ネアンデルタールの謎
硯塚犀角
第一章 少年時代
そよ風が梢を渡り、新緑の葉が枝に触れると微かに声を立てる。
樺の木の横では、オニクルミの葉が一塊となって笑っている。す
ぐ近くには、ささくれた木肌に黒い筋を血管の様に這わす一本の
大木がある。それは俊仁が未だ小学生の頃に大きなカブトムシを
取ったクヌギである。そこを抜けて急な斜面を下ると、今度は刺
々しいタラの枝が、一面空に向かって伸びる平地になっている。
水色のトレーナーには不似合いな厚手の軍手をはめた俊仁が、細
い木を見つけて折り曲げるように幹を倒していくと、タラの木は
弓状となって悲鳴を揚げる。だが決して折れたりはしない。兄の
俊徳は手を目一杯に伸ばし、小枝の先から開きかけた若芽の爪を
器用に摘み取っていく。
「もういいよ」
兄の声で俊仁が手を離すと、今度はビューンと風を切って、タ
ラの木が青空に向かって走る。雲一つない快晴。常念岳の裾野が
蝶ヶ岳に向かって、なだらかな稜線を描く。アケビの蔓が、タラ
の木から解けて俊仁の足元に絡みつくが、俊仁は再び足を抜くよ
うにして歩き始めた。昨年の秋に朽ちた枯葉は雪解けの後に乾い
て、まだ湿った黒土を保護しながら足に適度な弾力を作り出して
心地良い。
「カサ、カサ、カサ」
優しい足音が、斜面にコダマしながら体をすり抜けて行く。タ
ラの棘に注意しながら緩やかな斜面を更に下ると、「ザー」と谷
から湧き上がるせせらぎが、体に沁み込んでくる。「カサ、カサ」
が「ザー」という音にかき消されて、やがて頭の中に音のない世
界が生まれると、敏仁は自分の存在が森と一体となり、そのうち
に解けて消えていく様な不安に駆られてしまう。だが、目の前に
は兄がいる。敏仁は、兄を信頼し尊敬している。
俊徳は次の木を物色しながら、ゆっくりと歩いている。大学生
になったばかりの俊仁は、五歳年上の兄である俊徳を慕っている。
俊徳は東京の大学に進学し、しばらく親元を離れていたが、地元
企業への就職を希望し、四月から
場に設計技術者として勤務している。
二人は久々に山歩きを楽しみながら、タラの芽の発する灰汁っ
ぽい匂いを満喫していた。幼い頃から山や川を自分等の庭にして
きた二人にとって、山菜取りはお手の物だった。二人は都会から
来る質の悪い輩の様に木の枝を折ったり、ましてや木を切ったり
など決してしない。谷底に向かってタラの木が群生しているが、
急な斜面が続いている。一歩前に出ると烏川は一層と大きなせせ
らぎの音を発して、二人の行く手を阻んだ。タラの芽取りは、そ
こまでだった。
「ザー、ザー」
地の底から湧き上がるように轟く音。遥か向こうの蝶ヶ岳の雪
解けが、渓流を渡って水しぶきを切り、辺りに神聖な空気を生み
出していた。敏仁は、さっきから背筋に冷たいものを感じている。
「早く山から帰りなさい」
俊仁は遠くの方で山の神の声を聞いたような気がした。山の恵
みは十分だった。六月にはゼンマイとワラビの季節がやってきて、
秋にはキノコが待っている。
「ずいぶんと取れたろう」
兄の持つビニール袋には、ちょうど食べ頃大のタラの芽ばかり
が、ぎっしりと詰まっている。俊徳が袋を軽くかざして満足そう
に笑う。ちょうど親指くらいの芽は、先にある紫を帯びた茶褐色
の爪が二つに割れて、中から柔らかな黄緑色の葉が顔を出してい
る。親想いで仲の良い二人は、今日は母親に頼まれてタラの芽を
取っていた。山を降りれば、安曇野の別荘地帯が広がり、そこに
は俊仁たちの住む家がる。
「これだけあれば、春奈さんの家にも分けてあげられるね」
春奈さんは俊徳の恋人であり、
師をしている。二人は示し合わせたように郷里の安曇野に戻って
きたのだ。二人は既に崖の縁まで来ていた。前回も、その前に来
たときも、今二人の立つ場所がターニングポイントだった。もう
数えるほどしか木は残っていない。
「じゃ、あの木で終わりにしよう」
谷底から「ダー」という激しく流れる水の音が湧き上がる。そ
のタラの木がしっかりと根を下ろす斜面は残骸絶壁へと続いてい
る。二人には、どんな斜面でもタラの木に摑まってさえいれば安
全なのは分かっている。タラの木は細いが、決して折れたりしな
い。ましてや根が深く、抜けることなどありえないのだ。それで
も近くから湧き上がる「ダー」という音を耳にして、俊仁は改め
て兄に尋ねた。
「危なくない?」
「大丈夫だよ、任しとけって」
太めの幹から三本の枝が伸び、ちょうど食べ頃のタラの芽が僅
かに開いている。敏仁がその少し太めの木を折り曲げていくと、
身軽な俊徳は、厚手の軍手でタラの木に摑まると、体操選手のよ
うな格好でゆっくりと斜面を渡っていく。右手で木に摑まって体
を固定すると、一瞬兄が大地に根を生やしたように見える。俊徳
は左手で造作も無くタラの芽を摘み取ると、次の芽を取ろうとし
てタラの幹に手を掛けた。
「バキッ」
突然、なぜかタラの木が折れた。俊徳の軍手がタラの枝を掴ん
だまま地面をすべる。俊徳は尻餅をついたまま、カサカサと乾い
た斜面を滑り落ちて行く。俊徳の体はすぐに見えなくなった。
「わー」
兄の叫ぶ声が脳裏でコダマする。だが、「ダー」という谷間か
ら湧き上がる音が、兄の声を掻き消していた。しばらくの間、俊
仁は目の前で起きた一瞬の出来事を頭では理解できなかった。し
かし兄の身に重大な事が起きてしまったのを体が感じ、ブルブル
と足が震え出している。
「兄さん、兄さん」
俊仁の絶叫が山間でコダマした。