して啓介を締め付ける。
「そんな締めんなよ」
「うるせえ、反射だろ、反射……あっ」
引いた分を押し込むと、不意を打たれた中里が高い声を上げる。普段は低めの声を紡ぐ声帯が掠れた高音を発すると、妙に艶めいて聞こえる。啓介は、中里の中に埋め込んだままの半身が、たちまち熱を滾らせるのを感じた。
「高橋……お前」
体内での啓介の変化を感じ取った中里が、困惑に眉を顰める。
「反射だろ、反射」
揶揄を含ませ鸚鵡替えしにすると、中里はくそっ、と悔しげに呟いて、一度は押し上げた啓介の肩を抱き寄せた。
合体したままじゃ動きづれえな。中里の唇やら舌やらを舐め回しながら啓介は思ったが、抜こうとするたび酷く締め付けられるので、諦めてこのままいくことにした。中里の言うとおり、彼の意思によらぬ現象だろうとは思うが、そのたび切なげに眉を引き絞り、切羽詰まったような声を上げられては、闘わずして二回戦を終えてしまいそうだった。
今夜は、走りにいくこともできないし、今夜中に高崎へ帰らねばならない用もない。じっくりと、珍しくその気になってくれた恋人を味わいたい。幸い、抱き合って丁度いいくらいの室温に下がってもいる。
舌先を耳まで移動させ、その名を囁き吹き込みながら耳殻を囓る。
「ん、」
噛み締められた中里の唇、それを嘲笑うかのように、鼻から甘い息が漏れた。できることなら、こっちの名前を囁き返すくらいはしてほしかったが、それだけの余裕がないんだと思えば、それはそれで燃える。
「中里」
再度囁き、指先を平らかな胸板に滑らせる。乳首に辿り着く前に、中里が腰を跳ねさせた。一度終えていることが神経を過敏にしているのか、素肌という素肌が性感帯になっているようだった。おかげで、必死になって固定していた腰を、抑えておくことが難しくなる。
「……無理すぎる」
思わず、ひとりごちた。
中里が、喘ぎながら不思議そうに見上げてくる。
「なに、が」
「いや、」
胸を合わせると、彼の両腕が背に回された。少しも力が入っていない。けれど、自分には、決して振り解けない腕だ。
キスをひとつ、唇に落とす。
「同じ抜かずの二発でもよ、それだけじゃ風情がねえなと思ったんだけどな」
無理っぽいわ。笑い、合わせた唇を軽く噛んだ。
その、噛んだ唇が、挑発するように、笑んだ。
「風情って、お前……似合わねえこと、考えてんじゃねえよ」
湿った内腿が、啓介の腰を挟んでくる。
「やりゃいいじゃねえか、好きなだけ」
彼は、一度は啓介の背に回した腕をシーツの上に放った。その態度も言い様も投げ遣りだったが、啓介の理性を吹き飛ばすのには、十分すぎた。
挟んできた太腿を、膝裏に差し入れた掌で撫で上げながら、開き、折り曲げる。言葉は出なかった。そのために割ける思考力が、啓介には残っていなかった。よしんば口から言葉を発することができたとしても、中里を呼ぶことくらいしかできないだろう。思考のすべてを、彼が占領しているのだから、他の言葉など、出てくるわけがない。
締め付けに逆らいながら、ぎりぎりまで引き出し、押し込んだ。根気よくやっているうちに、滑りがよくなり、動きやすくなってくる。一度目で中に吐き出したもののせいだった。
「う、っん、」
中里が呻く。苦しげに唇を噛み締めている。だが、苦痛以外のものを彼が感じているのは、啓介にも判っている。誘うように緩み、絡みつき、逃がさぬように締め付ける内側が、快感を示している。気遣う必要は、なかった。
啓介は彼の脚を解放し、代わりに腰を掴んだ。強く引き寄せ、そこに己の腰を、音がするほど打ち付けた。
「っ、や、」
「声、もっと出せ、よ」
言ってやると、頭髪をシーツに擦りつけるようにして、頭を振る。
「好きなだけ、とか言っといて、今更」
ほんの少し間をおき、一際奥を突き上げる。仰け反った体に構わず、そのまま突き上げを激しくすると、今度は堪らないふうにその身を捩りながら、中里が腕を伸ばしてきた。
動きを止め、なにか言いたいのかと顔を寄せると、思わぬ力で背中を抱き寄せられた。
「中里」
抱き寄せられるままに胸を合わせ、呼んだが、返事は返ってこない。ただ、強く縋り付かれた。
声を懸命に殺し、そのくせ快楽しか映していない潤んだ瞳で見上げてくる。求められているような気がしてキスをすれば、中里の方から舌を絡めてきた。
絡め合いながら、啓介は腰を動かした。中里の中に、出したくて堪らない。だが、胸を合わせているため、思うように動けない。
さあ、どうしようか。
最後の手段、彼の腕を解いてしまおうか、と考えたときだ。
鈍った動き――啓介の本意ではないが――に焦れたのか、背中に回っていた彼の手が、下へと滑り、腰の辺りに添えられたかと思うと、自分の腰に押しつけるように力が込められた。
ゆるりと、その腰が回る。
その間、中里の目が、逸らされることはなかった。
啓介は、黒く濡れた瞳と、初めて遭遇する彼の媚態に、目眩すら覚える。中里よりよほどきちんと息をしているはずが、脳へ通う酸素は、まったく足りていないようだった。
「お前……知らねえぞ」
啓介は、脅すように囁いた。
更に勢いを増した啓介のものに、中里は気づいたはずだ。なのに、この上それを煽るように、両脚を啓介の腰に絡み付かせてくるのだ。
「俺だって、知ったこっちゃねえ」
嘯いて目を閉じる。
啓介は、彼の汗ばんだ側頭部に指を差し込み、黒髪を梳いた。そんな些細な刺激にすら、彼の内側は敏感に反応を返してくる。その奥へと、己を解放させたくて、堪らない。
「それって、どうにでもしてくれってことだよな?」
今度は、応えが返ってこなかった。拒絶の言葉はいくらでも吐くが、どうしてほしいかは、言わないのが中里だ。
啓介は彼の返答を待たず、自分の下半身と、彼との結合部の位置関係を都合のよいように整えると、先ほどまでのように、深く強く彼を求めて動き出した。
粘度の高い水音と、肌と肌とがぶつかる音、喘ぎ、そして、たがが外れたかのように溢れ出した嬌声が、部屋を満たしていく。
外は雨だ。エアコンの室外機の音も尋常ではない。どうせ聞こえやしないだろ、と啓介はたかをくくったが、絶え間なく声を上げ続ける中里が、そこにまで考えが至っているかは定かでなかった。
ロックを嗜む隣の部屋の住人が、ときどき不意にステレオの音量を上げることがあるのも、啓介は知っているが、中里はおそらく気づいていない。そういったとき、彼はいつも気づける状態にないからだ。
白いシーツに淫靡な皺を描きながら、中里の体が跳ねる。裡の肉がうねる。射精したくて堪らない。しかし、反面、じっくりと、だらだらと、快感に温んだ空気に漂ってもいたい。
泣き声と変わらないような声を上げ始めた中里が、飛んでしまったらそこで終わりだ。
そうならないように微調整を繰り返し、自分も一緒に高まっていく。
折角、部屋も冷えたのだ。
啓介は、この少ない好機を余さず楽しみ尽くすために、いくらかの余力を残しつつ、とりあえず出してしまうことにした。
隣室の洋楽が爆音となって聞こえてきたのは、そんな時だった。
end.