寒い。急速に覚醒する意識と共に、中里は肌を刺す夜気にゾクリと肌を粟立てる。瞼をうっすら開き、パチパチと何度か瞬きをして視界をはっきりさせると、そこは昼間異形と戦い敗れた筈の草原であった。
不思議な事にあれだけ瀕死の重傷を受けたにも関わらず、中里の体には傷一つ見当たらない。痛みすら。あれは異形の見せた幻覚だったのだろうかと一瞬思ってもみたが、辛うじて身に付いている程度の神父服を見れば、やはりあれは現実だったと認めざるを得なかった。
現実か…現実のがよほど悪夢だなんて、そんな経験初めての事だ。そしてもし、今日遭った事全てが現実であったとすれば、この傷を治したのはきっと…。げんなりとしてそう思い出すのは、天空から突如降って来て、いきなり聖職者である自分の唇を奪った挙げ句、彼が悪魔になったのは自分に責任があると宣った見知らぬ悪魔。一体あれは何だったんだ。俺は雷を呼んだのであって、悪魔を召還した覚えはないのだが。中里はつらつらと寝起きの頭のまま思索に耽る。と、言えば聞こえは良いが、要するに現実逃避であった。今ある現実を認めたく無かったので。つまり、自分は、今現在、その悪魔に抱きかかえられているのである。自分は男なのに横抱きにされ、不自然な体勢で抱き締められて…プライドにいたく傷が付いた。
「う…あ…てめ」
離せ…と、続けようと中里が身じろぐと、器用に人を抱っこしたまま居眠りしていた悪魔も目を覚ました。一瞬キョトンと、しかし花が咲いたように悪魔はにっこと笑って見せると、ぎゅうぎゅう中里を抱き締めてきた。
「…!?気が付いたかっ!?俺、治癒術やった事ねぇからよ…あー良かったぜぇ。…成功して。で、どうだ?痛いトコ、ねぇか?」
ぐりぐりと金髪を首筋に押し付けて懐くこいつはやはり悪魔…らしい。月明かりの為、細部までは把握できないが黒翼、体に描かれた紋様…しかもその組み合わせから読み取るに相当高位に位置するようだ、そして人を魅了し惑わす金色の瞳、美しい容姿…全て悪魔のそれに準じている。しかし、言動から察するに、どうも本人自身は悪魔初心者らしく、元々の性格からなのだろうか何やらやたら人懐っこい。今まで見て退治してきた悪魔とは随分タイプが違うと中里は若干引き気味に考えたが、そこは悪魔。人を誑かすあらたな趣向なのだろうかと、その恐ろしさに中里は内心震え上がった。
「うっ…うわああぁ!!悪魔よ退けッ!!」
反射的に胸元の十字架をかざす。純銀の十字架がきらりと月光を反射すると、悪魔は中里を突き飛ばしてのけぞった。
「うおっ!!てっめ!!命の恩人に向かって良い度胸じゃねーか!大体、お前のせいで悪魔にまでなっちまった、俺様になんてモンむけやがるちきしょう!!」
十字架をかざしながら中里が尚も聖句を呟くと、悪魔はそれ以上近づけないようだった。中里は半泣きになりながらもホッとした。自分の言葉はまだ神に届いている。心に余裕ができると、今までの疑問が降って湧いて出る。目の前にいるのが異形である事も一瞬忘れ、噛み付くように吠えた。
「そもそも、その俺のせいって何なんだよ!俺はお前なんて知らないぜ、誰だよお前!!」
「何言ってんだ?お前が泣いて助けを呼んだから、つい応えちまったら天界のエリートである啓介様が堕天しちまったんだよ!どーしてくれんだよ!!お前のせいだろ!?」
「んなっ…!?どう考えても自業自得だろそれ!俺関係ないから!!」
中里は頭を抱えた。まずい、こいつバカだ。
「責任とるまで離れねーぞ!って言うか天界追い出されちまったし行くとこねーからお前んちに居座るからなー!!」
啓介は聞き分けのない子どものように人の拒否のセリフを遮って大声で宣言している。しかもさりげなく同居前提だ。
よりにもよってこんなバカにとっつかまるとは思わなかった。理屈が通じない。これは、もうこっちの言い分なんて理解しちゃくれないだろう。何で俺がこんな目に…。神よ…この試練は過酷過ぎます。
そう中里が、うずくまってあーだのうーだの唸っていると、性懲りもなく啓介とかいう悪魔はひょこひょこやってきて、ジュッと皮膚が焦げるのも躊躇わず中里の十字架を奪って放り投げた。明らかな力の差に中里は愕然とする。殺される、と中里は思わず身を竦めた。啓介は先刻とはまるで違う、酷く高圧的な表情で中里のパサついた黒髪を掴んで仰向け、名前を尋ねた。
「お前…何て名だ…?言えよ…言わなきゃ…この場で犯す」
やはりこいつは悪魔なのだ。中里がびくりと身を竦ませると、啓介はねっとりとした舌で涙の滲んだ頬を舐めて扇情的に囁いた。
「…なあ。俺と契約しろよ?お前が生きてる限り、俺がお前を守ってやる。お前が死んだらその魂を貰う。ずっとずっと、そばに置いて可愛がってやるから…」
色を載せた瞳でちゅ、ちゅと瞼や耳元や首筋に音を立ててキスされながら、がたがた震えて役に立たない手足のまま中里はまずい、と思った。傲岸不遜といったこの男の、時折不安げに揺らめく金色の瞳に胸が知らず疼いたのだ。これが人間を堕落させる悪魔の甘い誘惑なのは分かっているのに、抗えない。ようよう中里毅だと名前を告げた時には、中里は啓介に顔を愛撫混じりに散々ねぶりとられて息も絶え絶えの有り様になっていた。
「中里…毅…毅か、良いな…」
啓介はもごもごと何度か中里の名前を反芻している。獣じみた獰猛な面と、無邪気な子どもの面がくるくると取って変わる。その落差に思わず絆されそうになる心を抑えつつ、中里は努めて冷静に啓介に告げた。
「仕方ない…い、命助けてもらったのは事実だ…契約はしねえけど…その、居るのは構わねえよ。…義理は通す」
ぷいと、真っ赤に染まった顔を背けながらの中里のうめきに、啓介はそうこなくっちゃなと破顔一笑した。
「体…まだ辛いだろ?怪我は治したけど血液までは復元できなくってよ…でもまあ、任せろよ。俺様の精気わけてやるからさ」
これでお前俺のモン♪と至極ウキウキとした様子の啓介が、また唐突に聞き捨てならないセリフを吐く。中里は思わず耳を疑ってしまった。聞かなければ良かったと後で酷く後悔する事も知らずに。
「せせせ精気!?何をどうやって?」
「セックス中出しに決まってんだろ?あ、何神父さん知らないの?初心いね〜!まあそうだよな〜、いいっていいって、マグロみたいに寝てりゃ俺が全部してやるからさっ!!あ、そっかー…俺も童貞か…悪魔成り立てだもんな〜。お互い初めて同士…いいんじゃない?」
あっけらかんと言ってのけたこの悪魔に、中里は憤死した。
「良くねえ!!神に仕える僕が肉欲に溺れられるか!!貧血位……あ…う…何てこたぁ…」
ぐらりと足りない血に傾げた体を啓介はぐっと引き寄せて、中里をぎらぎらした眼で睨み付ける。
「は?何勘違いしてんだよ、毅?お前、もう悪魔に魅入られたんだぜ?神様?お前の祈りはもうあいつ等には届きゃあしねえよ。あいつ等の御言葉とやらも、俺が聞かさねえ。俺の呪いだけ聞いてろ…毅」
そう言うとゾッと底冷えのする笑顔で啓介は、気絶してしまった中里に恭しく口付けてやった。