(挿入話)




 その日、実習も終わり頃になって戻った涼介は簡単に指導医を丸め込み、体調を盛んに心配されながらさっさと早退していった。
 中里は困ったようにFCの横で待っていた。
「ほんとに俺、別に送ってもらわなくてもいいんだけどよ……」
 かなり恐縮のていでどうにかして辞退しようとする中里を、エスコートするかのようにナビ側のドアを開けることで涼介は皆まで言わせない。
「さあ、中里」
 ニッコリ笑って涼介は中里を見る。
 こいつがやると様になるよなぁと純粋に感心しながら、相手がここまで善意を示してくれているのに、それ以上断り続けるのは失礼に当たると思い、やむを得ず中里は少し緊張しながらナビシートに収まった。
 よく考えてみれば自分が涼介の運転の横に座るのはこれが初めてだったのだ。どこに行くにしろいつもはそれぞれが自分で自分の車を走らせていたのだから。
 赤城の白い彗星とあだ名される涼介のテクは当然街中では見ることはできなかったけれど、クラッチの繋ぎや加速などが随分丁寧で、自分を乗せているからだろうかと中里は涼介の優しさを感じた。
 途中のファミレスで食事を取り、中里が出す指示に従って走ったFCは、気付けばアパートの前に到着していた。
「ほんと悪かったな」
 これ以上家に帰る時間を遅くさせては悪いかと少し躊躇ったが、せっかく送ってきてもらってはいさようならではそれも味気ない気がして、中里はナイトキッズのメンバーによく声をかけるように提案してみた。
「ちょっと休んでくか? なんもねえけど、コーヒーぐらいだすぜ?」
「本当か?」
 大したことではないのに、あまりに涼介が嬉しそうな表情をするので、中里は不思議な感じがした。
カリスマと言うより普通の人間より人間らしいんじゃないか? 今日は高橋涼介について考えを改めることが多い。
 FCを道路脇に止めると涼介は中里の後に従った。3階まで階段で上がる。
「へえ、302なんだな!」
「おお」
 カチリと鍵を回す中里の後ろから涼介は中を覗き込んだ。
「ま、適当に上がってくれ」
 一人暮らしの自分の部屋なのに靴を脱ぎ捨てないところが中里らしい、と微笑みながら涼介もきちんと揃えて上がる。
 玄関を入ってすぐ台所、ちょっと先にドアがあって部屋に続くというこじんまりとした典型的な学生の一人暮らしの住まいだった。涼介はちらりと視線を巡らせてキッチンの様子を観察した。男の一人住まいにしては随分きれいだ。しかも使ってなくてきれいというのではなく、料理道具は一通り揃っており、コンロの回りには使用感が漂っている。
「中里って料理とか結構するんだな」
「? よくわかったな。その通りだぜ、こう見えても結構上手いんだ! 居酒屋の厨房とかでバイトしたこともあるからな。ああ、そんなとこで突っ立ってねえでそこのカーペットんとこに座っといてくれ。せっかくだから、豆から淹れっからよ」
 涼介は言われた通りに台所を抜け、中里の部屋の中央のテーブルに、中里の見える方を向いて座った。昨日までは楽に届いていたのだろうが、小さな中里が背伸びしながら棚からコーヒーミルを下ろしている。中里が自分のためにコーヒーを淹れてくれていると思うと、涼介の心はどうしようもなく躍った。
 しばらくしてお盆にカップを2つ乗せた中里が涼介の元にやってくる。
「砂糖は入れなかったよな?」
「ああ」
 そんな何気ない会話が心地いい。中里が当然のように隣りにいて、ただその横顔を眺めているだけで幸せなのは、自分が自覚してしまったから――……。
 中里が眠そうに目をしばたいた。
「たかはし、わりぃ……俺眠りそう……。……俺、お前が友達でよかった……ぜ。こんなになっちまっても、俺のこと今まで通りに扱ってくれてよ……マジ感謝してる……」
 消え入るように最後の言葉が宙に吸い込まれていき、すーすーと気持ち良さそうな寝息が聞こえてきた。
「中里……?」
 返事は返らない。涼介はそっと中里に手を伸ばした。触れる寸前でちょっととどまり、それから恐る恐るといったように中里の短い癖っ毛に指を滑り込ませる。中里に目覚める気配はなく、規則的な寝息でぐっすり眠っていた。今日一日いろいろなことがあってもう限界だったのだろう。
 中里の柔らかい髪の感触を楽しみながら涼介は目を細めた。
 自分にも波乱の一日だった。昨日には思いも寄らなかったことだ、自分が中里を好きだとは。けれど自覚せずにはいられなかった。中里が今日見せた様々な表情に魅了されずにはいられなかった。
大切な友人だと信じていた、いや信じ込もうとしていた頃からも、実は惹かれていたのだろう。だが、常識と打算からそれに気付くことを無意識に避けたのだと今では分析できる。同性を好きになることの社会的偏見は昔に比べ少なくなったとはいえまだ大きい。社会で成功を望むなら、世間がアレルギーなく受け入れられる外面の方が都合がよい。計算高い自分にはそういう打算が働いていた。
 たぶんこのまま何ごともなく、望めば中里が側にいて、友達として普通に会えるのであれば、自分は自分を偽りきることができたと思う。
 しかし、目をつぶろうとしていた真実は、中里の身に起こった奇妙な現実によって目の前に突き付けられることとなった。
 己の身の変化により中里の運命が大きく変えられたのと同じく、現実的な不利益を分かってもなお涼介が自分に正直になる方を選んだとき、涼介の軌道も大きく曲げられたのである。
 それでも……、後悔はしていない。
 失う前に気付けてよかった、とそう思う。
 中里が東京に行くと言った時、心臓が凍り付いた。
 中里が側からいなくなる。そんなこと、考えてみたことは一度もなく、突然その言葉が突きつけられたとき、まるで氷の刃で胸をえぐられるような激痛が走った。
 東京と群馬はそう遠いわけではない。車でも電車でも数時間で着く距離だ。会おうと思えば会える。
けれど……現実問題としてそれが可能かと言ったら――不可能なのは明らかだった。
 自分は平日は大学で忙しく、中里は身を隠すために東京に出て働いて、時間を合わせることなどほとんどできなくなる。今でさえ中里の方から会いに来ることなど無いに等しいのに、車の関係が絶たれてしまったら、いつの間にか疎遠になってしまうのは火を見るより明らかだった。
 中里の中からいつしか自分が消え去り、他の誰かがその場を占める。
 そんな現実、到底受け入れられるわけがない。
 仮の友達? はっ、そんな関係で満足するヤツがいったいどこにいる? 中里を知れば知るほど誰だ
ってもっと欲しくなる。あまりに真っ直ぐ過ぎるから、たやすく誰でも信じてしまうんだろ、お前は。そして弱みを握られて逃れられなくなるんだ――。
 涼介は自分が酷く険悪な表情をしている事に気付いて、ふっと苦笑を漏らして力を抜く。
 そうなる前に中里を己の手の中に留めて置けてよかった。
 中里の身に起こったことは、中里にとっては可哀想だが、自分にとっては神がもたらした千載一遇の機会だ。いや神というより悪魔の、か……? 俺の心に巣食う闇は、眼を背けたくなるほど酷薄で歪んでいる。中里は決して俺の手の中から逃れられない。幾重にも張り巡らせた罠の中で絡め取られて、結局お前の居場所はここしかなくなる。
 涼介の手の下で中里がもぞもぞと動いて、また安らかな顔でくーと寝息を立てた。
 その愛らしい表情に涼介は柔らかな微笑みを浮かべた。
「けどな中里……、如何なるものにもお前が連れ去られることのないように、俺はお前を守りきるから」
 俺は信じていいんだぜ、どんな時も。
「お前が俺を好きになるように、お前の信頼を勝ち得て振り向かせて見せるから……」
だから今は静かに待つよ。
 涼介はぐっすり眠る中里をそっと抱き上げてベッドに優しく横たえる。
 静けさが深々と降り積もる。夜の闇に誰も知ることのない未来を覆い隠して――……。


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