4. 交錯する運命


窓枠に肘を突いて、ぼうっと中里は外を眺めていた。
広々とした畑の後ろに山が連なる群馬の見慣れた景色はもう見当たらず、ごみごみとした人家とビルが延々と続いている。車窓から差し込む日は、僅かにオレンジがかって中里の横顔を照らしていた。
取るものとりあえず、何の計画もなくただ駅に着いてから最初に発車した電車に乗り込んだ。どこかに行こうとか具体的な計画はなく、その場からできるだけ早く、涼介の手の届かないところにというその一心だった。

今日東京に行こうと思っていたその計画は、奇しくも実行されているのだ。初めに考えていた旅路とは全く違うものだけれど……。
この先どうすればいいか全く分からない――、という事実に思い至ったとき、中里は自分がこの半年以上本当に涼介に頼りきって生きてきたのだと思い知らされた。
涼介に東京に行くと言って、その先は涼介の知恵に頼ろうとしていた。
涼介は頭がよくて何でもできてしまうから……。
ああ、いつの間にか自分は一人で立つことすら放棄してしまっていたのだろうか?
東京に行こうと思い立ったのも、藤原のことだけではなく、涼介に負担をかけ続けることだけでもなく、たぶん自分のプライドを守ろうとするギリギリの選択だったのではないだろうか……。
おそらく自分は涼介の庇護下でぬくぬくと生き続けることに、本能的に焦りを覚えていたのだ。
涼介なしでは生きていけなくなる事を感じて、そうなる前に逃げ出そうと思った――。

逃げ出す? 

ああなる前から自分は涼介の側を離れたがっていたのだろうか……? 

いや、違う。自分は涼介と対等で一緒にいたかったのだ。
対等で――。だがあのままではどんどん涼介に依存してしまう自分がいて恐かった。
いつか愛想を尽かされてしまうのではないか、何の役にもたたない自分を涼介が軽蔑して、自分が側にいることを負担に思う日が来るのではないか……? 
そう恐れたから、そうなる前に、涼介の中で自分のイメージが壊れぬうちに、過去の中里毅の姿を涼介の心に残して消え去ろうとそう思ったのだ。

たぶん涼介は、最初は自分のことを友達と思ってくれていたから、友情から一緒に住もうと好意を示してくれたのだと思う。

しかし今の自分には友達としての価値が果たしてあるか――? 

否、全くない。
友達というのは困ったときには助け合って、何かあっても頼れて信頼しあえる存在のはずだけれど、今の自分たちの関係はあまりに不調和だ。
どう考えてもあまりに大人の涼介と、あまりに子供な自分。
姿の問題ではない。精神の差なのだ。

安穏とした生活に慣れ、妙義でチームのリーダーとして緊張と波乱に身を置いていた時に持っていた厳しさ、というものがすっかり抜け落ちてしまった気がする。
腑抜けてしまった自分は、例えて言えば牙を抜かれた狼みたいなもの――。
今の自分に涼介の傍らにいる資格はない。
それなのに最初の好意に甘え続けるというのは厚顔無恥というものだろう。
人の好意を当然と思うようになってしまったら、もうその関係はお終いなのだと思う。

自分の中でいつの間にか涼介が隣にいるのが当たり前になっていた。当然のような顔をして涼介の側にいて、それどころかいつまでも一緒にいられたらいいのにとすら思った。
でもそんな一方的に負担を強いる関係は正常じゃない。いつの間にか涼介の中で自分は『モノ』になってしまっていた――。
涼介の所有物、の自分。
涼介にとって自分はなんなのだろう?
少なくとも昔は友情があったと信じているけれど、それすら錯覚だったらあまりに切ない。
友達だと思っていたのは自分の勝手な思い込みで、涼介にとって自分は単なる実験動物で珍しい症例のコレクションだったとしたら――……。
『お前が俺から離れるなんて許さない』
今まで聞いた事のなかった涼介の冷え冷えとした声が今も心を凍らせている。
相談せずに勝手に出て行くと言った自分が悪いのはわかっている。恩知らずだと思ったのかも知れない。
でも、今まで涼介は怒っても冷静だった。嫌味なほど落ち着いて、追求の言葉で自分を論破したものだった。
涼介がなんで自分にあんなことをしたのか今でもわからない。自分に思い知らせるため? 
所詮自分は涼介のお情けで養われていると、涼介の意思一つで自分などどうにでもなると……。
たぶん、お前は俺のものだという言葉が涼介の心を如実に表わしているのだろう。
涼介が自分のことを好きで抱いたわけではないことなどわかっている。ことの間も一度も好きだとは言ってくれなかった。
そりゃそうだろう。自分は男でそもそも恋愛の対象じゃない。
涼介がどんなにモテるか、そして女性遍歴を少しは知るからこそ、涼介にそんな趣味がないことなど分かっている。
自分を抱いたのなどただの気紛れ。または自分に立場を思い知らせるため……。
涼介が無理矢理自分にやったことは許せないけれど、それよりも涼介の言葉の方が傷ついた。
『俺から離れようなんて思うなよ。お前の運命は俺の手に握られているということを忘れるな!所詮自分の力では3年間も身を隠すことなどできやしない。お前がこうして自由に外を歩けるのも俺のお陰だろ? 狭い実験棟に閉じ込められて一生を送るのと俺に飼われるのとどっちがいい?』
『この家の外にお前の居場所はないんだ。お前の身体をみんなが狙うぜ。こんな症例誰もが血眼になってほしがるだろうからな、どんな高値で取引できるか想像もつかない』

誤解しそうなくらい優しい行為の中で、言葉では人を嬲るようなことしか言わなかった涼介。
涼介の気持ちなどはっきりしているのに、それでも、一緒に過ごしていた半年の間に涼介が示してくれた優しさが偽りだったと信じたくない自分がいる。

『俺のことを忘れられないようにしてやるよ。お前から逃げる意思など無くなるように』
そんなことしなくたって自分が涼介を忘れることなどないのに、それ以上に拒否する意思すら奪おうとする残酷さ。
別に女じゃないのだから初めてがどうとか言うつもりはないけれど、それでも涼介が初めての相手で、身体には涼介の記憶が刻まれてしまっている。心以前に身体が渇望する――。


「新宿ーしんじゅくー終点になります。どちらさまもお忘れ物のないよう――」

中里ははっと我に返った。いつの間にか列車は終着駅に着いていた。周りを見るともう自分以外誰も乗
っていない。中里はのろのろとバッグを肩にかけると列車から降り立った。



                 *



「啓介ぇ、ちょっと待ってよ、もう一軒回りたいお店があるの。新しく入ったお店でこの前雑誌に新作が載ってたんだけど、すっごいカワイイのよ!」
両手に持ち切れないほどの紙袋を下げた啓介はうんざりと振り返った。
「奈菜美、もう十分だろ? これ以上もう持てないぜ」
啓介自身お洒落な方だし買い物に付き合うのはそれほど苦痛ではないのだが、それでも限度というものはある。
「えー!」
かわいらしく拗ねているつもりなのだろうが、口を尖らせる彼女に、こいつとももうそろそろ終わりだなと啓介は感じた。

奈菜美とは付き合い初めて2週間だったが、過去にも長くて1ヶ月しかもったことがない。付き合い始めると啓介をものにしたと思うのか我儘になる女が多くて結局すぐ振ってしまっていた。
こいつは最初そんな奴には見えなかったんだけどな、と思いながら啓介は女なら誰も逆らえないような蠱惑的な笑みを浮かべて相手の目を見つめる。
「俺、疲れたんだけど、どっかで休まねぇ?」
「ええ、いいわ」
意味することは勿論通じ、奈菜美は当然のように啓介の腕に自分の腕を絡ませた。



人いきれに中里は酔いそうになっていた。平日の会社が引ける前なのにこれほど人が歩いているのが信じられない。途切れることのない人の流れ、空を隠す超高層ビル、流れる時間の速度さえも違うようなせわしなさが群馬ののんびりした空気の中で育った中里には息苦しかった。
「これが東京……」
自慢ではないが高校の日帰り旅行でディズニーランドに行って以来東京には縁がなかった。それだって浦安なのだから正確には東京ではない。
心細くなって一瞬目頭が熱くなったが己を叱咤しぐっと堪えた。

太い道の裏には忘れられたような路地があって、人込みを避けてとぼとぼと俯いて歩いていた中里は突然障害物に突き当たった。
「おい、ちゃんと前向いて歩けよ! ふざけんなよ、服汚れちまったじゃねえか! どうしてくれるんだよ」
「ご、ごめんなさい!」
反射的に謝って、中里は顔を上げた。自分がぶつかった男の持っていた缶コーヒーから、僅かにこぼれた中身が連れの男のコートに染みをつけていた。
「ごめんなさいですむかぁ?」
男は嫌な声で絡んできて中里はカチンときた。元来この手の言いがかりには虫唾が走る中里である。
「なんだよ、謝ってんだろ! 汚したのは悪かったと思うけど、それだってちょっとじゃねえか!」
ギッと相手を睨んで凄む。妙義ではそれで多くの者が尻尾を巻いた。
「なんだよ、ガキのくせに礼儀がなってねえな! 年上には敬語使えって習わなかったか?」
「生憎、俺は人を選ぶ」
「生意気だな。礼儀を知らねえガキにはきちんと躾てやんなきゃあな」
男は嫌な笑いを浮かべて中里を見下ろした。
中里ははっとする。以前の自分ならば二人相手の喧嘩でもどうにかできる自信があったが、今の自分はあまりに腕力も体格も違い過ぎる。後退ろうとして、それよりも早く腕をつかまれて捻り上げられた。

「は、離せ!!」
「威勢がいいねぇ。そういうのもそそるよ。俺の下でその強情な顔がどう変わるか見てみたいぜ」
下劣な表情にぞっと身の気がよだった。
涼介、助けて――――――!!
ただ一人のことしか思い浮かばなかった。
引きずられて行きそうになり、中里が無意識にここにいる筈のない人の名を叫ぼうとしたとき、
「そこまでだ。放してやれよ」
低く静かな声がその場に割り込んだ。
必死に抵抗していた中里ははっとそちらを向く。金髪で上背のある青年がいつの間にか二人組みの後ろに立っていた。突然降って来た第三者の声に男たちは動揺したような顔になり振り返る。
「な、なんだよ! こっちは取り込み中なんだよ! このガキが服を汚してくれたからな、謝ってもらおうとしてただけだ」
「俺にはそいつが謝ってないとは思えないが?」
青年は中里を見た。中里はこくりと頷く。
「ほら、謝ったって言ってるぜ。放してやれよ」
命令口調で言われて男たちの感情が刺激された。相手が一人であるというのも彼らを強気にさせる。「なんだよ、てめえにゃ関係ねえだろ!? それともやるか!?」
拳を握って脅しをかける。青年はニッと笑った。
「きゃんきゃんとウルセぇな。やってもいいんだぜ? 怪我したいんならな」
「な、なんだよ! 怪我すんのはテメエの方だぜ! 強がりやがって。何様だよ!」
相手の威圧感に呑まれながらそれでもなけなしの勇気で男たちは突っ掛かる。
「俺か? 俺は高橋啓介」
青年は腕を組んで相手を見下しながら倣岸に言い放った。
「た、高橋啓介……? あ……!」
男たちははっとしたように顔を見合わせる。次の瞬間まるで放り出すようにして中里の手首を放した。

「す、すみません! 俺たち――」
「言い訳なんて聞きたくねえよ。目障りだ、失せろ!」
啓介は人を従わせることに慣れた者の傲慢さで命令し、男たちは逃げるようにその場から駆け去った。

それから打って変わって優しい顔になり啓介は少年の方を見る。
「もう大丈夫だぜ」
「たかはし……?」
少年は幽霊でも見たかのような顔で啓介を凝視していた。
「なんだ?」
怪訝な顔で問いかける。
突然子供が身を翻してその場を走り去ろうとして、啓介は驚いて反射的に腕を捕まえて胸に抱きこんだ。
「お、おい!! どうしたんだ!? お前にどうかしようなんて俺は思ってねえぞ! っつーかお前が一人でいたらまた絡まれる」
バランスを崩して啓介の胸に倒れ込んできた少年は、身を捩って逃れようとし、続く啓介の言葉に動きを止めた。自分の胸の中で相手が大人しくなったので啓介はそっと体を放した。
「怖かったんだな。もう大丈夫だ」
落ち着かせるように話しかけると、少年は何か言いたげな表情で啓介を見た。
「どうした?」
静かに促してやる。躊躇った後に少年は口を開いた。
「……あんた、高橋啓介って、まさかりょ――」
「啓介ぇ、もうヒドーイ。私に荷物押し付けて走ってっちゃうんだもん!」
その言葉は後ろから被せられた緊張感のない声に遮られて宙に途切れた。
「奈菜美……」
状況を判断できない無神経さに啓介はうんざりと溜息を付いて振り返る。
「ああ、悪かった、な。それとこれからの予定変更させてくれ。俺、こいつ家に送ってくから今日はこれで別れようぜ」
「えー、何それー! ていうかその子何?」
今初めてそこに子供がいることに気付いたかのように奈菜美はちらりと視線を向け、そしてすぐに逸らして啓介を見なおした。
「たぶん迷子」
「なんだ、知り合いじゃないんだ。だったらそんな子放っておいていいじゃない!」
彼女の自分より見ず知らずの子供の面倒を見ようとする啓介に奈菜美は腹を立てる。
啓介も相手の我儘ぶりに不愉快になった。
「あのさ、しょうがねえだろ! 放っておけねえもんは放っておけねえんだよ!」
自制していた感情が漏れ、思わずきつい言い方になる。
「もういい、信じらんない。いいわよ勝手にしなさいよ!!」
恋人が慌てて自分の機嫌をとることを予想していたのに、全く違う啓介の態度に奈菜美も怒りを爆発させる。
ふんと鼻を鳴らすと足音も荒くその場を去っていった。
啓介はようやく解放されたと溜息をつく。しかしそれを誤解した中里はおずおずと口を開いた。
「あの、もう平気なんで、彼女の所に戻ってください。俺のこと、助けてくれてありがとうございました」
中里は自分が喧嘩の原因を作ってしまったと居たたまれない気持ちでペコリと頭を下げる。啓介は苦笑いした。
「いいって。怒ったら聞かねえ奴だし、今追ってもムダだ。それよりその敬語こそばゆいぜ。さっきみたいに普通に喋れよ。それとなんか言い掛けてたよな。なんだ?」
中里はしばらく口籠っていたがようやく言を継いだ。
「いや……。…………。高橋――さん、あんた兄弟とかいねえよな……?」
涼介と同じ苗字。逃れたと思った矢先に最初に出会った人間が高橋というのは奇妙な符牒で、偶然とは思うものの中里には気になった。全く関係がないと思いながらも、常人とは懸け離れた洞察力を持つ涼介ならば、もしかすると知らぬ間に手を回しているかもしれないという気もした。
「ん? 兄弟? いねえよ、俺一人っ子。なんでだ?」
不思議そうな顔で問い返されて、中里は安堵の息を吐いた。同時に胸がチリと痛んだような気がしたが、すぐに消えて忘れてしまった。
「いや、なんでも……。……俺、他に高橋って知り合いがいるから、高橋って言うとそいつのことをまず思い浮かべちまう。あんたのこと呼ぶの、啓介さんでいいか?」
「ああ、別にいいぜ。俺も実は啓介の方が呼ばれ馴れてるしな。つーかさんはいらねえ。で、俺はお前
のこと、なんて呼べばいい?」
少年の表情の動きに何かあるのだろうと察しながら、それでもそのことは深く追求せずに啓介は取り合えず相手の名を尋ねる。
「……。毅と……」
「ふうん、毅、か」
啓介は静かに相手を観察した。たぶん訳ありなんだろう。
この東京はそういう人間が吹き寄せられる場所だ。最初から迷子だとは思っていなかった。家出か何かだろうけれど、この子供をこのまま放り出すわけにはいくまい。この街には不釣合いな透明な存在で、この東京で生きていくにはあまりにも真っ直ぐすぎる。
このまま放り出したら悲惨な運命しか待ち受けていないことは明らかだった。

「そう、毅、お前さ、行くとこねえんだろ?」
「なっ――!」
中里は目を見開いた。
「家に帰りたくねえんなら、しばらく俺んちに居候してっていいぜ?」
「お、俺別に……」
「俺に誤魔化す必要ないぜ、毅。補導員じゃねえんだ、連れ戻そうとかそんなことしねえからよ。家出なんだろ? 放っておけねえよ」
「なんでそんな……」
中里の瞳の中で光が微妙に揺れるのを啓介はじっと見ていた。絶望と哀しみというのか、形容し難い光が浮かんでは消える。啓介は溜息をついた。その年でそれほど世の中に諦めきっているなんて哀し過ぎる。

「放って置けねえんだよ、昔の俺を見ているようで。俺もお前ぐらいの年の頃、家にほとんど寄り付かねえ生活してた。それでも俺は元々東京に住んでたし、いろいろつてがあったからやってけた。でも、お前ここの人間じゃねえだろ? ここはお前みたいな奴が一人でいるには危険すぎる場所なんだよ。さっきみたいな目にあってわかっただろ」

中里はごくりと唾を飲み込んだ。思い出すだけでも体が震える。俯いてしまった少年に啓介は優しく笑いかけた。

「お前がどんな過去を過ごして来たかなんて俺は興味ねえ。詮索なんてしねえし、出て行きたきゃ好きな時に出て行けばいい。東京に慣れる間だけと思って俺んとこに来いよ」
中里の心に啓介の言葉が静かに染み渡った。今一番ほしい言葉だった。必要以上に踏み込まない、束縛しない優しい無干渉。擦り切れた神経が静かに癒されていく。

「……俺、しばらく東京で生活してえんだ。バイトとかして働いて……」
啓介は笑った。相手の心が前に向きはじめたのを感じて嬉しさを覚えた。
「ああ、それなら俺のバイト先を紹介してやるよ。ちょっと小洒落た感じのイタリアンレストランだ。店長は仕事に誇りを持ってて頑固一徹なとこがあるけどいい奴だよ」
「本当か?」
「ああ。お前真面目そうだから気に入られるよ」
「頼む」
中里は心から頭を下げ、啓介はぽんとその肩に手を置いた。
「さあ、そんなに改まるなよ。じゃあ俺の所に来るな、毅。今日はもう遅いし、明日にでも連れて行ってやるからよ」
啓介の言葉に、しかし中里は素直に頷くことができなかった。
啓介の優しさに偽りのないことはわかっている。それでも、裏切られたときの心の痛みはまだ記憶に生々しく残っていて、人を信じることに臆病になっている。

「啓介、俺さ、自分が情けない。人を信じることが怖いんだ。俺が危険な目にあったときに助けてくれたあんたでさえ、俺は警戒の目で見ちまう」
辛そうに一言一言搾り出す中里に、啓介は静かに答えた。
「気にすんな。そんなの普通だろ? 初対面の人間を無条件で信じろなんて、そんなこと誰も言わねえよ。相手が信用できるかどうかなんて、一緒に過ごしてみて初めて分かるもんだ。今俺を信じるも信じないもお前自身だよ。けど、俺はお前に信じてほしいし、たぶんその思いを裏偽らねえと思う」

静かな口調なのに力強さを感じる。
この人はたぶんいろいろな局面を乗り越えてきたのだろう。
その中には苦しみも悲しみも痛みもあったはずで、それでも彼は今当たり前の顔をして自分に手を差し伸べてくれている。
裏切られてもそれを処理する強さがあるから相手を信じることができる。
傷つくことを恐れない意思と自己に対する自信。

中里はふっと視界を覆っていた靄が晴れるような錯覚を覚えた。
いつの間にか自分は傷つくことを恐れるようになっていた。
昔の自分はもっと強かった。
それを今思い出した。
傷ついてもいいではないか、もっと自分に正直に生きていこう。
傷を癒せるだけの強さが自分にはあるはずなのだから。

中里は顔をぐっと上げて相手の目をしっかり捉えた。
「あんたは俺を信じてくれてるってことなんだよな、初対面で。悩むの馬鹿馬鹿しくなってきた」
中里は啓介に対して初めて笑顔を向けた。

あまりガラのいいとは言えない妙義で頭を張っていた自分が培ってきた人を見抜く目が、啓介を信頼の置ける人間であると告げている。
相手を信じる。そして自分自身を信じる――。

中里は右手を差し出した。
「ありがとう啓介」
「おうよ」
握り返してきた手が暖かくて、中里の心もふわりと暖まった。



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