5.君に君の望む未来を…
啓介が連れて行った先はそこそこきれいなアパートだった。しかし、啓介が玄関の扉を開けた途端、中里は絶句してその場に立ち尽くしてしまった。
「なんだこれは……」
玄関先と部屋を仕切るドアが開きっぱなしになっていて向こうまで見渡せる。脱ぎ散らかされた服。雑誌が床に積み上げられ、読みかけなのだろう、開いたままになった雑誌がこれまた何冊か散乱し、中里には一目で車のパーツだと分かるものがごちゃごちゃと一角を占め、ソファの上も机の上もなんかよく分からないものが占領しており――。
たぶん足の踏み場もないというのはこういうことを言うのだ。
いや、この状態ほどこの言葉を的確に表していることもない。中里は驚きを通り越して呆れ返った。よくこの状態で人を招こうと思ったもんだ。その方が驚きだ。
「あんたさ、生活能力皆無だろ……」
ようやくそれだけ言葉を見つけてぼそりと言う。
啓介は頭を掻くとあははと笑って誤魔化した。
「あははじゃねえよ。よくこんなんで生活していけるな! 信じらんねー!」
ここに来るまで持っていた遠慮が一瞬にして吹き飛んだ中里は、啓介を振り仰いで怒鳴る。
「っつーか俺の美意識が許さねえ! こんなゴミ溜めのような状態、片付けさせてもらうかんな!!」
申し訳なさも何も消し飛んでずかずかと中に踏み込んだ中里は、怒涛のような勢いで部屋の掃除をし始めた。窓を開け放ち、コンポのコードに引っかかって転びそうになりながら、手際よく床の物を整理して、同時に悪態をつく。
「もう、信じらんね! つーかこれいつの食べかけだよ! この菓子黴てんじゃねえの!?」
呆気にとられて玄関口に立ちつくしていた啓介は、
「ほらっ、そんなとこにボーっと突っ立ってねえで、そっち持てよ!」
中里に怒鳴られて慌てて玄関を上がる。言われた通りソファの端を持つと中里の様子を伺う。
「も、持ったぜ。どうすんだ、これ?」
「床に掃除機かけるまでベランダだ。ついでに虫干しにもなるだろ。そうでもしなきゃ寝る気になんねー」
本人は気付いていないのだろうが、今までとは打って変わって生気の戻った顔に啓介はなんとなく嬉しくなって思わず笑みを浮かべる。
「何笑ってんだよ! ちったー自覚しろよ!」
それを見咎めた中里に怒られ、ますます嬉しくなって啓介は口の端に浮かんだ笑みを消すこともできず、誤魔化すように顔を背けてはいはいと言う。
その後冷凍食品とレトルトとカップ麺しかない台所をまた怒られ、啓介アパートに住み始めて以来の大掃除は夜までバタバタと続いた。
「ふーよく働いたなー、俺」
見違えるように綺麗になった部屋で、啓介と中里は本当に有り合せの夕食をとりながらビールを傾けていた。中里は未成年だったが啓介はそういうところはかなりアバウトだった。中里も本来自分は成人していると思うから遠慮なく貰っておく。涼介はいくら言っても体が子供である以上ダメだと言ってきかなかったから、随分久しぶりに飲む酒だった。
「なあ、啓介、あんた走り屋なのか?」
車のパーツが部屋に転がっていて、雑誌のほとんども車雑誌とくればもうほぼ確信を持った質問だった。
「おお、そうだぜ! 何、毅、車に興味あるん?」
嬉しそうに啓介は中里を見る。
「まあな」
「そっかー俺の車FDなんだぜ!」
目を輝かせて啓介は言う。褒めてくれと言わんばかりの表情に中里は苦笑した。聞けば啓介と自分は同い年らしかったが、昼間無頼漢を追い払った時の強面の印象とやけに子供っぽい表情をするときのギャップが激しいと思わずにはいられなかった。
「そうか」
「なんだよ」走り屋になりたいと思っている子供なら、もっとリアクションがあっていいはずだと思って啓介は不満そうな声を出す。
「FD、FDだぜ! 孤高のロータリースピリッツ!」
「へえ」
やはり相手からは期待した反応が得られず、啓介は子供に対して大人げないと思いながら少し不機嫌になる。
「FDって言って分かるくらいだからお前車好きなんだよな? にしては反応薄いじゃねえか。いったい何に乗りたいと思ってるんだ?」
乗りたいではない、乗ってるんだ、だと心の中で訂正しながら中里は答えた。
「GTR」
「はあっ? GTR? やめとけやめとけ! あんなん車の性能に乗せられているだけで、ほんとの走り屋の選ぶ車じゃねぇよ!」
「何だと!?」
少年は険悪な声を出し、啓介はそんなに気に障ることを言っただろうかとちょっと悔やんだ。子供の夢に少し余計な事を言い過ぎたかもしれない。困ったように頭を掻いた。
「わ、悪りぃ。サーキットでは強い車だし、お前にだって夢があるよな」
啓介のすまなそうな態度に、中里は自分が思わず激してしまったと知り頭が冷える。不審に思われなかっただろうか。
「いや、ロータリーには俺だって一目を置いてる。ロータリー乗りですごい走り屋を知ってるから……」
「そうかー? うん、俺のアニキも凄え走り屋なんだぜ! 俺、その影響受けてFD選んだんだからさ!」
「アニキ? お前一人っ子って言ってなかったか?」
「あ、そう従兄弟のことだよ。最近かなり有名なんだぜ? 聞きたいか?」
またしても目を輝かせて啓介は言ってきたが、中里は悪いと思いながらもこれ以上この会話は続けたくなかった。ロータリーは否応なしに彼を思い出させるから――。
「いや、それはまた今度な。それより啓介、あんたのことを教えてくれよ」
何気なく話しを逸らした。
酒は人を打ち解けさせる。いろいろ話してみて意外に話があうことに啓介は嬉しくなった。
「お前さ、年の割りに大人びてるよな。落ち着いてるし」
ドキリとした中里はそれでも何食わぬ顔で混ぜっ返す。
「あんたがしっかりしてなさすぎなんじゃね? あんなに散らかった部屋、俺今まで見たことなかったぜ。食事だって何食ってんだかわかんないような不健康そうなもんばっかだしよ」
「いいんだよ! 俺ほとんど外食だもんね! バイトも俺の栄養補給先なの」
「だからイタリアンかよ……」
中里は呆れた声を出した。啓介は『彼』とはあまりに違う。拾って貰ってなんだが、居候している自分が啓介の面倒を見なくちゃいけない気分にさせられる。
「しょうがねえな、俺料理結構得意だからよ、時間がある時は俺が飯作ってやるよ」
夜も更け、中里がウトウトしだして会話が途切れるようになり、軽い飲み会はお開きになる。中里はソファに、啓介はベッドに、それぞれ寝床を定めた。ワンルームだからなんとなく合宿の気分にさせられる。
「イビキかくなよ」
「かくかよ!」
啓介はからかい、中里は怒鳴ったがすぐにソファに横になるとあっという間に寝入ってしまった。そういうところは子供なんだなあ、と思いながら今日初めて会った時の警戒しきった表情がなくなったことを思い返して啓介は微笑む。
遊びで家出をするように見えなかったから、余計なお節介かもしれないと思いながらも気にかけずにはいられなかった。彼みたいな純粋で世間ずれしていない子供が家出を決意するなんて余程の事情があるのだろうと思う。気持ちの整理がついて彼自身が話してくれるようになるまで黙ってそっとしておこう……。
「おやすみ」
電気を消そうと部屋を横切り、途中でソファで眠る少年に声を掛けた啓介はその瞬間はっとした。
ずれたトレーナーが酒で僅かに上気した首筋を露わにしている。艶めいた白い肌にくっきりと刻印されたまだ新しい痕に、そういうことか……と啓介は悟った。
家出少年かと思っていたが、ことはそう簡単ではないということか……。
吸い寄せられたまま離せなくなった視線を無理矢理引き剥がし、自らの下半身を見下ろして啓介は溜息をついた。
「マジ、かよ……。ミイラ取りがミイラになっちゃ洒落になんねえぜ」
信じてくれと言ったけれど、その自信がなくなってきた。
「ていうか、俺にそんな趣味はねえ筈だ」
自分に言い聞かせるように啓介は呟く。この子供がこれ以上傷つくのは何としても避けたい。啓介はがしがしと頭を掻くと、電気を消してソファをできるだけ意識しないようにしてベッドに直行した。
東京はいつまでたっても中里には慣れない地だったが、この巨大都市にいればあらゆる目から隠されていると安心できて落ち着けた。啓介は結局中里の苗字も過去も聞くことはなく、中里は申し訳なく思いながらもその好意に甘えた。生活費はバイトの給料が出てからは折半になり、中里の心理的負担はなくなった。啓介とはいい友達で、よく喧嘩はしたが結構楽しく毎日を過ごしていた。自分の成長を指折り数えて待ち、そしてそれが確実に叶えられているのを嬉しく思った。
啓介は涼介とは全く違ったから、ふとした拍子に思い出す以外は昔を思い出すことはなく、中里の心は次第に癒されて行った。
*
季節は初夏に差し掛かろうとしていた。クーラーを入れるにはまだ早いのだろうが、窓を開けても風が流れないから、日が落ちても部屋にこもった熱気がなかなか逃げてくれない。
バイトから帰ってシャワーを浴びた中里は濡れた髪のまま扇風機の前に陣取った。
「あちい。東京の夏が暑いって本当なんだな、啓介」
無闇にTシャツの襟をバタバタさせながら火照った体に風を送り込む。
「夏ってまだ梅雨前じゃねえか。こんなもんで根を上げてたら真夏はやってけねえぞ。ヒートアイランド現象って言ったっけ、アスファルトの照り返しで昼間も夜も蒸し風呂状態」
「まじかよー」
「大丈夫、クーラー代はケチんねえからよ! いやあ、お前と一緒に暮らすようになってまじ助かってるぜ! 遊べる金が増えたもんな」
「あんた大学生だろうが、ちったー勉強しろよ」
呆れた声を出しながらも中里は啓介の何気ない言葉に隠された好意に感謝する。居候しはじめてから3ヶ月近くなろうとするのに、啓介は嫌な顔一つせずに自分を置いておいてくれている。今の言葉だって自分に負担を感じさせまいという啓介の意図だ。
結局今の自分は誰かの親切がなければ住む場所すらないのだから、啓介に追い出されたらいつか自分が言ったように本当に野宿ということになってしまうだろう。
ふと中里は随分昔に感じられる過去の会話を思い出した。
……涼介、どうしているだろうか……。
そういえば木の上で寝る、とか言ったんだっけ。夏の夜はそれも涼しそうでいいかもしれない。
中里はクスと笑った。まだ一年経ってないのに、あのときの会話がなんか懐かしい。
涼介は結局追ってこなかった。少しは自分を探してくれたのだろうと思うけれど、彼は去っていったものには執着しないから、それは自惚れすぎかもしれない。たぶん今はもう自分のことなど忘れてしまっている。それを思うとなんとなく寂しいけれど、でもこれでよかったのだ。
涼介の心は今でもよくわからない。それでも怒らせる前までの優しさが偽りだったとはもう思っていない。なぜなら彼は言わないでくれたから――。逃げたらバラすと言っていたけれど、誰も自分のことを
追ってこない。国家の権力を使えば自分を見つけるのなど容易いはずなのに、誰も捕まえに来ないところを見ると、涼介は黙っていてくれたのだ。心にもないことをなぜあの時涼介は言ったのだろうか?
たぶんそれだけ自分が彼を怒らせてしまったということなのだろう。
ふと視線を感じて中里が顔を上げると啓介がじっと見つめていた。
「な、何だ?」
「い、いや」
我に返ったように啓介は顔を背け缶ビールをあおった。
見惚れていたなどと言えるわけがない。
切ないようなこがれるような表情をしている事など彼は気付いてはいまい。いったい誰を思い出しているのだろう……? 自分は毅という名前しか知らないのに、彼の心を占めこのような表情をさせる人間がいると思い知らされて、埋まらない距離を突き付けられる。
結局家出の理由は聞いていないけれど、あの時見た情事の痕をつけた奴が彼の心に棲む過去の幻影なのかなど、確かめたくもない。
「どうしたんだ?」
啓介が黙りこくって壁の方をじっと見ているので、中里は心配になって啓介の前に移動するとその顔を覗きこんだ。
「なんでもねーよ!」
啓介は思わず大きな声を出してしまう。これ以上囚われるのを避けようとしているのに、なんでこいつはこう無防備に近づいて来るんだ!
少し伸びてしまった襟刳りからシャワーのせいか上気した肌と鎖骨のラインが丸見えで……。
くっそー、俺は何を考えてるんだ! 俺は男になんか興味ねえ!!
啓介は自分に言い聞かせた。
「つーか、お前ちっとは自覚しろ!!」
「は? 何をだよ」
「だからっ、お前は自分が随分危険なオーラ纏ってるって気付けっての!」
「危険って、啓介の方がよっぽど怖そうだぜ」
「ちげーよっ!! つーか俺にこんなこと言わせんなよ! 一度きりだかんな! しかもダチとしての忠告であって深い意味はねえんだからなっ!」
「ああ」
啓介がギャーギャーと捲くし立てるので、勢いに呑まれて中里は頷くことしかできない。
「お前人にあんま隙を見せんな!」
「隙?」
「そう! お前なんかアブねえんだよ。隙見せると誘ってるんかって思われちまうぜ」
「なっ!?」
「お、俺にはそんな趣味はないんだぜっ! でもよ、そんな男だってそう思っちまうってことなんだ。
魔が差したら手え出しちまうかもしんねえ危うさがお前にあるってことだ!」
「そんな……」
中里はショックを受けた顔で啓介を見返した。
「ああ、もう、だからそんな目で見んなって!」
「ほ、ほんとにそうなのか?」
「そうなんだよ! つーかその縋るような目もやめろ! お前がその顔をすると洒落になんねえ」
いじめたような罪悪感に苛まれると同時に、もっと苛めてみたくなる。そんな始末の悪い目。
「俺としては、お前が自覚のねえまま無防備なのは、この先生きていく上で大変だろうと思うから言っ
てるんだ」
こんなこと俺だって言いたくないんだ、と啓介は少し不貞腐れたように付け加えた。
しばらく呆然と啓介を見つめていた中里だったが、それから深く思い悩むように目を伏せた。
*
『あっ……、や……やめっ……りょう……』
己の腕の下で啼き声を上げる中里を俺は表情を変えずに眺めている。
これは夢だ。何度も見た――。
『おねが……ぃ、なんでこんな……』
抵抗から懇願に変わって久しい。慣れない刺激、人に触れられることのない場所を入念に嬲られ続け、身体が勝手に反応することに怯えたような目をしている。
『んっ……、い、や……、は…ぁ……っ』
涙を浮かべて哀願する中里に俺は冷笑をもって答える。
『何が嫌なんだ?』
『感じてるんだろ? ここをこんなにさせて言う台詞じゃないな』
前触れも無く中里自身をぎゅっと握り締め、その途端中里の身体はビクンと跳ねる。
必死で声が上がらないように耐えて喘いでいる姿に煽られて、自分も制御の効かぬ状態なのに、それを綺麗に覆い隠してまるで中里だけが乱れているかのように振舞う。
嘲るような笑みを浮かべている自分を夢の中でなすすべも無く俺は見ている。
もう、やめろ……! お願いだからやめてくれ! そう叫びたいのに声が出ない。
中里だけが溺れているという錯覚を見せる事で、相手の心をいたぶる昏い腹いせ。
どんなに切望しても、中里には自分のことを受け入れられないのなら、自分だけが中里に翻弄されて夢中になっているなどと知られるのは屈辱だと思った。つまらぬ矜持から決して本心を出せなかった自分。
過去の愚かな行動をこうして何度も夢に見る。深い後悔と決して取り戻せぬ過ちを犯したことをその度に思い知らされる。
相手のことが好きなことには罪はないけれど、相手の心を蹂躙したことは決して許されぬ罪だ。
焦らされて焦らされて、たぶんもうこれ以上は待てなかったのは確か。
それでもなぜ本当の気持ちを伝えられなかったのだろう?
……今では分かる。自分の臆病な心が――。
好きだと言って拒否されるのが怖かった。今まで失敗と言う言葉に縁の無かった自分。いつも周到に準備して確証を得てから動いていた。けれど中里に関しては決してシミュレーションは上手くいかず、ただ分かっていることは相手が自分のことを友達だと思っているということだけ。
ほぼ失敗すると分かる告白をする勇気が出なかった。
だから逃げられるならば脅して側から離れられぬようにとそう思った。
全てを欲しいと願ったけれど、それが無理なら自分に残されたことはその身体を己の元に留め置くことだけだと。恐怖と身体で縛り付けて、それで己から離れぬというのなら、それならもうそういう関係でいいと――。
一晩で何度も抱いた。その素直で敏感な身体を。
『物覚えがいいな、中里は』
焦点の合わぬ濡れた瞳で中里は自分を見る。声のした方を向いただけでたぶん何も見えていないのだ。
『あぁ……涼介っ……』
無意識に自分を求め縋りつく中里に、手に入れたとそう思った……。
体が浮上するような感覚と共に夢から現実に引き戻される。
己の愚かさを嘲笑うかのようにいつも目覚めるところは同じ。
涼介は広いベッドに疲れの取れていない体を起こし、両目を覆って俯いた。
取り戻せない過ちを犯し、最も大切な物を失ってしまった。
何よりも中里を危険に追いやってしまった自分が許せない。
東京に一人で行かせてしまった。あのような危険な場所に純粋で人を信じやすい中里がたった一人で彷徨っているなど、不安と焦燥で気が狂いそうになる。
探し続けているのに全く手掛りは見つからない。
すぐに手を打ったけれど、高崎線の新宿行きに乗ったということ以外何もわからなかった。
中里のことを人に知られるわけにはいかないから、ほとんど自分の体だけが頼りで巨大都市の中を捜し歩いた。広い砂浜で一粒の砂金を見つけるよりも困難な作業で、どう考えても無謀だとわかるのに、突き動かされるように体は東京に向かう。
金曜の実習が終わったその足で東京に出て、月曜日の朝に失望と重い体を引きずって帰ってくる。平日は思いつく限りのコンピューターにハッキングして情報を探す。警視庁、公安、研究所、企業、マフィア……。
それでも、中里が自分の前から消えてからもう3ヶ月近くなろうとしているのに何の手掛りも見つけることができずにいる。情報がないのは無事だからだと自らに言い聞かせながら、ときに恐ろしい考えが頭をよぎりそれを慌てて打ち消す。
「どこにいるんだ、中里……」
掠れた問いが虚空にむなしく吸い込まれていく。
自分の身勝手な欲望などもはやどうでもいい。ただ中里が無事でいること……それだけを祈っている。
お前がいなくなったあの日以来俺の中の時は止まっている。お前が見つかるまでたぶん永遠にそのまま
だろう。
俺がお前を失ったのは自業自得だけれど、お前はその犠牲にはならないでくれ……。
*
それはたまたまだった。その週末家に帰ってくるように言われ、東京で開かれる学会の手伝いを頼まれていると嘘を吐いた。
『母さんの誕生日を振るなんて、涼ちゃん冷たいわ』
母親はさして残念そうでもなくそう言ったが、
『涼ちゃん、それなら久しぶりに啓ちゃんの様子を見てきてちょうだい』
と付け足した。遊びに行くわけではないと言いたかったが、嘘を吐いている後ろめたさも手伝い涼介は承諾した。
涼介には従兄弟ということになっている実の弟がいた。
啓介という名の弟は、子供がいない叔父夫婦に養子として赤ん坊の頃に引き取られたのであり、二人は実際は本当の兄弟だった。涼介は啓介が実の弟だと知っていたから、自分だけが両親の元にいられる罪悪感も手伝って、高崎の実家によく預けられていた啓介の面倒を見て可愛がっていた。
啓介が中学に入った頃、何かの拍子に実の親が誰であるか知れてそれからの啓介は随分荒れた。啓介にとっては涼介だけがいい思いをしていると感じたのだろう、啓介の涼介に対する態度はしばらく硬化し、和解し合えたのは啓介が大学に入る頃だった。
こんな時でなければ気にかかる弟だったが、今の涼介には精神的余裕がなく、面倒臭い気持ちの方が先に立った。
それでも約束した手前、義務感から前日に連絡をとる。啓介自身にも生活があり、急なことでは時間が合わないだろうと期待して。
『あ、アニキ? 久しぶりじゃん! なんか用?』
「いや、ちょっと東京に行く用事があってな、それをお袋に知れたらお前の様子を見て来いと言われた。でも、お前も忙しいだろ? 俺も忙しいし、無理に時間作る必要ないと思うんだが」
『そっかーもっと早く連絡してくれよ! 俺今週末全部バイト入れちまった』
休日にバイトなどと啓介の口から出てきて涼介は少し驚く。
「そうか、それならいい。しかし……お前そんなに金足りてないのか?」
自分達の関係は元に戻ったが、結局啓介には叔父夫婦対するわだかまりが抜けなかったのだろう、期待された医者の道を選ばなかったこともあり、仕送などは最小限しか受け取っていないはずで涼介は心配になってくる。
『いやーそれは平気! っつーかさ、バイトが楽しくってさ』
啓介が働く事が楽しいとは、人は成長するものだと涼介は少し感嘆する。
「それならば今回は会うのは無理だな」
自分にも都合がよかったので涼介が話を纏めようとすると、啓介は慌てて口を挟んだ。
『あ、ちょっと待ってくれよ、アニキ! あのさ、ちょこっとだけでいいんだ、やっぱ会おうぜ』
「なんだ?」
『相談したいことがあるんだよな。それと、会わせたい奴もいるんだ』
意味深な言葉だと思いながら、涼介は約束している以上断れなかった。
「何だ、恋愛相談なら他所でした方がいいぞ?」
『ち、ちげーよっ!』
ムキになる啓介に図星かと思う。
「まあいい。でもお前忙しいんだろ、どうする?」
結局時間が取れない啓介の代わりに涼介が啓介のバイト先に出向くことになった。
『アニキの方が時間があるなんて珍しいよな! ま、せっかく来てもらうんだし俺おごるからさ。結構美味いんだぜ! じゃあなまたな』
一方的に捲くし立てて啓介は電話を切った。涼介は溜息をつく。
「最近、固形物はほとんど受けつけないなどと言える雰囲気ではないな……」
空が抜けるように青い。昨晩も夜の繁華街を探しあぐねたけれど、何の成果も得られなかった。
僅かな仮眠を取った涼介は重い体を引きずって啓介との約束場所に向かう。昼前、店が混む前に来てくれと言われたから、まだ朝と昼の間の中途半端な時間だ。
街の中心地からは少し外れた所にあるPonte di Rialto。ヴェネチアの有名な橋の名を冠した店の名前に涼介は苦笑を覚えたものだ。イタリアの健康的でまぶしい太陽の降り注ぐアドリア海の明るいエメラルドグリーンには今の自分は最も縁がないと思えたから。
ちょっと隠れ家的な店だけど、知る人は知る結構有名な店なんだぜ、と啓介は言っていた。
角を曲がると見えてくる。かわいらしい木作りの建物が。イタリアのカフェのように店の前に張り出した日よけの下にいくつかテーブルが置かれ、色とりどりの花の咲いた植木鉢が所々にアクセントを添える。
「もう、信じらんねー!」
突然涼介の耳に飛び込んでくる声。
え……?
懐かしい、夢にまで見た――。とうとう自分は幻聴まで聞くようになってしまったのだろうか?
「マジでわっりい!」
それに重なるように啓介の声が聞こえてくる。
そして店の入り口からウェイター姿の少年が手に如雨露を持って飛び出してきた。
ああ…………。
涼介はその場に立ち尽くしてしまった。
変わっていない。いや、少し背が伸びただろうか? 何に怒っているのか僅かに顔を上気させて、大きな瞳がその豊かな感情を反射してきらきら輝いている。
「なか、ざと……」
涼介は聞こえるか聞こえないような微かな声でその名を呟いた。
「え……?」
風に乗って運ばれてきた呼ばれるはずのない名に中里は顔を上げる。
「涼、介……」
カランと如雨露が手から離れ高い音を立てて地面に転がった。
もう二度と会うこともないと思っていた人がそこにいた。何故? と思う前にその姿に息を呑む。
昼間の日差しに不釣合いな血の気の失せた顔。憎たらしいほどの余裕と自信を湛えていた瞳から光が消え失せ、焦燥と憔悴が明らかに見て取れた。元々涼介は色白だったが、これはむしろ蒼白とも言うべきで、健康的な美青年だった面影はそこにはなかった。病的で鬼気迫るような凄絶な美貌。
「どうして……」
痛みを覚える心のままに近づこうとしたとき、後ろから声が掛けられる。
「毅!」
振り向くと啓介が外に出て来るところだった。そして啓介は中里の様子に眉を顰め、そしてその視線のあった先に目を向ける。
「アニキ」
歓迎の意を伝えようとするものの、二人の様子がおかしいことにそれ以上の言葉が出て来ない。
「アニキ? 啓介の従兄弟……?」
涼介を見つめ中里は呟く。そうか、自分を探してくれていたわけではないんだ。わかっていた事だけれど心がちくりと痛む。すっと目を逸らした。
涼介も中里の名前を親しげに呼んで現れた啓介に苦い絶望を覚えずにはいられなかった。
中里の中からいつしか自分が消え去り、他の誰かがその場を占める――。恐れていた現実がそこにあった。しかもその相手は自分の可愛がっていた実の弟なのだ。
無事でいる姿を見られればもう何もいらないと思っていたのに、それが叶えられると未練がましい気持ちが増殖する。明らかに中里は自分を避けているのに、自分はなんて貪欲で浅ましい……。
自己嫌悪に駆られ涼介は己を唾棄した。
これ以上中里を苦しめないと誓ったはず。もうその手を放してやらなければ、中里が幸せを見つけたならそれを祝福してやらなければ……。
決意が鈍らぬように中里を見ないようにして、涼介は啓介に早口で言った。
「啓介、久しぶりだな。お袋がお前に会いたがっていたよ。叔父さんもお前のことを気にしていたぞ。
お前の気持ちも分かるが、たまには顔を出してやれ。それで、今日俺を呼んだのは何の用だ?」
自分などいないかのように振舞われ、中里は急冷却される心を自覚した。
「アニキ……?」
啓介は涼介の態度に違和感を覚える。
なんだろう、常に自信に溢れていた兄のこの余裕のなさは。
それに毅、なんでそんな傷ついたような眼をしている? アニキを知っているのか?
その瞬間、突然啓介の中にある恐ろしい予測が閃いた。
まさか毅に無体を強いたのはアニキなのか!?
もしそいつを見つけたら一発分殴るだけではすまさねえと思っていた。ぼこぼこにしてそれで毅の心が癒える訳ではないけれど、そうでもしなければ自分の気がすまないと思っていた。
けれどアニキが……? あの冷静で全てを計算して生きているアニキが犯罪になりかねない行為をした
のか?
それに毅、お前はアニキから逃げてきたんだろ? なのになんでそんな切ないような、こちらまで苦しくなってくるような目でアニキを見ている?
二人はいったい互いをどう思っているのか?
啓介は言葉を取り繕わない。思ったことを口にする。
「アニキ、何、毅と知り合いなん?」
「そうだな、一応な」
そっけなく涼介は言い、中里の心はひびが入った氷のように白く砕ける。
「俺、向こうに行ってるわ。お前ら従兄弟同士、水入らずで話せよ」
感情の籠もらない固い声でそれだけ言うと踵を返す。
背中を向けた中里に、涼介が苦しそうに一瞬眉を寄せたのを啓介は見逃さなかった。
「なんだよアニキ!」
啓介は自分でも信じられないほど強い口調で涼介に迫っていた。
「声がでかい」
涼介は中里の姿が消えたことを確認すると、仮面のような無表情で啓介の方を向き直った。
「俺はいつも声がでかいんだよ! 話を逸らすなよ! アニキ毅が好きなんだろ!? なんでそんな態度を取るんだよ!」
涼介は再び中里が消えた先をちらりと見、腹の立つくらい落ち着いた声で答える。
「それはお前の勝手な妄想というものだ。それになんで俺が男などを好きにならなければいけない?」
「妄想? ふざけんなよアニキの目が言ってるんだよ、あいつが好きだってな! なんでこれ以上毅を苦しめるような真似をするんだよ!!」
涼介は啓介を睨みつけた。そして絞り出すような声で言う。
「無責任なことを言うな、啓介! 俺は、あいつがこれ以上傷つくところを見たくないんだ! 俺はもう十分あいつを苦しめてきた。だからもう、自分の気持ちを押し付けるような真似はしないと誓ったんだよ! お前こそ俺の惨めさを嘲笑ってるんだろ、内心」
いつも自分が啓介の物をとってしまっていたから、神は中里は啓介にやることにしたのだ。
「な、何言ってるんだアニキ」
啓介は驚いて聞き返す。
「3ヶ月間一緒に過ごしてきたんだろ? 紹介したい奴ってあいつなんだろ? ちょっと見ればお前らの関係ぐらいわかる!」
啓介は涼介をまじまじと見た。何をやっても敵わない、ムカつくほど完璧な兄だと思っていた。けれど頭のいいくせになんて馬鹿なんだ。何も分かっていない。毅の目はアニキしか見ていないのに。
啓介は溜息をついた。
「アニキ、俺たちの関係は何にもねえよ。俺、あいつにキスすらしたことねえ」
「な、に……?」
「アニキ、それとも恋人を俺に譲るつもりだったんかよ。アニキの毅に対する思いってその程度なのか?」
「違う……」
涼介は弱々しく否定した。
「何が違うってんだよ」
「恋人じゃない。俺が一方的に思っているだけだ。中里はお前が好きなんだろ」
寂しそうに言い、涼介は自嘲するかのような笑みを浮かべる。
「アニキ、信じらんねー程馬鹿だよ! あいつの目はアニキしか見てねえじゃねえか!」
「そんなはずは――」
「ねえって言い切れるのか? アニキあいつに好きだと言ったことあんのか? あいつの気持ちを聞いたことがあんのかよ」
涼介の顔を見て啓介は真実をほぼ見抜く。
「アニキ、言わなきゃわかんねえことってあんだよ。特にあいつの場合、なんもわかっちゃいねーんだ。アニキは全て頭ん中で考えすぎなんだよ。アニキが何を考えてるかなんて所詮他人には分からないんだぜ。どうせ俺らが恋人同士だと思って毅のために手を引くとか考えたんだろうけどな」
優しくって馬鹿な兄。
「俺たちはそんなんじゃねえ。そして、言葉が足りなすぎるからあいつ誤解してるぜ、アニキのこと」
誰も涼介の思考など読めない。だから言葉と行動を繋いでその気持ちを推し量るしかない。
涼介は目を見開いた。
半年以上共に生活した相手に、一応知り合いとそっけなく言われて傷つかぬ者はいまい。
「追えよ、アニキ」
涼介は啓介を見、そして身を翻した。
「すまない、啓介。感謝する!」
「すまない、ね。マジそうだぜ……」
啓介は独りごちた。相談に乗ってもらうつもりが自分の方が相談に乗ってしまった。言ってみれば恋敵の背中を押すなんて自分もお人好しだと思う。でも二人を見て思ったのだ。自分の入る隙間などないと。可能性があるならいくらでも挑戦するけれど、あの不器用な恋人たちは既に互いのものだった。
自分は運がなかった。毅は出会ったときからアニキのものだったのだ。
願わくば二人の気持ちが通じて欲しい。
ま、これ以上手助けはしねえけどな――。
ずかずかと店に踏み込み、周りの目を無視して涼介は開店の準備をしている中里に近づく。
驚いて硬直している中里の手をつかんで逃れられないようにすると静かな声で言う。
「話したいことがある。少し時間をくれ」
すぐに我に返った中里はキッと涼介を睨む。
「お客さま、放してください!」
涼介はすっと手を放し中里は驚いて涼介を見る。
「この通り、無理強いはしない。ただずっとお前に言いたいことがあった。それを言う時間を俺にくれないか」
「どうしたんですか、お客さま。その子が無礼でも?」
静かな威厳を持って初老の店主が涼介に声をかけた。中里の事を苗字も聞かずに雇ってくれた中里にとって啓介に継ぐ恩人だ。
涼介はそちらに向き直る。
「店長ですね。俺はこの子の保護者です。どこまで事情をご存知か知りませんが、ずっと彼を捜していました。この子と話し合いたいことがあるんです。少しの時間彼を抜けさせてくれませんか?」
店主はじっと涼介を見た。礼儀正しいきちんとした青年に見える。しかしだからと言って簡単に信用するわけではなかった。中里を思いやるように見る。
「毅、お前はどうしたい?」
「俺……」
中里は一瞬目を伏せ、それからぐっと顔を上げて涼介を見た。
「俺を捜してたって本当か?」
「ああ」
「さっき俺を無視したのは?」
「それも謝る。全てを話す時間が欲しい」
「わかった。俺もお前に聞きたい事がある」
中里は優しい店主を振り返り強い意思の瞬く瞳で相手を見つめる。
「マスター、俺を半日抜けさせてください」
「毅がそう望むのならいくらでもそうしなさい」
静かに店主は中里に微笑んだ。この子がここで働くことはもうないだろうという予感めいたものを持って……。
近くに公園があるから、とだけ言い店を出た中里は涼介を伴って黙々と歩いた。木立に入ると強い日差しが和らげられる。中里が連れて行った場所に涼介は奇妙な既視感を覚えた。
木々に囲まれた遊歩道にぽつんと白いベンチが置いてある。二人はどちらともなく立ち止まって向きあった。
「久しぶりだな、涼介」
沈黙を破ったのは中里だった。
「お前と啓介が従兄弟とはな。広い東京で俺を拾ってくれた奴が、よりによってお前の血縁者とは笑っちまうぜ」
信じがたい偶然だけれど、でもだからこそ神ははまだ自分を見捨ててないと涼介は信じたかった。
「ずっと謝りたいと思っていた。お前が消えた日から、後悔と罪の意識に苛まれて俺はお前を捜していた。今更俺を許してくれとは言えないけれどな……」
中里は目の前にいるのがあの涼介とは信じられないような気がした。あれほど自信の塊のようだった涼介がまるで蝋人形のように生気を失っている。
少しは自惚れてもいいのだろうか? 自分が黙って出て行ったことを涼介が悲しんでくれたと。
離れてからずっと思っていたことがある。涼介にとって自分はなんなのだろう? 優しさと冷たさのない混ぜになった掴み所のない涼介の行動に、何を信じていいのか自分はずっとわからなかった。
本当の気持ちを知りたいと思い続けてきた。
たとえ傷ついてももう逃げたくないと思う。
「涼介、お前にずっと聞きたかった。なんでお前が俺にあんなことをしたのか。あれからお前の優しさを一度は疑った。でも俺にとってお前が子供になった俺の面倒を見てくれたことはやっぱり感謝すべきことなんだ。今ではお前のことを信じたいと思っている。でも結局俺にはお前のことはよくわかんねえ。お前にとって俺はどういう存在なんだ?」
涼介は決意を固めるように一瞬目を伏せ、それから自分を見つめる中里の目をしっかり捉えた。最初で最後の告白。叶わなくてもいい、逃げずに本当の気持ちを告げよう。
「中里、俺はお前の思うようないい奴じゃない。お前の弱みに付け込んで、お前を側に置こうと思った最低な男だ。一緒に住み始めたのもお前のためではなくむしろ俺自身のためだった。お前がこの世に存在できなくなったのをいいことに、俺に束縛して俺から離れられないようにと仕組んだんだ。どうしても俺はお前を失うことができなかった。俺はお前が好きなんだ。中里、俺を愚かな男だと思うだろ?」
中里は大きな瞳をさらに見開いて涼介を凝視していた。涼介はそれを見て自嘲するように笑う。
「こんなこと言われたって気持ち悪いだけだよな。お前が俺の元を出て行くと言ったとき、俺は恐怖と絶望で真っ暗になった。お前なしの生活など俺には想像もつかなかった。お前が俺のことを捨てて行こうとするのをみて何もかも投げやりになった。制御できないまま一方的に俺の気持ちを押し付けてお前を抱いてしまった。……すまない、中里。お前のことを巻き込んでしまって本当にすまない……」
中里は寂しそうに笑う涼介に胸が苦しくなった。
自分こそ涼介の優しさに甘えて一度もその気持ちを考えようとしなかった。それに自分自身に自信もなかった。涼介の付き合ってきた才色兼備の女性たちに対し、何の取り得もないしかも男の自分を涼介が好きでいてくれるとは想像することすらおこがましくて、涼介の示したサインから全て目をつぶってしまった。
優しい涼介はたぶんギリギリまで待ってくれたのだ。けれど相手の気持ちに直面する事から逃げてしま
った自分のせいで、何も言えなくて涼介は自分を抱くということでしか思いを表現できなかったのだろ
う。
自分はずるかったのだ。今思えば、友達のままで涼介の側にいられるのなら、男同士という社会的に排斥される関係など選びたくなくて自分は自分の気持ちも深く考えないようにしていた。一線を越える勇気がなくてそれが結局涼介を追い詰めた。
自分などのどこがいいのかと思う。自信は今もやはりない。けれどただ一つ偽れない気持ちがある。
中里は俯いている涼介に近づくとそっとその手に軽く振れた。
「涼介。謝んなよ――。俺に涼介にそう言ってもらえる価値などあんのかわかんねえけど……、涼介の気持ち、すげえ嬉しい」
「え……?」
涼介は中里の顔を凝視した。
僅かに紅潮した中里が、それでも真剣な目で涼介を見つめている。
「中里……?」
信じられないものを見るように見つめてくる涼介に中里はふっと笑った。
*
「中里、お前俺がこんなことをしても、俺の気持ち、気付かなかった?」
涼介は後ろから中里を抱きしめて、耳元で囁く。ついでにちろと耳朶を舐めた。
中里はくすぐったそうに身を捩りながら、自分の体温が上がったことを気付かれないようにぶっきらぼうに答えた。
「気付かねえよ! 言われなきゃ気付くわけないだろ? 俺高校んとき運動部だったから、試合後に抱き合ったり肩組んだりって普通にしてたぞ。タックルくらって後ろから羽交い絞め、とか結構日常茶飯事だったかな? ま、俺もやり返してたけどな」
「何だって!?」
涼介は硬直する。
「こんなこと、いつもされてたのか?」
涼介は慌ててぐるっと中里を回転させて自分と向きあう体勢にすると、必死に中里の顔を覗きこんだ。
「へ? だ、だって普通だろ?」
何を涼介が慌てているのか分からず、中里はきょとんとした表情で見返した。
このニブさどうにかしてくれっ!
叫びそうになりながら、涼介は天を仰いだ。
よくこれで今まで無事にいたものだ。いや、鈍感すぎて無意識にかわしていてみんな陰で涙したということか?
「す、好きだって言われたことはなかったのか?」
「あーあったかもなー」
「そ、それで何と答えたんだ!?」
「いや、俺も好きだぜ! って」
天然に爽やかに返す中里の姿が目に浮かんで、涼介は見知らぬ相手に一瞬同情を覚えた。
ってまさか――!?
「な、中里……、俺の言葉に好きだって返してくれたのも、まさかおんなじ――……?」
恐る恐る涼介は問いかける。
「ば! ち……違えよっ」
中里は瞬時に真っ赤になってそっぽを向いて答えた。
涼介はほっと安堵の息を吐くと共にぎゅっと中里を抱きしめた。
中里といると本当に自分が自分じゃなくなる。感情のジェットコースターに振り回されて一喜一憂してしまう。カッコ悪くってダサダサだ。
それでも、全然予想がつかなくて気の休まる間もないのも、今なら余裕を持って受け止められる。こんな時間も幸せだと心から思える。なぜならもう中里の気持ちをびくびく想像しなくていいから――。
「そうか。中里、好きだぜ! いや、愛してる」
そうはっきり告げる。拒否されることを恐れて、相手に気付いてもらおうとばかりしていた日とはもう決別した。何気無くうやむやに、相手の弱みを利用して手元に置こうとか、世間から自分達の関係を隠そうとか、そんな打算はもはやない。社会からどう思われようとこの思いだけは変えられない。
「中里、お前が元の自分に戻ったら、俺たちのこと公表しような」
「な、何言ってやがるっ!」
中里は沸騰寸前まで顔を赤くして怒鳴った。
「んな恥ずかしいことすんじゃねー!!」
「お前が俺から逃げられないように」
冗談とも本気ともつかぬ顔で言う涼介に、中里はしっかり相手の目を見つめて答える。
「逃げねえよ。少しは俺も信用しろよ。お前のことが好きなのは、俺も一緒だから」
あの日最初見た時より少しおとなびた中里が目の前にいる。姿はまだ幼さの残る少年だけれど、その瞳は真摯で現実を見つめた大人の目だ。この先にある障害を知って、それでも逃げない強い意思が煌く。
中里の本気の告白に涼介は柄にもなく赤くなった。
息を詰め、漆黒の大きな瞳をじっと見つめる。まるで初めてキスをする少年のように緊張して、中里の顎に手を伸ばす。上向ければ相手は自然と目を閉じる。
ああ――――
歓喜に震える心を涼介は自覚した。
全てのきっかけは中里が子供に戻ったあの日から。己の気持ちを自覚して、追いかけて、擦れ違って,
壊しかけて、一度は諦め……そしてようやく手に入れた――。もう二度と放さない。吐息と共に唇を重
ねる。
愛してる――――……
君の望む未来を俺が守る。決して君の笑顔が曇らぬように。
永久に願う。俺の姿が君の瞳にあることを――――。
End