2.かりそめの平穏


 中里が新しい住居に引っ越してきたのは、あの運命の日から一週間後のことで、後期の開始がまさに2日後に迫っていたときだった。新居を決めて、家具や電化製品といったものを揃えて生活できる状況にするには短すぎる期間だったが、涼介は手際よく全てのことを運んでいった。
「新学期が始まる前に全て終えてしまったほうがいいだろ? 姿を消すのなら、できるだけ自然な形がいい。同級生が同じアパートに住んでいるというならなおさらだ」
 涼介の言葉は常に的確だった。この一週間、中里はバイト先には体調を崩したといって休みをもらってひっそりと生活していた。メールも最小限、かかってきた電話もやむを得ない相手のものだけを取った。中里毅、という存在を消していく作業は少しづつ進められていった。
 いつの間にか人々の記憶から消え去り、中里毅が姿を消したことを不審に思われないようにするということが涼介と中里が出した結論だった。
 中里は電話というものの便利さをつくづく実感する。姿を見られることなく声だけで話をつけられるのは、今の状況では感謝してもしたりなかった。
「電話越しでは声が少し違って聞こえることはよくあるし、それにそこまで変わっているわけじゃないから、お前が元のお前のふりをするには欠かせないな」
 携帯の番号と、それを通る声だけで中里毅の証明になる。既に元の中里がいないとは誰も疑いもしない。その一瞬だけは昔の中里毅の幻影がこの世に甦る。そしてそれを利用して布石を打つ。
「過去の清算を付けたらそいつは邪魔になるが、幸い携帯の番号やアドレスが変わるのは常識だからな、誰も変に思わないだろう、お前と連絡が付かなくなっても」
 それから今のお前用だ、といって涼介はぽんと中里に新しい携帯を渡した。

「なんだこれは?」
「俺との連絡や、お前が新たに始める生活にはそっちを使えよ。携帯は必要だろ? 俺の名前で契約してある。今のお前じゃ買えないからな」
「そ、そうだな」
 使える身分証がない以上それは確かなことだった。涼介の手際のよさに舌を巻きながら、それでもこれだけははっきりさせておかなければと中里は口を開いた。
「いくらかかったかは教えてくれよ? 俺払っから」
 涼介は微苦笑を浮かべた。
「それはいいが、中里、高校生のバイトで稼げる金額なんて高が知れてるんだぜ。お前、家賃も半分はらうと言っていたが――」
 そう言ってちらりと涼介はマンションの契約書を中里に示した。
 中里は絶句する。一瞬気が遠くなりそうになった。
「オイ、いったいどこを借りてんだよ……」
 自分の借りていたアパートの家賃の十何倍かの金額で、どう考えても学生の住まいに掛かる金額ではない。
「無理だろ? 素直に人の好意に従っとけよ」
 静かに涼介は畳み掛ける。
「ま、待てよ……」
 引き止めたものの、中里にはその先の言葉が見つからなかった。涼介は別に自分の保護者でも親戚でもないのだ。そこまでしてもらう謂れはないし、自分のプライドもある。だが、どうやってそれだけの金額を捻出するかといったら、想像もつかなかった。
「嫌か?」
「だってそうだろ?」
 涼介は考え込むような素振りをした。
「ふうん。――……ならこうするのはどうだ? 家事を中里がやってくれるというのは。俺は実習で帰りが遅くなるし、食事を作ってお前が待っていてくれるだけで、俺は嬉しいんだが」
「それだけじゃチャラにならねえだろ――……」
 中里は渋る。普通に数十万の金額だ。友達という関係で甘えられる範疇を超えている。
「他にもやってもらうことがあるかもしれないし」
 涼介は底の見えない笑みを浮かべた。
「掃除とかはやるぜ。けどそれを足してもよ」
「掃除? ――まあそんなに気にするな。お前が負担に思うことは何にもないんだぜ。前も言ってるだろ、俺はお前と住みたいんだって。俺は一人だと寂しいんだ。帰ってきて、お前が迎えてくれるってだけで、俺にとっては万金に値する。俺たちは友達だろ? 変な遠慮はなしじゃないか?」
 中里の反論を封じるように涼介は同意を求める。友達という言葉に中里は弱い。
「そ、そうだけどよ、それとこれは別――」
 なおも渋る中里に、涼介は悲しそうな顔をつくる。
「友達だったら変な遠慮はなしだろ、中里。それとも俺はお前の気に障ることを言っているのか?」
 涼介にそんな顔をさせるつもりはなかったので中里は慌てる。
「いや、お前の好意はすげえ嬉しいんだ。けど――」
「なら、決まりだな!」
 またも涼介が本当に嬉しそうな表情をするので、中里は何も言えなくなってしまった。
 負担に思う気持ちは正直ある。けれどここで固辞してしまったら涼介を傷つけてしまうだろう。現実的に今は払う手段が無いというのも自分に言葉を続けられなくしている。
 何らかの形で、そう、再び社会に居場所ができた時に、働いて返そう。そう思うしかなかった。

                  *

 普通でない状況で突然始まった共同生活は、中里の心配をよそに比較的平穏に過ぎていった。
帰って来たときに俺なんかが待ってるだけでそんなに嬉しいか? と最初は思った中里だったが、涼介が心から嬉しそうにするので、高橋は本当に一人が嫌なんだな、と意外に感じながらも納得した。中里の中で涼介は寂しがり屋で定着していたので、涼介の困った我が儘もしょうがないな、と受け入れた。

「行ってきますと、ただいまのハグは絶対するからな」
「は? なんだそりゃ?」
 よく分からないことを言われて中里は素っ頓狂な声を上げる。
「俺の家ではそれが常識なんだ。俺の家は全て西洋風だから」
 そんなことってあるのか? ここは日本だろ? 中里の不審そうな目に涼介はシレっと答えた。
「親父とお袋が出会ったのが二人がフランス留学中で、そのノリなんだよな今でも。習慣って恐ろしいよな」
「へえ」
 中里はなるほどと思った。そう聞けば涼介がちょっと日本人離れした感性の持ち主なのも頷ける気がした。
 中里が高橋涼介を涼介と呼ぶことになったのも、そんな感じだった。
「当然ファーストネームだろ? 友達なら」
「た、確かに洋画見てるとそうだよな。けど、言いにくいぜ、慣れてねえし……」
 中里は顔をしかめて嫌そうにした。
「そのうち慣れる。ほら言ってみろよ、涼介って」
 涼介がしつこいのでぼそぼそと中里は口の中で復唱する。
「聞こえないだろ、それじゃ、中里」
「でもよ、お前今中里って言ったじゃねえか」
 言ってる事とやってることが違うと中里は抗議する。
「俺は両方で呼ぶ。毅でもいいけど、お前ってなんか中里ってイメージなんだよな。それにお前外で偽名使ってるだろ、中沢毅って。で、自分が間違えないようにってみんなに毅って呼ばせて――」
 今度は涼介が顔を顰めて責める口調で言った。
「そういうわけだ。お前を中里って呼べる特権は俺だけ。なら俺はお前のことを中里って呼ぶぜ。外では毅で。いいだろ?」
 そう勝手に涼介は完結した。
 涼介の理論が理解できないのは今に始まった事ではないので、中里はいい加減に頷く。
「ああ、もうどうでもいい。好きにしろよ」
 だがそこで解放してくれないのが涼介で、その後、きちんと涼介と呼べるようになるまで練習させられたのには閉口した。
 奇妙な共同生活は中里が涼介に呆れながら結局折れるという感じで過ぎていった。
 中里にとって毎日が涼介の意外な面の発見だったが、新しい生活を作り上げる過程で、涼介が頭の切れるヤツだとつくづく感じることは多々あった。
 恐らく涼介の助けなしには、これ程スムーズに新しい人生に移行することはできなかっただろう。
 例えばどうやって心配や不審をいだかれることなく大学から姿を消すか、しかも、半年以内に元に戻って後期試験を受ける可能性を考えて、出席を取る講座では友達に代返を頼まなければいけない。
 どんなに考えても中里にはいい案が浮かばなかった。
 二人で向かい合って中里の作ったロールキャベツと海老ピラフとサラダ、という夕食をつつきながら、中里は悩みきってほとんど箸が進まない状態だった。
「なあ、涼介、どうしたらいいだろうなぁ」
「何がだ?」
「俺、ダチに何て言ったらいいんだろうな? 病気、とか言ったら見舞に来るってぜってえ言われるし。かといって家の都合でって言ってもよ、大学生にもなって家の都合で何ヶ月も休むなんてありえねえだろ?」
「ま、そうだろうな。それより、中里、料理うまいな」
 嬉しそうに関係のないことを言う涼介に、中里は眉間に皺を寄せる。
「おい、真剣に聞いてんだよ!」
「わ、悪い。ならこう言ったらどうだ? やっぱり今の学部は肌に合わないから、前々から思っていたところを受けるために仮面浪人するって」
「へえ!」
 中里は感心して涼介を見た。
「流石だな! で、何学部がいいと思う?」
「居酒屋ってこんなメニューもあるのか?」
「は? ってそうじゃねえよ。俺も、レパートリー増やすために勉強中なの! つか質問に答えろ!」

「そっか、嬉しいぜ! ……あ、いや、無難に考えて医学部でいいんじゃないか?」
 中里がマジ切れしそうなのを見て涼介は慌てて付け足した。
「……医学部かよ! 俺、一度もそんなこと考えたことねえぜ! 高校ん時も生物とかあんま興味なかったもんなぁ。1年時以外は物理化学で通したぜ」
「この場合はお前の意思がどうだって言うより、一番あり得そうなストーリーで考えているんだがな。
医学部受験のために、夏休み中に本格的に決意を固めて大学には来ないことにした。って言ったら誰しも納得すると思うぞ」
「あ……、休めねえ実習とかどうしよう……」
 そこが一番面倒だとずっと涼介は思っていたのだが、今思いついたらしい中里は慌てたように涼介を縋るように見る。その表情にぐらっときながら涼介は何でもないように答える。
「そこら辺はいざとなったら俺が適当に鼻薬きかせてやるよ」
「涼介、お前って意外と恐えよな」 
 優等生かと思ったら意外に手段を選ばないということはここ数日で知っていたが、サラリと言われて思わず余計な事を口走る中里。
「失礼だな」
「わ、わりぃ」
 涼介に軽く睨まれて慌てて謝る。
 そこで一段落つき話が別の方に流れたが、また中里があっと大きな声を上げた。
「どうしたんだ?」
 怪訝そうに涼介が尋ねると中里はまた動揺している。
「な、大学受け直すことにしたんで、明日からバイトに来ませんって俺の信用ガタ落ちじゃねえか? 
すっげえ自己中なヤツみたいだ、俺」
 落ち込む中里に、これだけ色々なことがあるのにそこはそんなに悩むことじゃないだろう、と思ったが、まあそういうことを気にするのも中里かと思いなおし、涼介は適当に案を出してやる。
「それなら、バイト先には体調を壊して続けられそうにないんで、やめさせて下さい、とでも言えばいいだろ? どんな病気かって聞かれても、お茶を濁せば普通はそれ以上聞いてこない。何ごとも臨機応変だ」
「そうか! 涼介、お前ってマジで頭いいぜ! 俺にはそんな風にぽんぽん上手い嘘が出て来ねえよ!」
 感心しきって言っているのだが、やっぱり一言余計な中里は、
「さっきから聞いてれば失礼だろ、中里!」
 涼介に怒られてシュンとなった。自分でも失礼なことをいってしまったという自覚があるので、食べるわけではないエビを無闇に箸でつつきながら、ちらちらと上目遣いで涼介の顔を伺う。
「ま、まじで悪い。そんなつもりじゃなかったんだよ。俺のためを思って涼介が言ってくれてるってわかってるんだ。な、許してくれよ」
 もちろん本気で腹を立てたわけではなく、中里の反応が知りたくて怒ったふりをした涼介は、そのキョドり具合が可愛くて思わず抱きしめてしまいたいという衝動に駆られながら、どうにか自制して、さらにちょっとからかってみた。
「ふうん、本当か?」
「ほ、ほんとだぜ!」
「証拠は?」
 普段はこんな絡みをしない涼介なので、これは相当怒らせてしまったのかと困りきった中里は、どうすれば信じてもらえるだろうかと悩む。
「ど、どんなことをすれば信じてもらえる?」
「そうだな」
 涼介は素直な中里で遊ぶ楽しさを噛みしめながら、笑いが零れないように必死で我慢した。
「俺が小さい時は、謝る時にお袋にごめんなさいのキスをしてたな」
「え?」
 中里は目を丸くする。
「それをやれよ、中里」
 冗談だろうと思ったが、涼介は本気なようだった。
 そんな習慣日本にはねえよ、と言いたかったが高橋家にとっては常識なのだろう。ぐっと言葉を飲み込んで中里は意を決した。
 お詫びのキスってどこにすんだ? 
 必死で映画の場面を思い浮かべる。子供がよくやってるヤツ、そう、頬っぺただ!
 中里はおずおずと涼介に近づいた。涼介の顔は無表情で、まだかなり怒っているのだろうかとびくびくする。
「涼介、ごめんな」
 屈んでちゅっと涼介の頬にキスをした。許してもらえるんだろうかとちらりと顔を盗み見ると、笑いを噛み殺している涼介がいる。
「か、からかったな、涼介っ!!」
 途端に涼介にからかわれたんだと知った中里は、頬を真っ赤に染めて怒鳴った。涼介の人の悪い冗談に簡単に引っかかった恥ずかしさと、そんな自分に腹を立ててムキになって抗議する。その姿に、とうとう堪えきれずに涼介は声を上げて笑いだした。そして腕を伸ばして中里の華奢な体をぎゅっと抱きしめる。
「中里、可愛いな!」
 こんな簡単な冗談に引っかかって、と言われたような気がしてますます中里はムキになって暴れた。

「ほら、そんなに怒るなよ。料理がこぼれちまうだろ?」
「そ、そんなこと知るかよ! 馬鹿にしやがって」
 ちょっと涼介が力を緩めた隙に腕の中からするりと抜け出した中里は、ふざけんな、と捨て台詞を残して自分の部屋に走って行ってしまった。
 その背中を涼介は笑いながら見送る。
 残された食卓で、中里の豊かな表情の変化を思い出して、可愛らしさに一人笑みをこぼしながら涼介は幸せな気分に浸った。
「早く慣れろよ中里。俺もそんなに長くは待ってられないぜ」
 ママゴトみたいなこんな時間も楽しいしそういうのがあっていい。でも、この生殺しの状態で待ち続けるのは、想像していた以上にキツイ。自分の心も身体も限界を迎えるのはそう遠いことではないだろう。
 俺が、平静でいられるうちに気付いてくれよ、中里。
 そうじゃないと、何をしでかすかわからないぜ……。
 
        *
 
 大学に入ってから、中里にとって走りと車が生活の中心だった。寝ても覚めてもどうしたら速く走れるかということばかり考えて、その最高の相棒がGTRだった。中里の中でGTRは恋人のような存在に位置づけられていた。彼女が欲しくないわけではなかったが、GTRで峠を攻めている方が幸せだと感じてしまう以上、それ以外のことにかける時間は極端に少なくなり、出会いはいつも通り一遍で終わってしまっていた。
 走り始めた当初の頃は地元の友達と二人で妙義に走りに行っていたが、いつのまにか周りには一緒に走る仲間が増え、いつしかチームを立ち上げようという話しになり、ナイトキッズをつくった。
 中里にとってナイトキッズは手のかかる子供のようなものであり、いつも気にかけては何くれとなく世話を焼いたりして、チームのメンバーも自分を慕ってくれて、第二の家族のように気の置けない大切な存在だった。それまでの生活は、大学とナイトキッズが全てだったといっても過言ではなかった。
 それがあの日を境に全てが変わった。
 『勉強が忙しいからもう走りにいけない』とそれだけを、一応チームのサブリーダーということになっている元々の友人にメールして、それ以来ぷつりと音信を絶った。
 心苦しくて言い訳したくてならなかった。けれど涼介は『もう会うことも出来ないんだから、下手に関心を引かない方がいい』と言い、中里もそれが正しいと思ったから、一日何十通にもなったメンバーからのメールは開くことなく消去して、着信があっても取らなかった。拒否にできなかったのは、どうしても罪悪感から逃れられなかったからで、せめてもの罪滅ぼしだった。
 その後もメンバーからはメールが入り続けた。しかし次第に諦めが入ったのだろう、徐々に少なくなり、そしてとうとう1通も来なくなった。そのとき中里はほっとすると同時に言いようのない寂しさに襲われた。
 少しずつ自分の居場所がなくなっていく。それを望んでいたはずなのに、いざそうなっていくと恐怖を覚えずにはいられなかった。いつしか中里毅などいたことをみんな忘れてしまうのだろう。誰にも必要とされないという恐怖、世界でたった独りぼっちになったような錯覚に中里は身を震わせた。
 そのとき、あの日以来初めて中里が再び涙をこぼした。
「涼介、俺、恐えよ……。俺がいたことなんてみんな忘れちまうんだ。俺の存在が誰の心にもないなんて、そんなの耐えられねえ……」
 俯いて肩を震わせる中里を涼介はそっと抱き寄せた。安心させるように優しく耳元で囁く。
「大丈夫だ、中里。決して俺はお前のことを忘れないよ。お前が生きてきた軌跡は、俺たちの間には厳然と存在してるんだ。お前が中里毅で、お前がお前だから俺は必要としている」
 涼介の低く静かな声が中里の心に染み渡った。涼介の広い胸の中に包まれていると少しずつ不安が和らいでいく。
「涼介、俺お前に頼ってばっかりな。マジでガキみたいだ」
 中里の顔に照れたような表情が戻ってきて、涼介は優しくその顔を覗きこんで答える。
「いいんだよ、頼れよ中里」
 中里はかすかに笑った。
 そんなに年は違わないのに、なんで涼介はこんなに器が大きくて堂々としてるんだろう。
「ありがとな、涼介。俺、お前と出会えてほんとによかった」

 そんなことがあった数日後、涼介は中里に声をかけた。
「走りに行こう、中里」
 子供に戻ってから初めて中里はGTRのステアリングを握った。
 二人にとってゆかりのない地が選ばれた。
 平日の深夜でもう誰も走っていない静かな秋名山の山頂付近で、白いFCの横に黒いGTRが止まった。
 最後にここを訪れたのは高橋涼介と藤原拓海と須藤京一のバトルのときだった。あれからそんなに経っていないのに、あの時の風景が遠い昔の事のように感じられるのは何故だろう。
 横を吹き過ぎる風の中に秋の気配を感じながら、中里は少し離れたところで己の分身を見つめた。
 漆黒のボディ。サイドに張られた黄色いNightKidsのアルファベットが、その乗り手が誰であるかを示す。妙義ナイトキッズの中里毅。妙義最速の男。
 中里は苦しげに目をつぶった。
 そんな奴はもういない。
 妙義にも、ナイトキッズにも、もう戻れない。
 サイドウィンドーに手をついた。ナイトキッズの文字を指でなぞる。それから、中里は一気にステッカーを引き剥がした。
 ビリと嫌な音を立てて途中で引き裂かれたステッカーは中里の手に握られた。
 その様子をただじっと見つめていた涼介は静かに問う。
「いいのか?」
「いいんだ……」
 中里は大きく息を吸い、それから肺の中の空気を全て吐き出すように答えた。
 もう、過去には未練はない。これは己の心に決着をつける儀式だ。
 今日から自分は新たな人生を歩みだす。二度と後ろを振り向かずに――。



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