行進曲
すっかり日も沈み、冷たい空気が降りてくる。そろそろ大半の人が寝ようかという時間にもなれば、山から観光客の姿はほとんど見られなくなる。代わりに集まってくるのは、己の愛する車を極限にまで苛め且つ労わる走り屋と呼ばれる連中ばかり。ここ妙義でもそれは変わることはなく、明日が休みの今晩はそれなり
の人数が駐車場に集まっていた。
普段ならば彼らは己の話したい話をし、誰が聞いていようが聞いていまいがおかまいなしなのだが、今日は話はしていても妙に落ち着かない様子で時折視線がある一定方向に向けられた。
向けられてくることを、涼介は感知していた。
高橋涼介。群馬で走り屋をやっていて知らない人はいないとすら言われている名前。
この珍しくも何ともない平凡な名前を持つ涼介は既に引退しており、偶に走るとしてもほとんどが赤城だった。
しかし今日は妙義町に住む同じ研究室の先輩が風邪で倒れ、どうしても明日必要な書類を偶々教授と目が合った涼介が取りに行くこととなったのだ。
ここまでは偶然。だがわざわざ走り屋が屯している場所にまで車を運んだのは涼介の意思だ。
中里毅。こちらもまたよくありそうな名をした男だが、彼がここにいるから
だ。彼が妙義ナイトキッズのリーダーだからだ。
涼介にとって家族以外の他人とは、一定の距離を保ちつつ良好な関係を築き、必要なときにのみ助け助けられの状態を維持できれば問題のないものだった。
ところが中里は涼介の考えを打ち破った男だ。
押し付けがましくもなく鬱陶しさも感じさせない。絶妙のバランスで涼介の隣にいる男。一緒にいることを感じさせないほどに自然で、且つ一緒にいることを強烈に感じるほどに暖かく心地よい。いつまででも共に在りたいくらいだ。
要は、涼介は中里毅という男が好きなのだ。心から。
「それなのに、あれは酷いんじゃないか?」
「だって、どーしろってっ、ぅあっ!っ、あ…っ」
「普通に話すくらい問題ないだろう」
「ひぁ…っ、りょ…すけ、や…っ」
あれから数時間が経っていた。場所は中里の部屋。更に限定すればベッドの上。素っ裸に剥いた中里の上に涼介はいた。
左手で弾力を確かめるように肌を辿り、右手は太ももの間。先ほどからくちゅくちゅと生々しい水音を響かせている雄を主張する箇所。
「挨拶してあとは一言も声を掛けてこないってのはどういうことだ?」
「も…やめ…っ、くぅぅ…」
苦しそうに中里が首を左右に振る。乱れた髪が汗に濡れた額に張り付く。
それはそうだろう。恋人という関係になったのは1ヶ月ほど前。だが数回でも体を重ねれば相手の限界点は把握できる。そして涼介は今、巧みに限界を迎えさせないように調整しているのだから。
「なぁ、中里?」
「やっ、も、止め…っ、ぁあっ」
きつく閉じられた瞳から生理的に浮かんだらしい涙が一筋流れ落ちる。その流れに気付き、改めて中里を見れば、あまりに苦しそうな姿にハッとなって思わず右手を離す。
突然なくなった刺激に中里が腰を揺らし、濡れた瞳を開いて涼介を見上げる。
「りょ…すけ。苦しい、から」
「あ、ああ」
弱々しく首に回された腕を確認してきつく体を抱き締める。それから謝罪の意味も込めて今度は焦らすこともなく絶頂へと導く。
「ひぅ…っ、ぁっ、あっ!―――っ!!」
達する直前に短い声を上げ、全身に力が入った後は、声もなくビクビクと震えて、それから弛緩する。一連の流れを愛しく感じつつ涼介は額に一つキスを落とした。
あの時中里は大勢の「仲間」に囲まれていた。涼介と出会う以前より一緒に笑い、怒って、騒いできた連中。打ち解けているのは当たり前で、屈託なく笑っては互いに小突いたり、時には蹴りまで繰り出したりしてふざけ合っていた。
時折まだ車に乗り始めたばかりだと思われるチームの人間に走りを教えたり、誰かと一緒に走ったり。だがいつでも中里は楽しそうで、そして無邪気そうに笑っていた。
中でも庄司慎吾とは格別仲が良さそうに見えた。
記憶にある二人は反目していたはずだが、いつの間にここまでの関係を築き上げていたのか。パッと見ただけでは互いに顔を顰めたりしていて、とてもいい感情を持っているようには見えないのだが、少し観察していれば直ぐに分かる。
入り込めない信頼関係が確かに存在していた。
言い争って、時に殴りあう真似事までして、だが決して互いの間に嫌悪感を見受けられない。心底嫌っている相手に対し、リラックスした表情を見せることが出来るほどに人間の感情は柔軟性を持っていない。嫌なものは嫌だと表現してしまうものだ。
確実にあの二人の間には、互いに互いを信頼しているという空気が流れている。
それだけでも涼介の気に障ることだった。だというのに、庄司慎吾は何度かチラチラと隅の方で立って中里を見ていた涼介へと視線を向けてくる。
他の連中も同じようにしていたのだが、どうにもこいつは許しがたかった。中でも中里の肩に手を置いたままに向けてきた視線など、関係を誇示されているようで腹立たしいことこの上ない。
いや、もちろん単なる好奇心の延長なのだろうが、現状を分析してもやはり感情は頑固にも嫌悪を示す。
しかしそこで走って行って庄司慎吾を排除するような涼介ではなかった。それは、「高橋涼介」ではないのだ。
近くまで寄ったから久し振りにナイトキッズが走っているところを見ようと思っただけ。
姿を現した涼介に驚きつつも誰より早く気付いた中里に告げたとおり、黙ってここから見ているのが「高橋涼介」なのだ。
チームの真ん中で笑っていることがここでの「中里毅」であるように。
分かっている。「高橋涼介」と「中里毅」が、この場でこれ以上の関係にはなり得ないということを。
……分かっていると、いると思っていたのだが………。
「あ――あっ……はぁ―っ」
「くぅ…」
しっかりと慣らしたつもりでいても、いつも抵抗を受ける。元々が押し出そうとする器官なのだから仕方がないが、拒絶されているようで逆に躍起になって押し入ろうとしてしまう。
それが辛いのか、中里はぐっと押し殺したような声を上げてひたすらに耐える。耐えて、くれる。
「中里」
大丈夫か?とは流石に聞かない。いつも何も言いたくないのか、または言う余裕がないのか、最中に言葉を交わすことはない。だから幾度か深い呼吸を繰り返してからゆるゆると開かれた瞳に、答えを求めるだけ。ジッと涼介を見上げてくる、大き目の、力強い瞳に。
だが今日はもう一度深く呼吸してから、
「普通に…っ、してても…、俺はきっと、…ボロが出る」
途切れ途切れに、中里は言葉を告いだ。
「中里?」
「あんなところで、突然、お前に会ったら…、話したら失敗する。だから…っ」
「ああ」
さっきの答えだ。どうして峠で会ったときに、挨拶以外何も話しかけてこなかったのか、と。ずっと答えを考えていたのかもしれない。
「分かってるよ」
ふ、と笑ってキスを一つ。
「っ!分かってるって、おま…っ、ひぅっ、ぁ―っ!」
涼介の答えに中里が反応しきる前に突き上げる。突然の動きに反射的に首に腕を回し、振り落とされないように中里がぎゅうぎゅうと力を込める。
「あ…っ、ぁあっ、ちょ…ま……っ」
「待てない」
快感が全身を突き抜ける。下で自分の動きに合わせて揺れる中里の、表情も、淡く染まった肌も、離さないとばかりにしがみ付いて来る強さも。
特別好きだと思ったこともない女を抱くのとは訳が違う。全てが涼介を熱くする。
「ぅああ…っ、あ―――くぅ…っ」
徐々に絞まってくる奥に涼介の眉根も寄ってくる。
女ではない。だがそれがどうした。いや、どうかするだろう。悩んだ。男でいいのか。中里でいいのか。いつも瞬時に判断を下す涼介にしてはかなり長い時間
悩んだ。悩んで悩んだ結果、中里がいいのだと結論を出した。中里が、必要なのだと。
「中里っ」
「んぁあっ、あ―――っ!」
くるくると表情を変えて騒いでいた中里。考えてみれば、ほとんどが20代を中心とする男の集まり。静かな方がおかしな話だ。レッドサンズでは終ぞ見ることのなかった過度なスキンシップもここでは当たり前のように行われ、顔も知らない誰かが大きな声で騒いだかと思えば蹴りの一発や二発、当たり前のように相手にヒットしていた。中里もまた特別大きな怪我に結びつくようなことでもなければ注意することもなく、一緒に笑ってはむしろけしかけたりもしていた。
そしてふと思ったのだ。
隣にいて心地よいと思うのは、俺だけではないのだろう。
と。
ナイトキッズのメンバーたちが見せる表情が何より物語っている。この人といるのは楽しいのだ、と。
だからこそ、彼の周りに集まっているのだ、と。
もちろん中里の運転技術がここでは一番なのだろうが、運転技術のみでは人とこうも密接に付き合うことは出来ないと、涼介にはよく分かっていた。
ナイトキッズという良くない噂ばかりを耳にするチームが、それでもチームという形を作っているのは、中里毅という存在が大きいに違いない。尤も、全員が全員涼介と同じまでの感情を持って中里を見ているとは全く思えないが。
それにしても羨ましい。
そう、涼介は迷うことなく羨ましいという言葉を選んだ。きゃっきゃとまるでお山の小猿のようにじゃれる彼らに、羨ましいという感情を持った。
年齢の近い男同士、自然とふざけて、自然と遊ぶことを知っている。相手との間の距離を全く考慮していないようで、ある一定のルールは存在している。ごく普通の環境でごく普通に育ち、ごく普通に人間関係を築けている彼ら。
当然中里とも同じように付き合え、ふざけ合え、触れ合える。
羨ましい。全く以って羨ましい。
つまりは彼らと同じようにしてみたいということだ。だが、出来ないことも涼介は痛いほどに理解している。それは「高橋涼介」ではないし、その「高橋涼介」を、涼介自身が崩すつもりがないからだ。
崩せない自分を、涼介はイヤになるほどよく知っている。
彼らの中に入って同じように肩叩き合って笑いあうなど、天地がひっくり返っても出来ないのだ。作られた「高橋涼介」は親の望む息子でもあり、大学の教授が望む生徒でもある。いずれは病院を継ぐと決められた自分。涼介にはその自分を捨てることは出来ないのだ。捨てきれないことを悟り、きちんと家業を継いでみせようと決意したのは、他の誰でもない。自分自身なのだ。
決意した自分を自覚し、ここでナイトキッズのリーダーであり続ける中里を見れば、どれほどの馬鹿でも中里に非がないことはないことは分かる。だが頭で分かるということと、感情をコントロールすることとは別物だ。
他の物事には動じない自信もあるし、実際何が起こってもある程度は対処できると自負している。にも関わらずこと中里が絡むとどうにも上手く立ち回れない。
「やれやれ…」
ため息をついてこれ以上はここにいるのは苦しすぎると己の愛車に手をかけたときだった。
一つの視線を感じて振り返れば、庄司慎吾がこれでもかとじっとり窺うような視線を向けていた。
離れているからはきとはしない。しかし、プラスの感情が見受けられないことは確かで。何やら苛立たしさを涼介に覚えさせた。
一体苛立ちは何に起因し、どう作用したのか。答えが出る前に中里に呼ばれたらしく逸らされた視線。
燻った苛立ちのままに涼介はFCのエンジンをかけ、無意識の内に中里のアパートの前に到着していた。そして戻ってきた中里と家に入り、現在に至るのだが…。
「涼介……?」
掠れた声がして振り返れば、掛け布団の中から顔だけ出した中里が不安そうに
涼介を見ていた。
「俺は戻るがお前は寝てろよ」
「帰るのか?」
「ああ。俺は明日も大学へ顔を出さないといけないからな」
答えつつ、吹き飛んでいた靴下を発見した涼介は無事に両足に布を被せることに成功した。家までなら素足でもいいかと考えてはいたが、やはり汗をかけば気持ちが悪い。
「―――怒ってんのか?」
「え?」
これで準備万端。早いところ帰って明日に備えるかと思っていたところにこの言葉。視線を逸らそうかどうか悩んでいることがありありと分かる視線で、中里が弱々しく涼介を見つめている。
「俺が、無視してたから……。でも、あの時は…」
「怒っているというより、苛立っていたな」
遮るようにして言うと一瞬ただでさえ大きい瞳が見開かれ、次いでついに視線が逸らされた。涼介はそれに柔らかく笑って違うと告げた。
「さっき分かってるって言っただろ?俺はあの場でお前がナイトキッズのリーダーという立場にいなければならないことを分かっていた」
「……それじゃ何に苛立ってんだよ」
中里から当然のように発せられた問いの答えはあまりにも簡単だった。
「俺自身にだ」
「……?どういう意味だ?」
「俺とお前の関係というものは現時点においては世間様に胸を張って発表できるようなものじゃない。だからあの場においてお前が取った行動は正しいと言える。にも関わらず俺はお前からのアクションを期待し望んだ。俺からも動けなかったくせに、だ。そうした自分に苛立ちを覚える。と、いうことだ」
そう。庄司慎吾からの視線で苛立ったのではない。あの怪訝そうな視線に答え
られない自分に苛立ちを覚えたに過ぎないのだ。
「………」
一気に掛けられた言葉を咀嚼するように中里がぼんやりと空気中の埃を追う。しかし涼介は中里が言葉を噛み砕くまで待つ気はなく、踵を返して玄関に向かった。その背中に「涼介」と呼び止める声が掛けられる。
「何だ」
この声で呼ばれて無視はできない。涼介は足を止めてもう一度少し距離が離れた中里を見た。
彼からの言葉は。
「俺があの場で一番話したかったのはお前だ。――明日も大学なら今日はしっかり寝とけよ」
もうとっくに0時を廻っているのに何を今更。いや、違う。そこではない。涼介は二度はっきりと瞬きをしてから口元に笑みを浮かべていた。
「なぁ中里。明日も来ていいか?」
「勝手にしろ」
これだから中里はやめられない。
涼介は笑みを深くして、また明日とドアを開けた。シンと静まり返った夜の街。何一つとして音は聞こえてこなかったが、空を彩る星からは、マーチのごとき音楽が聞こえたような気がした。
「止まれないなら、前に進むしかない」
明日はなるべく早く大学を出ようと、涼介はFCのエンジンをかけた。