3.決壊


 中里と涼介が一緒に暮らすようになってから数ヶ月の時が経とうとしていた。新しい生活は淡々と過ぎていった。中里の日課は朝涼介を送り出してからバイトに行き、夕方に帰ってきて夕食を作って涼介を待ち、そして夜中走り屋が全て引き上げた頃に峠に行って、街が起きだす前に戻ってくるというものだった。単調だったが慣れれば楽しいと思えた。全てを忘れて没頭できる時間は貴重で、昔以上に真剣に走り込むようになった。
 本登院になってからの涼介は本当に忙しく、一緒に走りに行くことは少なくなり、中里は一抹の寂しさを覚えたが口に出しては何も言うことはなかった。気懸かりなのは、最近涼介がふと気付くと険しい顔で自分を見ていることがあるということで、しかしそれもすぐに元の柔らかな表情になるので、気のせいだろうと思うようにしていた。
 涼介は本当に優しくて、自分が自分の身に起こった出来事を深刻にならずに受け入れられたのも、落ち込んだときは側にいて励ましてくれて、常にその場を明るくするように涼介が常に気を配ってくれたからだと感じていた。
 全ての生活が涼介持ちであることが、喉の奥に引っかかった骨のような違和感をずっと生じさせていたが、最初に涼介の言った通り、どんなに働いても高校生のバイトの金額では車の維持費を捻出するぐらいのものにしかならず、どうしようもなかった。
「涼介、俺、元の自分に戻ったら頑張って働いてすぐに返すから」
 ある時中里がそう言った時、涼介は強張った顔で中里を見返した。
「今でも負担なのか? …………。返したければ返す方法はあるぜ……」
 ふと低い声で涼介は呟いたが、すぐに我に返ったように打ち消した。
「いや、何でもない。気にするなと言っているだろ?」
 その表情の変化に一瞬寒気を覚え、中里は涼介の言葉を追求できなかった。
 その話題が嫌なのだと悟ってから、中里はそのことを言い出すことはなくなった。
 体が元に戻る気配はなかったが、順調に成長はしており、この数ヶ月で数センチ伸びたことから、いつかは涼介の手を煩わせずに生きていけるようになると思って、その時になってからまた言えばいいと考えるようにした。

 一緒に暮らせば暮らすほど涼介には中里の心がわからなくなった。
 最初の頃はどんな些細な事でも幸せだった。絶対手にはいる獲物を待つのは嫌ではないと思って、ともすれば性急になりそうな気持ちを抑えて、中里が自分に慣れる過程を楽しんでいた。いつか中里の心を手に入れてみせるという自信があった。
 中里は自分といて楽しそうにしているし、自分が絡むと困ったり怒ったりしながら結局受け入れてくれる。けれど中里にとって自分は一線を画した存在なのだとそのうちに感じるようになった。
 涼介は一歩引いている中里を見るたびに、所詮自分は色々世話を焼くのが好きな中里の性格にただ甘えているだけだと思って、どうしようもなく憂鬱になった。
 自分は中里を知れば知るほど執着して失えなくなっている。中里は気付いていないのだろうが、我が儘を言ったり甘えたりしているのは自分の方で、中里の優しさがなくてはならないものになっているのは自分なのだ。それなのに、中里にとって自分は――そうではない。
 信頼してくれているのはわかる。多大な努力を払って自己制御した結果、中里の中で自分は最も信頼の置ける友人であるのだろう。それ自体は悪いことではないが、結局最後の一点は中里には受け入れられないことなのだろうか?
 中里の心を手に入れようという努力が、時に馬鹿らしくなってくる。
 いっそ中里の罪悪感につけ込んで全てを手に入れてしまおうかとふと思い、すぐに我に返ってその考えを打ち消した。
 欲があるのだ。中里に好きになってもらいたという。
 無理矢理手に入れた結果、中里の心を失ってしまったのでは意味がない。
 だが、自分の心も身体も限界を訴えている。
 次の日に大学があるせいで一緒に走りにすら行けなくなって、中里の出て行った家の中で一人寂しく闇の中に取り残される虚無感。
 すぐ目の前に欲しいものが存在するのにどうすることもできない無力感。
 身体は熱を持て余しておかしくなりそうで、激情を理性で押さえ込んで眠ろうとしても、逆に目は爛々と冴えてしまう。
 こんな日が続くなら俺は気が狂ってしまうだろう。涼介はベッドの中で寝返りを打った。最近は悪夢しか見ない。

               *

 走りが思い通りにいって、時間を失念して走り込んで、その日はたまたま帰るのが遅くなった。気付けば時計は5時近くを指しており、あともう半時ほどすれば街が起き出してしまう。中里は慌てて車の向きを変え峠を下り始めた。
 半ばまで下り終えたとき、遠くからエギゾーストノートが聞こえてくるのに気付く。
「くっそ、今の時間に走り屋か?」
 しかし中里には追いつかれない自信があった。自分はGTRに乗っていて、しかもこの秋名をずっと走り込んでいるのだから。
 だが、ふっとルームミラーにライトが映りこみ、その光が中里の目を射る。中里はまさかと目を見開き、そして次の瞬間強烈な既視感に襲われた。
「ふじわら、たくみ……?」
この音はハチロクのNAエンジンではないか? 引き離しても引き離しても食い付いてきたハチロクの記憶が甦る。それと同時に中里の闘志に火がついた。
 今の自分は以前とは違う。このGTRで自分はどれほどこの秋名を走りこんだか。今なら藤原にも負ける気はしなかった。
 ベストラインをトレースしGTRの性能を生かしてストレートで引き離す。コーナーワークだって以前とは違う、追いつかれることなどない。
 しかし――
 そのコーナーを抜けたとき、中里は自分の目を疑った。
「張り付かれた……?」
 何が自分とは違うのか。ぴったり後ろについてきたハチロクはGTRにプレッシャーをかけてくる。動揺しながらも中里は必死に前を見据えてアクセルを踏んだ。
「この車、中里さんか?」
 拓海はぼそりと呟いた。記憶にあるテール。しかし以前バトルした時よりも随分洗練されたライン取りをしている。この秋名をよく知っている走りだ。地元の人間と言っていい。
 色々な意味で興味が湧いて、拓海は走りを本気モードに切り替えた。
 決着は5連ヘアピンまで縺れ込んだ。既視感を覚える一つ目のヘアピンは、だがGTRが押さえて立ち上がり、そのまま二つ三つと抜けて行ったときには今度こそはと中里は思った。しかし、
「ああ、涼介さんと、同じだ……」
 拓海は呟き、その言葉どおり最後のヘアピンを抜けたときに中里の車がアウトに膨らんだ。拓海はインに滑りこみラインがクロスした時に、ちらりとGTRのドライバーを見た。
「えっ……!?」
 そして絶句する。今のは誰だ? 中里さんのようにも見えるけれど、でもそれより全然幼い。自分よりも年齢が下のように見える。
 スピードを緩めた。
 中里はハチロクのスピードが落ちた事に気付いた。こんなところで速度が落ちるわけがなく、相手の意図は自分に止まれと言っているのだとわかる。しかし、止まるわけにはいかなかった。誰にも顔を合わす訳にはいかないのだ。特に、自分を知る人間とは絶対に。
 反則と知りつつアクセルをいっぱいに踏み込む。GTRはハチロクを抜き去った。その時に拓海はドライバーを再び見て、常識的にあり得ないことだと思いつつも、相手は中里毅だと確信した。
 表情があまりに酷似していたのだ。自分がかつて抜いたときの中里毅の表情に。泣きそうで必死に耐えているようなあの顔が、二人の共通点を結びつけ本能的に同一人物だと同定する。
 他人のことにはあまり興味を持たない拓海だったが、今回ばかりは事情が違った。
 高橋涼介に誘われて新しいチームにはいったが、以前その横でよく見かけていた中里毅は一度も見ることはなかった。不思議に思い、また残念に思った拓海はどうしたのかと涼介に尋ねたが、結局曖昧にはぐらかされて終わってしまった。口下手な拓海が涼介に言葉で敵うわけはなく、その時はそのまま流すしかなかったが、今初めてその理由がわかったと思った。
 拓海は特に深い考えを持たずに、ただ何が起こったのか今どうしているのか聞きたいと思い、反射的にスロットルを開けた。
 再び追い詰められて、中里の精神状態は限界を超した。シフトミスをして急激にスピードを落とす。
それにアウトから前に出た拓海は進路をふさぎ強引にGTRを止めてしまった。
 相手が自分を止めるつもりでいるのに、方向転換して逃げきる自信も気力もなく、中里は止まったGTRの中で俯く。できるだけ相手に顔は見られたくなかった。
 ハチロクから降りた拓海はGTRの窓をノックする。反応がないので呼びかけた。
「中里さん?」
 驚愕したように目を見開いて、中里は拓海を見てしまった。
 なぜこの自分を見て中里だと思うんだ、藤原は。
 だが、この状態でこのままでい続けるわけにはいかないと悟り、中里はのろのろとGTRから降りた。
 それでも最後の足掻きでシラは切ってみる。
「誰だよその中里って」
「中里さんですよね。オレの目は誤魔化せません」
「なんだよその確信は」
「だっておんなじナンバーですよ、中里さんと」
「え……」
 中里は言葉に詰まる。それを見て拓海は自分の勘が正しかったと知った。
「ああ、カマかけてみただけだけど、やっぱり中里さんなんだ」
 クスリと笑って拓海は言い、中里は今度こそ完全に言葉を失う。自ら墓穴を掘ってしまった。
「……この姿を見て、なんでそう思う?」
「なんとなくです、そんな深い理由はありませんよ」
 拓海の言葉に中里は疲れを感じたが、もう一人自分のことを何の疑いもなく中里毅だと思った人物のことを思い出して、常人離れした人間は感性も普通と違うのだと自分を納得させた。
 藤原拓海は悪意ある人物ではないし、他の誰かに見つかるよりかはマシだろう。
 拓海は色々質問し、中里はそれに答えた。
 ある日目が覚めたらこうなっていたこと。困っていた自分を涼介が助けてくれたこと。そして自由でいるために世間から身を隠したこと――。
 中里にとっても、涼介以外に初めて自分を知る人物に会って、聞きたいことは沢山あった。涼介は決して中里の過去に関わることには触れないから、数ヶ月ぶりに聞く外の世界の様子は新鮮だった。
「……え? ――ナイトキッズが解散した!?」
「ええ、走り屋の間では一時期とても騒ぎになったんですよ。リーダーの中里さんが峠に来なくなって、結局中里さんの求心力で纏まっていたようなチームだったから、空中分解って感じで消えていきました」
 中里は呆然とした。自分にとって家族のように大切だった自分達の立ち上げたチームが、いつの間にかなくなっていると聞くのは身を切られるように辛かった。
「……もう、妙義にはナイトキッズはないのか?」
「ええ、たぶん。俺はそういう噂とか詳しくないけど、友達の樹って奴が言ってました」
「そうか……」
 深い後悔に襲われる。言い訳でも何でもして、あと数年したら必ず戻ってくるからそれまでチームを守ってくれ、と言い置きしておけばよかったのだろうか。だが涼介がそんなことは許すまい。
「他に俺の噂は?」
 それ以上何も知りたくなかったが、それでも聞かずにはおれず中里は拓海に尋ねた。
「そうですね、最近は何も聞きませんけど――」
 寂しいがそれは自分が望んだこと。
「最初の頃はいろいろ、それこそ何が本当だか分からない程いろんなのが流れてましたよ。でも一番よく聞いたのは、高橋涼介が何かを画策して、それで中里毅は走れなくなったらしい、っていう噂でしたね――」
 中里は目を見開いた。
 なんでそういう話しになる? 全く逆じゃないか!
 涼介のお陰で自分は今でも峠にいられるのに……。
 続く拓海の言葉を右から左へ上の空で聞きながら、無責任な言葉をばらまいた見知らぬ相手に中里は憎しみにも似た感情を抱いた。胸がきりと痛んだ。
 自分はどこまで涼介に迷惑をかけているのだろう。そんな噂、根も葉もないと否定したいのに、当の自分は人前に出ることができない。
 そして最近涼介が暗い顔をしていたのはそれが原因だったのではないかと中里は思い至った。涼介は優しいから自分に心配をかけまいと黙っていてくれたのだろう。
 一生懸命喋っていた拓海は、中里の心がここにないのに気付き言葉を途切らせた。寂しさが心に忍び寄ったがそれがなぜだかは分からなかった。
 拓海がじっと見つめるなか、中里は一人決心した。
 もうこれ以上涼介の好意に甘え続けるわけにはいかない。涼介と過ごした数ヶ月は夢のように楽しかったけれど、真実を知った今、それに目をつぶってこれ以上の負担をかけるわけにはいかない。
 そう、もう誰にも迷惑をかけずに一人で生きていこう。最初からそうすればよかったのだ。誰かに頼ってしまったのは自分が弱かったから。でももうやめるべき時が来ているのだ。自分が今藤原に出会ったのは、藤原を通しての天からの啓示なのだろう。

 枕元でバイブレーションを感じて涼介は浅い眠りから引き戻された。頭は靄がかったようで判然としない。また嫌な夢を見ていた。
 今確認する必要もないと思いながら、それでも目覚めてしまったので、手探りで携帯を探り当てるとのろのろとディスプレーを開いた。面倒臭そうに新着メールを開け、そして次の瞬間額に乗せていた左手を跳ね除けて急いで画面をスクロールさせた。
『涼介、ごめん。俺時間を忘れて走ってたらこんな時間になっちまった。もうすぐ人が起き出すからGTRは動かせない。秋名の麓に車はおいて、電車とかで帰ってくる。心配はしなくていいぜ。朝食は作れねえけどごめんな』
 慌てて涼介は発信ボタンを押した。
 ワンコールで電話は繋がる。
「あ、涼介、ごめん起こしちまったか? メールに書いた通りなんだけどよ」
「どうしたんだ、大丈夫なのか?」
 拓海に見つかってしまったことを言うと変に心配するだろうと思ったので、直接会ってゆっくり説明できるまで黙っておこうと考えて簡潔に答える。
「ああ、平気だ。夢中になって走ってたら朝になっててよ。朝飯までに帰れそうにない」
「そんなことはどうでもいい。大丈夫なんだな、事故とかじゃないんだな?」
「平気だって、なんでもねえからよ、心配しないでくれよ。じゃあな涼介、今日は朝早いんだろ? もたもたしてっと遅れるぞ」
「あっ……」
 ツーツーという無機的な音に切り替わり、電話が切られてしまったことを知って涼介は溜息をついた。心配で迎えに行きたかったが、朝のカンファと教授回診に遅れるわけにはいかず、後ろ髪を引かれながらもしぶしぶ大学に行った。

 拓海に渋川駅まで送ってもらい、どうにか中里は前橋まで戻ってきた。そして、以前同じような経過を処した涼介の方法を見習ってその日の内に身辺整理をつけた。
 バイト先には今日行けないことを、そして続けることが不可能になったことを連絡して謝った。以前もっと面倒な状況で一度やったことだったので今回は簡単だった。
 それから家に帰る途中のスーパーで食材を買い込み、歩きなれた道を感慨に耽りながら戻る。
 もう二人で連れ立ってこの道を歩くこともないのだ。明日には自分は東京に出る。
 涼介と過ごすのはこれが最後だと思ったから、頑張って料理を作りテーブルを飾り付けた。
 夕方遅くなっていつものように涼介が帰って来た。中里は玄関に涼介を迎え出る。
「中里、大丈夫だったか!?」
 涼介は息を切らせていて、心配して急いで戻って来てくれたんだと思って中里の心はぽっと暖かくなった。いつも以上にぎゅっと抱き締めてくる涼介の胸の暖かさを感じながら、これが最後だと思ってその感触を記憶に刻み込んだ。
「ん? 今日はやけにおとなしいな、中里。いつもは何かと憎まれ口を叩くのに」
「そんなことねぇよ」
 中里は慌てて誤魔化した。寂しいと思ったなんて言ったらまたからかわれる。
 食卓を見て涼介驚いたような顔をする。
「今日はなんかある日だったか?」
「いや、バイト行けなくて時間あったからよ」
 変わりない中里の姿を見てすっかり安心した涼介は、今日大学であったことを機嫌よく喋る。
 中里はどのタイミングで切り出したらいいかと悩んだ。
 食事前に風呂に入って病院臭と疲れを落とした涼介は、ふとさっきから中里の口数が少ない事に気付いた。
「中里、どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」
「うわっ!!」
 いきなり涼介の顔がドアップで目の前にあって中里は驚いて飛びのいた。
 中里の額に自分の額をつけた涼介は、中里が逃げてしまったことに残念そうな顔をしながら、それでも熱がないことにほっとして笑う。
「あ、あの、涼介、話があるんだ……」
「なんだ?」
 中里は大きく息を吸い込んだ。
「今日、藤原に会った」
「何だって!?」
 涼介は固まった。
 眉間に皺を寄せて次第に険しくなっていく涼介の顔をできるだけ見ないようにしながら、中里は今日あったことを話した。
 一通り話し終えたあとの沈黙が重くて中里は視線を左右に彷徨わせた。
「あ、あのよ……」
「だから、お前を一人にしたくなかったんだ」
 涼介は苛立ちを込めて溜息をついた。
「過ぎてしまった事はもういい。藤原ならまだ最悪のシナリオではないからな。人の不幸を喋るようなヤツではないし、口止めすれば黙っているだろう。――それより、もう一人で峠に行くな、中里!」
 涼介の命令口調にカチンと来たが、今回は自分に非があると痛いほど分かっていたので頷くしかなかった。
「わかった。……涼介、俺も覚悟を決めた。峠にも行かないし車も乗らねえ」
 中里の口から、峠も車も捨てると言われて、自分で言った事ながら涼介は戸惑う。
 走りを捨てた中里? 想像もつかない。絶対に歯向かうと思ったのに。
「涼介、俺、今回のことで随分危ない橋を渡っているんだって知ったよ。藤原に一目で見抜かれた。俺を知る奴には、この姿であっても何かピンと来るのかも知れねえ。ほんとに今回は藤原でよかったけど、次回はそんな都合よくすむわけがない。走りを続けたいっていうのは俺の我が儘で、それよりもっと大事なことがあるはずなんだ」
 中里があまりに正論を話すので、涼介は口を差し挟めなかった。
「誰にも見つからねえようにする、ってことが本当の目的なはずだ。3年間ぐらい我慢できなくてどうするってんだ。それこそマジでガキじゃねえかよ。……それによ、涼介、俺、お前にすげえ迷惑かけちまってたんだな。ごめん、俺お前に頼ってばかりで、お前にどんなに負担を強いてるか全然気付けなかった」
 何を言っている、中里?
「俺、明日ここを出る。涼介にはほんとに世話になって、いくら感謝してもし足りねえよ。でもこれ以上は甘えられねえ。今度こそ俺は東京に行く」
 その瞬間涼介は凍りついた。
 なんだって…………? コンドコソトウキョウニイク?
 馬鹿な――何故そんなことを今更言い出すんだ!!
 これだけ俺の心を奪っておいて、平然とお前は俺を置いて行こうとするのか!?
 お前に取って俺はその程度の存在なのか? これだけ千々に心を乱されて、お前無しでは生きていけないほど俺はお前に囚われているのに、お前は俺の事など気にもならないのか?
 涼介の脳裏で中里の声が反響してわんわんと響いた。
 コンドコソトウキョウヘ――――
 お前の目には決して俺は映らない。
 お前の心は永遠に俺には手が届かない――。
 それならもう何もかもどうでもいい。
 どこかから己の声が聞こえた。
 その瞬間涼介の中で何かが弾けた。
「お前が、俺から離れるなんて許さない」
 涼介の全ての感情の排された目に中里はゾクリと寒気を覚えた。そしてそんな自分に腹を立てる。
 な、んだよ、何俺は怯えてるんだ? 
 中里はめいいっぱい視線に力を込めて相手を睨みつける。
 理不尽な言に反発する。強要には反射的に反抗する。
 なぜお前がそんなことを言う? 俺はただお前にこれ以上甘えたくないんだ!
 涼介がゆっくり近寄ってくる。その場に止まろうとして、しかしできずに中里はじりじりと後退った。コツと踵がリビングの壁に当たり中里は一瞬目を見開いた。涼介の唇が僅かに吊り上る。
 その表情に訳もわからず中里は恐怖を覚えた。それを悟られないようにぐっと拳を握り締めると掠れ
た声で怒鳴った。
「俺がどうしようと、テメエにどうこう言う権利はねえだろ!!」
 すぐ傍らに来た涼介は中里を見下ろした。
「権利? 自分の立場を忘れたのか、中里。今のお前はこの世の誰でもないんだぜ。それとも、俺にお前が中里毅とバラされたいか?」
 冷たい声で涼介は淡々と問いかけた。
「貴様っ!! 俺を脅す気か!?」
 怒りに震えて中里は涼介を睨む。視線で人を殺せるならばとうに涼介は死んでいただろう荒んだ目を、涼介は動じることなく受け止めた。
「脅す? 人聞きが悪いな。本当のことを言っただけだろ? お前が俺の所を出て行くなんて言わなければ俺もこんなことは言わなかったぜ」
「俺が出て行ってなにが悪いんだよ! そんなの俺の勝手じゃねえか!!」
「何もわかっていないんだな、中里。お前は俺に従うしかないんだぜ。ここにいる限りお前は自由さ。
だが、ここから出て行ってみろ、お前は狩人から追い掛け回される実験動物だ」
 中里は怒りで目の前が真っ赤になった。涼介がこんな酷いことを言うとは思わなかった。
「ふざけんなっ!!」
 涼介に詰め寄って胸倉をつかむ。涼介は表情を変えず微動だにしないまま中里を見た。
「少なくとも3年間この世にお前に居場所はないんだぜ、自覚しろよ、お前は俺のものだ」
「誰がテメエのっ――……」
 中里には涼介の豹変ぶりが信じられなかった。それになぜ涼介がここまで自分を貶めることを言うのか、涼介はそんなヤツではなかったはずなのに――。
中里の裏切られたような傷ついた目が涼介の癇に障った。止められない感情の奔流に翻弄されているのは自分だけか――。凶暴な意識が頭をもたげる。酷薄な笑みを浮かべると、涼介は自分の胸にぶら下がった中里の腰に手を回して強く引き寄せた。
「ふ、自覚させてやるよ」
「!!」
 右手で顎を痛いほどつかまれて上向きに固定された唇に、涼介が噛みつくように自分のそれを重ねてきた。
「なっ……!?」
 一瞬中里にはなにが起こったのかわからなかった。ねっとりと絡みつく舌に呆然とし、それから背筋を駆け上った恐怖と嫌悪から中里は涼介を突き飛ばそうと暴れた。
「は、放せっ――!! 何しやがるっ!!」
 だが大人の男の腕力に、昔ならまだしも華奢な少年の中里が敵うわけがない。より強い力で締め付けられて中里の顔は痛みと恐怖で歪んだ。
「い、痛いっ……! ふざけんなっ、放せっ――あ……っ」
 涼介にとって中里の動きを封じるのは容易いことだった。だが力の加減を考えるより、逃れようと暴れるその姿が苛立ちと悲しみに油を注ぎ、自制心を燃やしてしまう。己の気持ちは決して中里には受け入れられないのだと証明されたようで、今まで理性で耐えていたものが全て馬鹿馬鹿しくなった。中里を傷つけたくないという優しさも、幸せな将来も何もかもどうでもよくなった。
 執拗に、追い詰めるように、口付ける。
 なぜ自分がこんな目にあうのかわからなくて、中里は悔しさに涙を流した。
 息も絶え絶えになっても弱々しい抵抗を続ける中里に、涼介は涙ではない口に広がる苦々しさを感じた。自分が支えなければもう立ってもいられないぐらいに力を奪われて、それでも俺を拒むか?
 乱暴に中里を放し、床に崩れたその身体に覆いかぶさる。
 何が起こるか察して中里は大きく目を見開いた。
「い、いやだ――――っっっ……!!」
 恐怖とそれよりも深く傷ついた目がより涼介を狂わせるとも知らず、最後の力で中里は叫んだ。


 中里は寒さに震えて、泥のような眠りから目覚めた。不自然に明るい陽光が瞳を射て、眩しさに一瞬固く目をつぶる。今見た天井は……? 見慣れぬ景色に疑問を抱き、そして身体中の痛みとともにすぐに昨夜の記憶が戻ってくる。
 ここは涼介の部屋だ。
 ゆっくりと目を開ける。綺麗に整頓された部屋の中で、唯一ベッドの周りだけが嵐にでも見舞われたかのような惨状になっていた。恐れていた姿はなく、ほっと中里は肩の力を抜いた。時計に目をやる。時刻は1時を回っていた。あいつは大学に行ったのだろう。
 涼介の姿が見えないことにこれ程安堵している自分を苦く嗤う。一晩で全て信じていたものが壊されたのだ。あの男を信じていた自分が悔しくて情けない。
 中里は全裸の自分を己の腕で掻き抱いた。冷たい涙が頬をつたう。
 誰よりも信頼していた。涼介の優しさが嬉しくて、いつしかずっと一緒にいたいと思うようになっていた。けれど最初から涼介は自分のことを友達と、いや一人の人間とすら認めていなかったのだ。認めていたらあんな人をモルモットのようには言えない。
 かつて昔どういうつもりで一緒に住もうと言ったのかわからないけれど、最初っから自分をそういう対象として見ていたのか? わからない。あいつは、俺があいつを狂わせてると言ったけれど、そんなこと信じられるわけがない。
 なによりも中里は裏切られた切なさと怒り以上に、意に反したまま涼介の手管に溺れてしまった自分が悔しかった。心とは違うところで身体は反応して……。もう自分自身が信じられない。心はこれ程涼介を嫌悪して許せないと思っているのに、昨日のことを思い出すだけで身体は疼く。
 このままここにいたら、己の意思すら失って、いつしか自分は涼介の玩具に成り下がってしまう。
 自由を失った籠の鳥になることを最も恐れていたはずなのに、ここにいたら自分は心すら塗り替えられてしまうかもしれない。
「逃げ、よう……」
 ふいに浮かんできた言葉を口にする。音になるとそれが現実味を帯びた。中里の強い意思と負けず嫌いの心が甦る。
 涼介は逃げたらバラすと脅したけれど、脅しに屈するのは自分が自分でなくなった時だけだ。自分が中里毅である限り、誰かの言いなりになったりしない! たとえ世界中を相手に回して逃げるようなことになっても、自分の意思を殺すよりマシだ。
 中里は体を起こした。ぐらりと眩暈を感じて慌てて両手を付いて上半身を支える。重くて言うこときかない体を叱咤してぎくしゃくと中里はベッドから抜け出した。
 この時間に涼介が戻ってくるわけないと思ってもビクビクする気持ちは抑えられなかった。傷ついた体を鞭打って可能な限り素早く全ての支度を整えた。簡単な着替えと、バイトで稼いだ僅かな金と、自分の通帳とお守りのようにGTRのキーと……。カードは足が付くと思うから引き出しに入れたまま。

 思いつく最小限の用意で中里は何ヶ月かの幸せだった棲家を後にした。


 涼介は試問でいつもより遅くなったことを内心舌打ちしながら教授室を出た。長くなったとはいえ初春の日はとうに落ち、黄昏時という時間はとっくに過ぎていた。昼休みに、忙しさを押して無理に帰ったときは中里はまだ眠っていた。頬を伝う涙の痕と、自分が我を忘れて付けた痕が白い肌に点々とあって、その姿に涼介は今更ながら後悔を覚えたものだ。酷いことも言ってしまったし、なぜもっと優しくできなかったのだろう? 中里が目を醒まして顔を合わせた時にはちゃんと謝ろうと、そう思っていた。
 途中の洋菓子店でケーキを買い込んで、怒って拗ねているだろう中里の顔がどう変わるだろうかと想像して少し口の端に笑みを浮かべた。しばらくは許してくれないかもしれないけれど、そんな中里も可愛いからいい。昨日は無理矢理事に至ってしまったが、最後には自分の名を呼んでくれた。自分の与える一つ一つの快楽に、素直に反応してくれるのがどんなに嬉しかったことか。
 マンションの前に差し掛かり、何気なく涼介は上を見上げた。半数ぐらいの窓に明かりが灯っている。その中で自分達の家の窓が暗いことに涼介は妙な胸騒ぎを覚えた。この時間は大概中里はバイトから帰っていた。部屋に灯をともして自分を待ってくれていた。
 昨日無理をさせたからまだ眠っているだけだ。
 そう思おうとするが不安が急速に膨れ上がる。急ぎ足でエレベーターに乗り込み、速いはずなのにやけにのろく感じられる速度に苛々と壁を爪で叩き、開扉とともに駆け出るようにして家の扉の前に立った。
 鍵を通すのももどかしく涼介は玄関に飛び込む。背後でドアが閉まり、外の喧騒から隔絶されて涼介
は静寂と暗闇に包まれた。急いで玄関の電気をつける。昼最後に見た時と変化はない。
 でも何故だろう、このようにガランと空虚に感じるのは。
「中里?」
 乾いた声で名を呼ぶが返事はない。大股で涼介は自分の部屋に入った。パチリと電気をつける。
 そこも最後に見たときのまま、でも中里の姿だけが消えている。心臓がドクンと大きく跳ねた。
 自分の部屋に戻ったのかもしれない。我に返った涼介は踵を返し中里の部屋に向かう。閉じられた扉。ノックもせずに涼介は大きく開け放った。
 明かりをつけなくても後ろから差し込む光で薄暗がりの部屋は見通せる。
「なか、ざと……?」
 自分の声ではないように遠くから掠れた声を聞いた。
 手に持った箱がバサリと落ちて中身が飛び散った事にも気付かなかった。
「嘘だ…………」
 魂が慟哭する。甘い匂いの垂れ込めた部屋で涼介はずっとずっと立ち尽くしていた。


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