涼介×中里
二年後
「それではお大事に」 「高橋先生ありがとうございました」 午後の診察の最後の患者を診察室から見送って、俺は小さくため息をついた。 昨日は夜勤で本来なら仕事は午前中までのはずだったが、集団の急患が入って医者不足になり、まだ研修医の俺が一人で内科の午後の診察を担当することになった。特に難しい患者もなく無事に診察は終わり、担当医師に報告する簡単な書類をまとめる。 閉じられたブラインドの隙間から強い西日が漏れて、白い壁やステンレスやガラスの器具に反射している。 医療器具の電子音は一日中鳴り続けて既に意味なく感じられる。 あれから、もう二年近くが過ぎようとしていた。 プロジェクトDと銘打って、関東中の峠で、俺達は伝説的な記録を残した。 そのドライバーの藤原も啓介も、今はそれぞれの道にある。 学生時分に株で作った資金は潤沢で、今も資金的な援助は行っているが、もう彼らの走りに具体的なアドバイスをすることはなくなっている。 公道最速理論…。その完成にあれだけ夢中になっていた、そんな自分を今はあまり振り返ることがない。 赤城にも時折顔を出すくらいで、白いFCは家の駐車場におとなしく納まったままだ。 大学を卒業し、予定通り医師国家試験に合格し、今は臨床研修医として群大病院に勤務している。研修が終われば両親の望みのままに、高橋クリニックに医師として勤務する予定で、そのルートから自分が逸れることはないと分かっている。 …だが 「俺はやはり医者には向いていないんだろうな」 ロッカー室で白衣を脱ごうとして、何となくそれも億劫に感じられ、ハンガーにかけられたジャケットからタバコとライターだけを取り出して廊下へ出た。 診察時間帯はごった返している待合室も、今の時間、人気はまばらだ。 白衣を着ている間は、何となく自分が医療を行っている人間なのだという自覚が少しは持てる。 好きで進んだ道ではないと言っても、人間の身体内部の精緻な作りの神秘や、医学そのものの進歩、進化する医療器具や薬の知識への欲求など、自分の持っている知識欲を満足させるだけのものが、医学というカテゴリーには存在する。 自分の診療技術にも問題なく、患者からは感謝されているし、知識欲を満たしながら、時折は人の命も救えたりする。 多分自分の持つ能力から言って、医師という職業は適職なのだと判断できるだろう。 ただ、他人に触れることに嫌悪を感じる…あの感覚さえ克服すればいいのだ。 そう、医師としてこれは致命的かも知れないのだが、俺は他人の身体に触れることに根本的に嫌悪感を持っていた。 他人の健康に価値もあまり見いだせない。今救うこの命にどれだけの価値があるのか。それを疑いそうになって、俺はいつも自嘲する。 致命的だ。そしてこれは、一生逃げ出すことのできない道なのだ。 それが分かっていたから、俺はあのプロジェクトに全てを懸けていた。そしてそれが終わったと同時に、…自分の全てが終わったのだと…俺は理解した。 終えるために、始めて、そして終わらせて終わった。 今生きているこれは…では何なのだろう。 始めなければならないと俺の中の何かが警告する。分かっているのだそれは。 けれど、自分の中に空いた大きくて黒い何かに足を取られたまま、抜け出そうとももがこうともしない自分がいる。差し出された目の前のものに夢中になればいい。他人の身体はモルモットみたいなものだと納得してしまえば良い。 ああけれど、大学でもモルモットに触れるのは嫌な気分だった。唯一病理の授業だけは楽しかったから、医学に進むなら大学の研究室にこもって病理の研究に勤しんだ方が自分には向いていたかも知れない。 けれどそれでは両親の期待には応えられないのだから、選択肢には入れられなかった。 北側の廊下を進んで、喫煙所へと向かう。 タバコが無性に吸いたかった。 身体に良くない合理性を欠いた物だと分かっているが、最近本数が増えている。頭に絡まった何かが、その瞬間だけは解けて軽くなる感覚がするからだ。 東の外れにある、ひさしの下のベンチが、この病院の喫煙所だ。広い庭が一望できながら、適度に木立に囲まれて外からの視線を遮るベンチで一服するのが楽しみだった。 だが、いつもなら殆ど人がいないはずのこの時間、そこに一人だけ先客がいた。俺は舌打ちしたい気分を押さえて、一服するかどうか迷いながら、少し離れた所から、その先客が立ち去るのを待ってみようとし…。 「…? 中里…?」 思わず小さくこぼれたその名に反応して、喫煙所でタバコをふかしていた男が振り返る。 「高橋…涼介?」 振り返ったその男は、妙義ナイトキッズの中里毅だった。 次へ→ |
「高橋…お前ここで働いてたのか、そういやそんな噂聞いてたな。けどびっくりしたぜ、そんな格好してると、やっぱ医者っぽいな」 中里はその大きくて黒い目を素直な驚きでいっぱいにして、真っすぐに俺に向けてきた。 「久しぶりだな中里」 「ああ、そうだな、久しぶりってやつだ」 走り屋のチームのリーダー同士として、中里と会ったのは数回。 プロDの遠征にギャラリーに来ていた中里と会ったこともあったが、その後国家試験準備で多忙になってから、走り関係の全てから遠ざかったまま、中里とはそれ以来の再会だ。 友人という間柄でもライバルという関係でも無い。けれど、妙に印象に残っている男だ。啓介も反発しながら懐いていたし、俺自身、走り屋としての中里の姿勢に好印象を持っていた。 「でもよ、ここはお前んちの病院じゃねえだろ?」 大学病院にいる俺を、中里は不思議に思ったらしい。 「ああ、今は研修期間中なんだ。臨床研修医を経ないと医者にはなれないからな」 「そうか医者になるってのはやっぱ簡単じゃねえんだな」 「中里はどうしてここに? 午後の診療はもう終わってしまっただろう?」 「同僚が入院してて見舞いに来たんだけどよ、ちっと早かったみたいでな」 同僚…という言葉によくみれば、中里は一つボタンをあけたワイシャツにスラックス姿だ。 ネクタイはしていないが、仕事の途中…という格好だった。昔記録していたデータでは、ナイトキッズらしい荒ぽさを漂わせた見かけに寄らず、地方公務員なんていう固い職業で職場もこの近隣だったはずだ。自分が医大の六年生をしていた時、ほとんど歳が一緒の中里はもう社会人だった。 先に社会に出ていた中里に、素直な敬意を俺は持った。 「そうか、面会時間まであと30分ほどあるな。俺も一緒に一服しても良いか?」 何となくそう聞いてみると、ここは俺の貸し切りじゃないぜ、と目を丸くした中里が、軽く笑う。 その表情の変化に何の含みもなく、どこか胸がすくような心地がした。 まだタバコに火すらつけていないのに。 ベンチに腰掛けて、二人で並んでタバコをふかす。 外周の道路から流れる車の音と病院の庭木に棲む鳥の声…。 ああ…いま何かを思い出しかけた。 とても胸のすく、心地良い何か。 「そういや、弟はけっこう活躍してるみたいだな」 しばらく静寂を楽しんでから、中里は共通の知人の話題を振ってきた。 「啓介はプロのレーサーになりたがっていたからな。あれだけ目立てば、良いチームから声もかかる。技術も教え込んであるし、あとは実力を発揮できれば上に行くのは案外順調だ。あいつは才能があるからな」 その俺の言葉に、中里が小さく苦笑する 「藤原にしてもよ、あいつらとバトルできて、俺は良い経験させてもらったと今じゃ思ってるがな。けどいつかリベンジするつもりでいたから…正直勝ち逃げされた気分だぜ。まあ走ってるステージが違うんだから、素直に応援してるけどよ」 けど、と言葉を濁した中里が、吸い終わったタバコを灰皿でもみ消しながら低く呟いた言葉に、 俺は軽く衝撃を受けた。 「あいつらに、峠を忘れて欲しくねえよな」 やわらかく吹いた風が、中里の黒い髪を軽く払って俺へと抜けてゆく。 ああ…そうだ。 峠の風の匂いだ。 中里からずっとしていた。 夜の風の匂い。エキゾーストと、アスファルトを削るタイヤと…森の吐き出す息の匂い。夜の自由の時間。 明け方近くは走り屋すら眠りについて、誰もいない峠で俺は溜まっていたフラストレーションの全てを走りで解放していた。自由…自由をむさぼっていた。あの瞬間。 走ること以外の全てが意識から放り出されていた。ただそこに在る自分が全てだった。 「忘れない…だろう」 「そうか…まあそうだな忘れられるはずねえよな」 「忘れられないさ」 噛み締めるように、俺はそう呟いた。 次へ→ |
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