《 仙洞院 》


 今は昔々、室町時代の文明17年(1485)今から約500年ほど前のこと、年老いた山伏の姿の修行者が金剛杖をついてとぼとぼとこの公門山の峠道を登っていました。
山越えをして蒲野の文珠堂に籠もり、天下泰平の祈祷をするため、はるばる伊予灘を櫓船で渡り、四国の石槌山から来たのでした。
 身なりはぼろぼろの法衣をまとい、白髪は肩までのびるまで千人の姿でした。きっときびしい修行をされたのでしょう。徳の高い行者と、すぐれた人格の輝きをやさしい慈愛にみちた大きなギョロッとした目の中に感じられました。
 胸に下げた頭蛇袋の中にあるお布施に頂いたテンと、今、目の前に見えるこの段々畑に黄色く実っている粟の一穂を一緒に谷水で混ぜて食べると、長旅の空腹がいやされて元気に峠を踏み越えることができる、ここで餓え死ぬと神仏のご加護を島の人々へお伝えすることができなくなるそう思い老修行者は懺法(すまない申し訳ない)を唱えながら、手を伸ばし粟の一穂をつかんでちぎり取りました。と、その時、
「だれじゃ、わしの畑の粟を盗むやつは」と大声で百姓が畑の中から飛び出てきてこのことを公門所のお役人に告げました。
役人はただちに老修行者を荒縄でくくり、審議もしないまんま村人の前でみせしめのために梟首(打ち首をさらす)の罪となりました。
 役人は、この世の名残りに何か言い残すことはないかとたずねました。老修行者はもうしました。
「わたしは仙洞院と申す修行者でございます。このたびは、お百姓さまの尊い汗の結晶であります粟の一穂を盗んで申し訳ございませんでした。この粟一穂を盗んだお詫びのしるしに、そうです、一穂、一っ、一っの願いごとを、わたしが死んだら霊神となって必ずかなえてあげましょう。」 と、つぶやきながら約束して、首を切られました。 村人は、この尊厳な姿を涙をながしながら、かたずをのんで見守りました。やがて、遺体を頂きこの公門山に埋め、自然石へ文明十七年仙洞院と刻み、ねんごろに弔いました。
 不思議なことに「一つの願いごと」を申しておがめば、霊験あらたかで、必ず御利益があるという評判が、天下広く言い伝えられました。
 注縄を張り鳥居を飾り榊・しきびを捧げ線香・ろうそくを焚いて、神仏混合のお祈りを唱えて詣でる祈願の信者善男善女が、郡内や本土の国々から参拝者のあとがたちません。
<仙洞院の中の様子> <仙洞院と刻まれた石がお祀りされています>
橋を右、車で15分

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