大村憲司からもらった東京ローズ」

■大村憲司プロフィール■

1949年5月5日生まれ 69年ヤマハのコンテストロック部門で優勝 
70年単身渡米 フィルモアのステージに立つ。オールマン・ブラザーズの
バンドコンテストを体験 72年 赤い鳥に参加 プロとしてデビュー23才
75年にサンタナと共演 村上ポンタ・小原礼・是方博邦らとバンド・カミーノを
結成 77年 ギターワークショップ 渡辺香津美・山岸潤史・森国勝敏らと
競演盤を発売 78年 初ソロアルバム「ファーストステップ」を発売
続いて「KENJI-SHOCK」をアルファから発売 この頃から六本木ピットインを
拠点にYMOのメンバーとセッションが連日行われ、
80年 YMOの国内ツアー/ワールドツアーにサポートギターリストとして同行。
YMO解散後も交流は続く 
83年 大江千里の初アルバム「wakuwaku」等プロデュース
アレンジャー、プロデューサーとしても活躍。
92年、6月、矢野顕子のアルバム「スーパーフォークソング」のコンサートに参加。
この頃、ケンポンセッション(大村憲司・村上ポンタ秀一・小林信吾(kb)

青木智仁(B)で活動を積極的に展開 (外人天国の解説参照)

98年11月18日4時 49歳で逝く

憲司さんがこの世を去って、7年という時間が過ぎました。
95年に厚生年金であった「七人の侍」というライブイベント。
ギターリストばかり7人でセッションするこのライブに行ったのが最後でした。
憲司さんが亡くなった後も、憲司さんが亡くなった事を実感できず、
また、大阪に来てくれるような気がしていました。

考えてみれば憲司さんのギターはいつも私に深い感動を与えてくれました。
ある夜、私は憲司さんが残した言葉や音にとても深い感謝の気持ちが込み上げてきて、憲司さんのこと
を静かに考えていました。
すると、飾ってあった憲司さんの写真が風もないのにすう〜っと絨毯に静かに落ちたのです。
私は憲司さんが「分かってるよ。ありがとう」とでも言ってくれた様に思い、心から震える気持ちになり涙がこぼれ落ちました。

そして、なんだか、憲司さんの事を書いておきたくなりました。

私が、憲司さんのライブに初めて行ったのは、92年の事です。
神戸チキンジョージで、”クラプトン完コピライブ”があったのです。
友達が、村上ポンタ秀一さんの大ファンだったので、
付き合いで行ったのが初めてでした。
それまで、どちらかと言うとロック系が好きだった私ですが、
大村憲司さんのギターを聞いた瞬間、雷が落ちたようなショック。
こんなギターを今まで聞いたことがない!
私は、ライブ中、ずっと大村憲司さんに釘づけになってしまいました。

それから、追っかけになりました(笑)
90年代は、憲司さんはよく神戸や大阪でセッションをしていたので、
かかさず行きました。
憲司さんを知っていくに連れ、ギターだけではなく、
憲司さんの生き方にも惹かれていきました。

憲司さんが98年11月18日に49才の若さで急逝した後、廃盤になっていた
「kenji shock」(78年に発売)が発売になり、そのCDの中に、
ギター・マガジン編集部/野口広之さんのコメントが載っていました。
「名手という言葉がこれほど相応しい人はいない。フェンダーとギブソンを
こよなく愛し、楽器を大切にした。腕時計や靴など身につけるものは
すべて一流品でなければ気がすまず、本物と偽物を厳然と区別し、
偽物を嫌った。気むずかしいところがある反面、ユーモアのセンスにも長け、
人を笑わせるのが大好きだった」

このコメントを読んで”なるほど・・”と思いました。
憲司さんのギターは、突き詰めたギターと言ったらいいんでしょうか。
妥協がないのです。いつも悩んでると言うか、楽しんでるんだけど、
繊細で、よく通る音で、ギターの音の中に大村憲司の全てがあるんです。
私はギターに詳しいわけでも何でもないのですが、心で感じるんです。
憲司さんは、まさに偽物と本物を厳然と区別していたと思います。
それは、物に対してだけではなく、人に対してもだと思います。
何気ない言葉の端々に出ていました。気むずかしいと言うより、
自分のやりたくない事をやる事は、憲司さんには堪え難い事だったように思います。
その生き方は、自分を通す一方、自分を追い詰めることになったのではないか・・・
ライブのアンコールでも、嫌だったら絶対出て来なかったし、
自分を偽れない人だったと思います。憲司さんは何より自分に嘘をつかない人です。
だからこそ、そんな憲司さんが弾くギターの音がいかに、綺麗だったか・・・・。

技術を超えるのは最後は心だと思うのです。
その人が何を目指してるのか...、それが全てのような気がしてくるのです。
あまりにも不器用で正直な大村憲司のギターは一点の曇りもないクリアな音でした。
私はこの音を生で聞けたのだから、本当に幸せです。
私がファンだった間は、こうしてみると短いです。
(でも、ファンは、永遠にファンか・・・。)
実際に憲司さんの生音を聞いた期間は、たった3年くらいです。
でも、一生に値する価値のある時間でした。

その中でも、憲司さんが弾いてくれた「東京ローズ」
この曲は、戦後の日本をイメージして作ったと言われていました。

東京ローズを初めて聞いた時、なんだか涙が出てきました。
この曲は、出だしからとても鮮烈で、物悲しくて、そして、繊細で美しい曲です。
戦後の色がセピアなら、そこに真っ赤なバラが落ちたような曲です。
私はこの曲が大好きでした。
この曲を憲司さんからもらっただけで、私は幸せです。
でも、出来ることなら、もう一度憲司さんのギターを聞きたい。
憲司さんが生まれ変わって、もう一度ギターリストになってくれたら、
私が生きてる間に聞けるかな・・・。
でも、憲司さんは日本という国をあまり好きでは無かったから、
よその国に生まれてくるのかな。でも、本当は日本が好きだった様にも思うなあ。
好きだったからこそ、このままではいけないと言う何かがあったのではないか・・

憲司さんがたとえ何処の誰に生まれ変わったとしても、きっとあのギターの音で、
見つける事が出来ると思います。

憲司さんが亡くなる2週間前に神戸チキンジョージで、ライブが
ありました。このライブが大村憲司の最後のライブでした。
私は、この日のライブに行けませんでした。
”また、次ぎに行こう”と思っていたのです。
今になるとすごく後悔しています。
どうして行かなかったのか・・・。また、あるだろう・・なんて、
どうして思ったんだろう・・・。
明日は誰にも分からない。二度と同じ時間はないんだと思います。

92年。憲司さんのファンにりなったばかりの頃もらったサインです。
外人天国(83年発売/92年CD化)

私は、憲司さんのギターに出会えたこと、ライブに行けたことを財産だと思っています。

もう一度聞ける日がくると信じてます・・・。でも・・いつでも私の心の中には大村憲司の音楽と笑顔があります。

05.12.6 kiku