実写版パラレル


                  君は空中楼閣に棲まう者



            1.歪んだ時間軸


「た、たかはしっ!!」
 耳に飛び込んできたその声に、涼介は危うく携帯を取り落としそうになった。
「な、中里か!?」
 自分が中里の声を聞き間違えるはずがない。涙声で切羽詰ってちょっと声が掠れて裏返っていたとしても。
 とはいえ、中里がこんなリアクションをしたことは今まで一度もなく、涼介はそう聞き返さずにはいられなかった。
「高橋、どうしよう、俺……」
 こんな声で喋られたら、誰だって心臓が一瞬止まるだろう。 
「ど、どうしたんだ、中里っ!?」
 涼介は登院実習中だということも忘れて大きな声を出していた。
「俺も、何がなんだかわかんねえんだ――。お前ならわかるんじゃねえかって……。高橋、医学部だろ、お前ならどうにかできるよな!?」
 すがるような声の中里。何がなんだかわからず、その声につられるように涼介の脈も速くなる。
「なにがあったんだ!? もっと具体的に言ってくれ!!」
「朝起きてたらこうなってたんだよ……。俺、戻っちまったんだ。子供に、戻っちまったんだよ!!」
「え……!?」
 涼介は絶句した。
 冗談だろ? いや、普通は冗談だと思う。しかし中里の声はそれが紛れもない真実だと伝えていた。

「それ、本当か……!?」
「嘘ついたってしょうがねえだろ! 俺だって信じられねえんだよ!!」
 完全に涙声ながら、伝わらないもどかしさに腹を立てているように噛みつかれて涼介は慌てた。
「と、とにかく会おう中里!」
 電話がかかってきて急いで飛び込んだ人気のない検査室から頭だけ診療室に突き出して、涼介は外の様子を伺った。医師や看護婦や学生が忙しく立ち回っている。
「今家にいるのか?」
「いや、バスに乗ってる。俺、何度も電話したんだ。繋がらねーから、直接会おうと思って」
「病院に向かってるのか!?」
「ああ、もうすぐ着く」
 涼介は瞬時に決断した。
「よし、わかった! 俺、具合悪いから健康管理室に行くって言って抜けてくる」
 その後二言三言話して電話を切ると、指導医にいかにも具合悪そうに体調が悪い旨を伝え、その場を離れる許可をもらった涼介は廊下に出て歩き出し、角を曲がってから駆け出した。


 正面玄関を駆け抜けバスロータリーに到着すると、涼介は息を整えながら辺りをぐるりと見渡した。

 白衣を翻して出てきた若い医師の姿に、停留所に並んでいた人々が不思議そうな眼を向ける。その中に中里らしい姿はなかった。涼介はまだバスが到着していないのかと思い、それから、少し離れた木立に人影があることに気付く。
 木の陰に隠れるようにして俯いている姿に、涼介は大股で近づいて行った。
「中里?」
 その声に、人陰ははっと顔を上げ振り返る。
「…………!! なか、ざと、なのか?」
 そう問うた涼介の声は少し掠れていた。
 黒目勝ちの大きな目は赤く染まり、その顔は実際もう少しで泣き出しそうに歪んでいた。
 体に合っていない黒いTシャツとずるっとしたズボンは以前中里が身につけていたもので……。だが、
着ている中里が記憶にあるよりも小さかった。
 涼介は自分より頭一つ分小さい中里を見つめた。
 年齢は、たぶん15、6ぐらい。その顔は見慣れた中里の顔に酷似していて、髭がないのと輪郭線に幼さ
が残るのを除けばそれは紛れもなく中里毅だった。
「たか、はし……」
 その声は記憶しているものよりも少しだけトーンが高かった。
 見知った顔を見たことで中里の限界まで張り詰めていた緊張の糸はぷつりと切れる。
 すがるように仰ぎ見た大きな目からじわりと涙が溢れ頬を伝った。それはハタという音をたてて地面に黒い染みを残す。そしてその微かな音が二人の間で止まっていた時計の針を動かす合図となった。
 中里は自分が知らぬ間に涙を流していたことを恥じるように、ぐいと音が聞こえそうなほど勢いよく手の甲で目を拭った。
 いつもの強気で勝気な力のある光が瞳に戻ってくる。
 ああ、もったいない……。
 涼介はそう思い、そしてそう思ってしまった自分に狼狽した。
 自分の心の動きが理解できなかった。
 人の泣き顔を綺麗だと思ったのは初めてのことだった。
 中里の涙が自己憐憫ではなく、己の身に降りかかったどうしようもない運命に必死に耐えようとする心の震えを表していたからかもしれない。
 その姿は鮮烈な印象となって涼介の脳裏に刻まれ、それと同時に耐え切れなかった気持ちの堰が溢れた相手が自分だった、というのも涼介の心に悦びをもたらした。
「高橋、悪かったな、実習中にお前を呼び出しちまって」
 中里は自分の涙を見られた恥ずかしさを紛らわすように、少し顔をそむけて早口でそれだけ言った。

 高橋涼介を見て自分がここまで安堵するとは思わなかった。いい年をした男が人前で涙を流したことをどう思われるかと思い、自分を見下ろしてくる涼介の視線を痛く感じる。
 頬に朱が差した中里をこの状況で可愛いと思ってしまった自分の不謹慎さを軽く反省しながら、それでも中里の心の機微がわかって涼介は微笑ましく思わずにはいられなかった。
 どんなときでも心の強さを失わない中里。義理堅くて真面目で頑固なくらい一直線で、自分のことよりも先に相手のことを考えてしまうその優しさが涼介は好きだった。出会ってすぐにそんな中里に惹かれ、走りという共通の趣味が仲立ちとなって交友が始まり、深まるにつれ、ますます心の中でその存在が大きくなっていくのを自覚せずにはいられなかった。
 心を許せる友人。初めての……。
「気にしないでくれ。それより、場所を移そう」
 涼介は静かな声で提案した。当初の衝撃が去ってみると、この異常な状況をすんなりと受け入れている自分がいて不思議だったが、科学的に異常なことであろうとも、現実を受け入れられないほど涼介は狭量でも頭が固くもなかった。
 中里に歩み寄りそっと背に手を回して促す。
 成長期のほっそりとした肩が一瞬びくりと強張ったが、涼介に促されるまま素直に従った。
 涼介が連れて行ったのは木立に囲まれた人気のない病院敷地内の一角だった。職員も患者もあまり訪れることのない登院中の涼介の密かな隠れ家だった。木の葉に遮られて昼間なのに淡い光だけが満ちる
静謐の空間。くすんだ白いベンチに中里を座らせると、涼介も隣に腰掛ける。中里の顔は見ずに、その膝の上で固く握り締められた手を見つめながら涼介は静かに切りだした。
「話してくれないか? 中里」
 なにが起こったのか――。
「…………。わからねえ、俺にもなにが起こったかなんて。ただ、朝起きたら、こうなってた……」


 目覚まし時計でいつものように起こされて、夏休みだけの短期バイトに行くために重い体を引きずって洗面所に立ったとき、初めて変化に気付いた。
 腰をかがめて顔を洗おうとして洗面台の高さに違和感を覚え、顔を上げた先の鏡に映った自分に愕然とした。
 童顔を気にして大学に入ってから生やし始めた髭がきれいに失われ、年齢相応にシャープだった頬の線が丸み帯び、驚愕に見開かれた大きな目が鏡の向こうから覗いていた。
 中里はよろりと一歩後退った。
「な、んだよ、これ……」
 声もどこか昨日と違う気がした。
「うそだ! …………。嘘、だろ……?」
 まだ自分はまだ夢の中に居るのだろう――。
 固く目を閉じ、大きく蛇口をひねった中里は勢いよく出て来た水に頭ごと突っ込んだ。
 首をつたって水が寝巻きまでも濡らしていく。冷たさに一瞬身震いし、中里はそのままの体勢で蛇口を閉めた。そのまましばらく動けなかった。
 夢なら覚めてくれっ! そう強く願った。これほど必死に何かに祈ったことなど今までなかった。
 そしてゆっくりと顔を上げ、目を開けた。
 鏡の向こうには濡れそぼって惨めな姿の子供が映っていた。
「ああ…………」
 中里は声を押し殺して泣いた。冷たい水に混じった涙は、熱を奪われながら頬を流れていった。
いつまでそこにじっとしていただろう。
 中里は寒さに我に返り、冷え切った体と絞りつくして空虚に枯れた心を自覚した。そして、自分の身に降りかかった理不尽な現実は何をしようとも変わらないのだと頭の隅で理解した。諦観が冷静さを呼び込み、突きつけられた現実を受け入れたとき、静かな不安が心にもたげてくる。
 現実的な不安。それは自分の居場所が失われたという恐怖だった。
 普通に毎日を過ごしていて、年齢を同じくする仲間とともに大学に通い、オフには峠ではじけて……。そのうち就職して社会に出て一人前に働き出すのだと、その未来は何の疑問もなく当然来る当たり前のものだと思っていた。だが、一夜明けた今、その流れから一人取り残されてしまった自分がいる。
 姿は数年前のものでも時は紛れもなく流れていて、社会には自分の帰属する場所はない。大学の友人たちが、よくて高校生ぐらいにしか見えない自分を同年代と扱ってくれるだろうか? そもそも、自分が中里毅であるとどれだけの人が信じてくれるだろうか――。
 いや……と思考が翻る。
 自分が危惧しているのは誰も信じてくれないことではない、むしろ自分が中里毅だと知られることが恐ろしい。
 何の変哲もない、普通に社会に溶け込んでいた自分という存在が、突然奇異と好奇の目で見られるようになる。人々の噂のたねになり、自分の知らぬところで創られた像が一人歩きする。静かな日常がかき乱され、どこにいっても人の目に怯えるようになる……。
 そんなことは耐えられない。

 冷え切った体を抱えるようにして、力なく中里はベッドに腰掛けた。
 どうすればいいのだろう…。
 どうすれば知られずにすむのか、どうすれば元に戻れるのか――。
 見当もつかなかった。
 ふと顔を上げる。32の模型が飾られたラックの上に無造作におかれた携帯電話が目に飛び込んできた。
「…………たかはし、りょうすけ」
 昨日最後にそれで話した相手だったからか、ふいに名前が浮かんできて思わずといったように口からこぼれ出た。
 涼しい顔をして何でも完璧にこなしてしまうあの男。あいつの手にかかったら不可能なことなどないのではないかとすら思えてくる。危険を物ともしないが無謀を犯しているのではなく、全ての行動は計算に基づいて証明されたこと。その計算も常人にできるものではないが、出されたロジックをやりこなせるのもあの男だから。
 中里の表情が僅かに動いた。
 もしかしたら、という小さな光が心に灯る。あいつならこの先の見えない状況を打開してくれるかもしれない。距離も適当だ。親しいが関係は趣味の車の範囲にとどまり、大学の友人のように利害が関係するわけでも深く付きあいがあるわけでもない。私情なく冷静な判断を下してくれるだろう。
 人のプライベートを言い触らすような男ではないし、信頼はおける。
 相談するのにうってつけのように思えた。
 あいつにならこのことを知られてもいい。
 そう決断を下した後の行動は早かった。携帯を手に取り着信履歴から高橋涼介の番号を呼び出すと通
信ボタンを押す。その際ディスプレーの上の方に表示された時間を確認し、正午をとうに回っている事実に苦笑する。いつまで陰々滅々としていたのやら。思えば高橋は大学だろう。
 しばらく呼び出し音を聞いていたが、適当に見切りをつけると中里は支度を始めた。じっとしてたくはなかった。直接会いに行けばいい。
「くっそ、全然サイズがあわねー……」
「そういや俺、高校入ったばかりの頃はちっさかったんだよな……」
 ぶつぶつ独り言を言うのは焦る気分を落ち着かせるため、そして事実を認識させるための無意識の儀式。
 それでも借り物のような格好ながら用意を整えるとひっそり家を出る。アパート前の駐車場に止められたGTRにちらりと一瞥をくれた中里だったが、すぐに顔を背けそのまま歩き出した。


「俺、さ、今でも現実じゃねえって思いそうになる。でも、いつまでも逃げてばかりはいられねえってわかってんだ。……高橋、お前に会いにきたのは、お前なら俺の身に起こったこいつを、説明できるかも知れねえと思ったからだけどよ、それだけじゃねえ」
「…………」
「お前の手で退路を絶って欲しいと思ったんだ」
 希望に……。
 そう聞こえたような気がして、涼介は思わず中里の方を向いてしまった。そしていつの間にかこちらを見ていた中里と目が合ってしまう。何かと葛藤するように、複雑な光が交錯した真摯な眼差しが涼介を見ていた。涼介は息を飲む。
 俺にその役をやらせるのか? 中里の過去に鎌を振るうDeathになれと?
 そしてお前はどうしようというんだ?
 涼介がいつまでも口を開こうとしないので、中里は自分で言を継いだ。
「なあ、高橋、俺のこれって病気なのか?」
 それを本当に信じているのなら俺はイエスと言う。でも、お前は知ってるんだろ?
「これって、病気じゃねえんだろ? 聞いた事、ねえもんな。解決策、あるんなら聞こうと思ってた。
けどよ、自分でも気付いてるんだ。嘘や気休めはなしだぜ。本当のことを言えよ、高橋。科学的にこいつはなんなんだ?」
 逃げるなよ、真の友達なら本当のことを言え。そう告げる中里の視線に涼介は負けた。
「…………わかった。言えというなら言う。……俺の知る限り、時間が後退する病気などない。論文は当たってみる。でも期待はしないでくれ。これが病気ならむしろお前が第一患者だ。だから解決策は、恐らく、ない」
 中里は肩で大きく息をした。
 わかっていたことだった。それでもはっきり宣告されると気持ちが思わず萎えそうになる。
「そう、か……」
 強がっていた緊張が一瞬解け、泣き笑いのような表情で中里はつぶやいた。
 寂しそうな儚い笑顔に涼介は目を奪われた。
 そんな顔をするなよ、思わず抱き寄せそうになってしまうだろ?
 ……いや、俺はいったい何を考えている? 中里を抱きしめたい? 中里は男じゃないか。
 涼介は心に来たした奇妙な思いを、僅かに眉を顰めて打ち消した。
「そう、……戻れ、ねえんだ、な…………」
 噛みしめるように一言一言区切ってそう言った中里は、それきり押し黙ってしまった。
 沈黙が重苦しく垂れ込める。気のせいか周囲は先ほどより影を増していた。おそらく日が傾いているのだろう――。静寂に耐え切れなくなったのは涼介の方だった。
「……どうするつもりだ? 中里」
 我に返ったように中里は身じろぎした。
「あ、ああ……高橋。わりい、考え事をしちまってた。めめしいな、俺も」
「いや……」
 憑き物が落ちたかのように表情が戻ってきて、その変化に涼介は言葉を見つけきれなかった。
「俺、覚悟を決めたぜ。過去の俺はもういねえんだ。もう、うだうだ考えねえ。このままで戻らねえっていうなら、このままでやっていく。大学は、後期試験の頃になってもこの姿のままなら、やめるしかねえ。留年してまで親に迷惑かけられねえもんな。……完全に人生計画狂っちまうけど」
 冗談めかして言うなかに微かな湿度を感じて、涼介は躊躇いがちに言う。
「……お前が、もし国に申請すれば特殊疾患として認められるとは思うが……。研究がされれば解決策が見つかるかもしれないし……誰もお前のことを奇異な目で見たりはしない」
 むしろ格好の研究試料として大切にされるだろう。若返る病気など人間の垂涎の的だ。日本に止まらず世界から招聘の声がかかるだろう。それは豊かな生活と引き換えにモルモットとして生きる事を意味するのだが。
「ふざけんじゃねえよ、俺から自由を奪おうって言うのか!」
 こいつも研究に立身を試みる医者か!?
 大きく身震いして中里は涼介を睨んだ。
 その剣幕に気圧されて涼介は下らない提案をした事を悔やんだ。中里が何を危惧し恐れているかわかっているはずなのに。
「い、いや、仮の話だ。……俺は何も言わないし、お前を如何なるものにも売ったりしない」
 慌てて弁解した涼介をしばらく睨んでいた中里だったが、ふいと顔を背けた。
「……ああ、別に、疑わねえよ」
 どこか投げやりな感じがしたが追求できずに涼介は黙って続く言葉を待った。
「最初は、実家に引きこもろうかと思った。――けど、俺には無理だ。俺、根本的に人と一緒にいるのが好きだからよ。それに親に無用な心配はかけたくねえしな」
 涼介はじっと中里を見つめる。
「要は俺が俺だってわからなけりゃいいんだろ? それなら、誰も俺を知らないところで生きればいいってことだ。今の俺が真実になるように、新たな地で全てを一から築き直せばいい」
「……だが、働くにしろ、戸籍など身元を証明するものが必要になるだろ?」
 過去の中里を知らなくても、公的文章に記された年齢と外見の不一致は誰の目にも明らかだ。
「いつまでも表の世界には出てこれないということになるぞ」
 涼介が眉根を寄せると、今日初めて中里はふっと陰のない悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「お前にしちゃ頭かてーぞ。永久に俺がこの世の狭間で生きなきゃなんねえなんてことはねえだろ? 
今はどう足掻いても無理でも、18、9ぐらいになったら24、5ってサバを読んでもそれほど違和感はねえ筈だ。要するに3、4年の辛抱なんだ。その期間世間の目を欺き通せば、俺は中里毅として社会に戻ってこれる。その前に俺が俺ってバレちまったら、そりゃ悲劇だけどな。言ってみればハンターから逃れる一匹狼ってことだ。スリル満点だぜ。人生をかけたゲームなんだからな。けど、俺はそのゲームから逃げないぜ!」
 狼ではなく、一匹兎の間違いではないのか? それに退行した年齢が普通の成長のように進むという保証もない――という突っ込みは無理やり喉の奥に飲み込んだ涼介は、取り合えず中里の考えを知ろうと先を促した。
「つまりどうするつもりだ?」
「俺、東京に出ようと思う」
「え……!?」
 涼介は息を飲んだ。予想していいはずの展開だったのに、まるで青天の霹靂のようにその言葉は涼介を打ちのめした。
「ちょ……、ま――……」
 涼介の表情の変化に気付かずに中里は明るく続ける。
「東京なら人も多いし、たとえ知り合いと擦れ違っても俺だってわかんないだろ? 普通はこんなガキが俺だなんて思うヤツはいないし、似てたって他人の空似って思うぐらいだ。これからの3年間俺はこの世のどこにも属さない者だけれど、その仮の人生も過去の人生も、東京ぐらい雑多な所が紛れ込ませのに丁度いい。俺さ、お前と違って仲間とわいわいやるのが好きだし、一人だと寂しいって思っちまうんだよな。仮でもいいから友達が欲しいし、そいつが信頼できるやつなら、俺が元のラインに戻るとき
本当のことを告げてずっと友達でいるってのも――っつ、痛っ!!」
 突然肩に食い込んだ痛みに中里は小さく悲鳴を上げた。涼介の手が中里の肩を万力のようにギリギリ
と締め付けていた。
「ちょ、痛えっ!! 高橋、痛えっつってんだろ!?」
 自分を睨むような涼介の視線になにがなんだかわからず、それでも中里は果敢に睨み返した。
「東京に行くって、今すんでいる所は……?」
「今住んでるアパートは、大学のダチが多いから当然引き払うんだよ!」
「それで、東京に……?」
「だから、さっきからそう言ってるだろうがっ! つか離せっ、痛えんだよ!!」
 怒りにまかせて力一杯振り払おうとしたとき、まるで投げ出すかのように涼介が力を抜いて、バランスを崩した中里はしたたか手と背中をベンチの背もたれにぶつけた。
 なんなんだよ、こいつは! 痛みに目尻を赤くしながら中里は涼介を睨みつけた。
 涼介はどこか愉しそうに、そして僅かに皮肉に唇をゆがめて中里を見ていた。その顔に余計に中里は腹が立つ。
「なんのつもりだよ!」
「いや、中里、東京に行くのもいいが、部屋を借りるのにも保証人がいることを忘れていないか?」
「ぐ……!! の、野宿だって――」
「3年間か? 今の時期はいいが、冬は寒いぞ」
 当たり前のことを愉しそうに指摘する相手に中里はぎりと歯噛みする。
「んなのどうにかする!」
「お前みたいなのが一人でいたら、襲われるぞ」
「なんにだよ!? 野犬にか? は、それなら木の上で寝る!」
「野犬? そうだな」
 涼介は微笑した。
「なあ、中里、お前本当に東京でいいのか?」
 皮肉っていたと思っていたらいきなり優しい口調になった涼介に、中里は警戒を顕わに眉間にしわを寄せる。
「どういう意味だよ」
「峠を捨てて、お前は本当に自分が耐えられると思うのか?」
「…………。そんなこと、聞くなよ。泣きてえくらい辛えに決まってんだろ! お前と藤原がこれから新しいチームを作ってどんどん前に行っちまうってのに、俺は追いつく手段すら奪われちまったんだ!

お前らに追いつこうとあれから俺がどんなに走り込んでるか……。けど、もうだめだ。こんな姿になっちまったらな。ガキの姿になって何が一番悔しいっていったら、それかもしんねえ。置いて行かれる不安と焦燥、テメエにはわかんねえだろうけどな! どうせ車に乗れねえんなら、峠なんてない方がいっそせいせいする!」
 喧嘩腰の中里に対し表情を変えずに涼介はたしなめる。
「落ち着けよ。なあ、群馬を離れなければ走りを捨てなくてすむとは思わないか?」
「言ってる意味がわからねえよ」
「藤原が高3だって聞いたとき、俺ら信じられなかったよな? なんでアイツがあの年であれだけのドラテクを持っているか聞いた事あるか?」
「いや……」
「あいつは、家の手伝いで中1の時から豆腐の配達で秋名を走っていたんだそうだ」
「マジ、かよ。……中1?」
 唖然とする中里に笑みを深くした涼介は畳み掛けるように続けた。
「ああ。中里、それでもお前は群馬を離れられるのか?」
「い、いや……。け、けど実家には戻れねえ、今のアパートにいるわけにもいかねえ――」
 思いもよらない希望が見えたことで中里の心は激しく揺れ動いた。藤原が中1の頃からできたことなら高1(?)の自分もできるだろう。しかし……
「なあ、中里、俺と一緒に住まないか?」
「えっ!?」
 突然の涼介の提案に中里は自分の耳を疑った。
「俺と一緒に住まないかと言ってるんだ、中里」
 涼介は辛抱強くもう一度繰り返した。
「お、お前とって、お前実家だろ?」
「ああ、今はな。だが、そろそろ俺も実家から出ようと思ってたんだ」
「そろそろって、お前今5年だろ? なんで今更一人暮らしする必要あるんだ? なあ高橋、俺の話聞いて変な責任感じちまってるんだろうけど、そんなの必要ねえからな! 勝手に相談しちまったのは俺なんだし、気を使わないでくれ」
 中里は慌てたように力を込めて主張する。
「そうじゃない、お前の話を聞く前から思っていたことさ。5年になって準備登院が始まって、高崎から通ってくるのが正直辛くなってきたんだ。朝出て行く時間も早くなったし、オペ見があると朝から夕方まで立ち通しで、手術カンファがある日には学校を出るのが夜9時を回ることもざらだ。科によってまちまちだが帰りが遅くなってるのは確かなことさ」
「そ、そうなのか?」
 嘘を言っているつもりはなかったから涼介は躊躇いなく肯定する。
「ああ。体力には自信はあるが、通う時間が勿体ないと流石に俺も感じてな。今はまだ準備登院で余裕があるが、本登院になったら今以上に忙しくなるうえ国試勉強もしなくてはならない」
「大変なんだな」
「つまり丁度よかったんだよ。お前が俺と住んでくれるならむしろ俺の方が感謝したいくらいだ。家に帰ってきて一人寂しく食事するより、誰かと一緒の方がいい。お前だってそうだろ?」
 まさに中里は一人での食事は苦手だったので涼介の話は共感できた。
 高橋って意外と寂しがり屋だったのか!
 新たな発見に中里は嬉しくなった。出会った当初の頃はともかく、他を寄せ付けない完璧な走りと藤原には僅差で負けたとはいえその超絶的なドラテクをまざまざと見せつけられ、どこか自分とは違う人種のように隔たりを感じていたから。高橋涼介も普通の人間と同じ感覚なんだと知って、このところ忘れていた親近感のようなものを甦らせた。
「俺には願ってもないことだけど、本当にいいのか?」
 遠慮が取り払われて、最近一歩引いた感じがあったそれすらも消えた事に涼介は喜びを禁じ得なかった。中里には自分を特別視することなく傍らで対等に話せる存在でいて欲しかったから。
「もちろんだ。これから、よろしくな」
 涼介の差し出した右手を中里は強く握り返した。
「俺の方こそ!」
 ちょっと照れながらのその表情が可愛いと思いながら、これからの予定を考えて忙しく思考をめぐらせる涼介だった。


 次へ→