間接キス
きょろきょろと、物珍しげに由が店内を一周している間、秋良は一歩も動かずに、それを吟味していた。
そこは、商店街の一角にある、薬局だった。
帰りに買い物に寄った、椿と秋良に連れられて、由は生まれて初めて、薬局に入った。
「思ったより、薬くさくないんだね、黒狐」
店内だからか、本物の襟巻のように大人しく由の肩に巻きついていた黒狐は、鼻をぴくぴくさせながら答えた。
「まあな、どれもちゃんと包装されてっからよ。入った途端に臭かったら、ダッシュで逃げるぞ、おれは」
「はは、だよね……。椿は、何か、買うの?」
「あー、そうだな。ノドアメ買ってくか。親父が、喉が乾燥するとか何とか言ってた気がするし」
「アメ? えーと……、あっ、こっちにあるよ、椿。色々あるよー。どれにするの?」
「灯奈もなめるかもしれないし、フルーツ味にするか……」
と、そんな風に、由と椿が賑やかに会話しながら、ノドアメを選んでいる間も、秋良は同じ場所から、ぴくりともしなかった。
レジを済ませた椿が、振り返って、由に尋ねる。
「……で、あっきーは?」
「秋良なら、まだ同じとこにいるよ」
「まだなのか……」
椿が、呆れたように言うのも、無理はなかった。
この店に入ってからずっと、秋良がいる場所。
もうかれこれ、少なくとも15分近くは、吟味を続けているのだ。
「マスクなんて、どれも同じだろうに……」
「だよねえ?」
椿と由が、顔を見合わせて言うのに気づいたのか、秋良は顔をあげて、反論した。
「何を言う……! 形状、性能、たかがマスクといえども、決して侮れないんだぞ!」
キッと、眼光鋭く睨みつけられ、由は秋良のもとに近づいて、しげしげと、たくさん並んだマスクを眺めた。
確かに、よく見ると、それぞれ形が、ちょっとずつ、違っているような気がする。
「特にオレは、一日中マスクが手放せないからな……忌々しい、花粉のおかげで!」
この世の憎しみをすべてぶつけているかのような顔で、秋良が低く呟く。
山にある神社育ちの由だったが、普段、花粉を意識して暮らすことはなかったので、そんなもんなんだ……、と秋良の剣幕を見て、思った。
「くそう、狐面め……。思いっきり他人事のような顔しやがって」
「だって、他人事だもん」
あっさりと返すと、秋良はますます悔しそうな顔をした。
(そんなこと言われたって、わかんないものは、わからないからなあ……)
ちょっと困ったように由は首をかしげて、それから、そうだ、と思いついた。
秋良の顔に手を伸ばすと、さっと、指にひっかけるようにして、それを取った。
「あ、こら、狐面……! 何をする!?」
慌てて取り返そうとした秋良から、半歩下がってひらりと避けて、由は、手にしたそれ――マスクを、自分の顔に、つけた。
これで、秋良の思ってることが、ちょっとはわかるかな? と、思ったのだ。
が……。
「なんか、息が、くるしい……」
鼻まですっぽりと覆われれば、何だか空気が薄くなったように感じた。
「何やってるんだよ、お前……」
いつの間にか近くに来ていた椿が、思いっきり呆れた目を向けてくるのに対し、秋良は何故か嬉々として言った。
「どうだ、狐面! お前にもマスクの苦しみがわかっただろう!?」
「わかって、どうすんだよ、あっきー」
椿の突っ込みも、秋良の耳には入っていないようだ。
由は、マスクを顔からずりさげると、ぷはっと息をこぼした。
「うん、マスクって、確かに、ちょっと、大変だね。それに……」
息を吸い込んでから、マスクを元に戻して、由は続けた。
「秋良の、匂いがするね……コレ」
何気なく付けたされた由の言葉に返ってきたのは、ふたり分の沈黙だった。
「……………」
「……………」
何故か目を反らす秋良に、微妙そうな顔をする椿。
肩の上でとぐろを巻いている黒狐も、沈黙している。
「あれ? どしたの、ふたりとも」
由は、不思議そうに、首をかしげた。
それには答えずに、椿は、秋良の方に顔を向けて、ぼそりと呟いた。
「…………間接キス」
「…………!!」
「とか、思わなかった、今? なあ、あっきー」
「思ってない! 思ってないぞ、椿!!」
「全力で否定すると、返ってあやしいから、あっきー」
「………っ!」
マスクの代わりに、片手で口を覆って、秋良は黙り込んだ。
椿は、気のせいか、人の悪そうな笑みを浮かべている。
何だか、楽しそうだ。
そんな彼らの様子を、きょとんとした顔で見ていた由は、マスクを口からずらすと、にこっと笑って、さらっと言った。
「何言ってんの、椿。オレ、キスするんだったら、間接じゃなくて、直接する方が好きだよ。ねえ、秋良?」
「…………!」
言葉にならない叫びが、秋良の口から漏れたが、もちろん聞こえない。
椿は、それを見て、思わず、ぷっと吹き出した。
「凄いこと言うな、お前。でもま、確かにそうか」
「そうだよー。椿だって、そうでしょ?」
「……まあ、な」
「おれ、もう嫌だー! こんな会話っ!!」
椿と由の会話に、由の肩の上にいた黒狐が、沈黙を破って天井を見上げた。
その声に、固まっていた秋良が、売り場に並んだマスクのひとつを引っ掴むと、レジへとずんずん歩いて行った。
「秋良? マスク、どれ買うか、決めたの?」
会計をしている秋良の元へ近づいて、由は、今まさにビニール袋に入れられているマスクを、ちらりと眺めた。
「あれ? これ、いつもとおんなじヤツだ」
「……いつものが、一番いいんだ」
「だったら、迷わず最初から、それにしたらいいのに」
「他のも吟味したからこそ、最終的に、いつものがいいという結論が出るんだ!」
「ふーん……」
(何だかよくわかんないけど、秋良なりのこだわりがあるのかな……?)
そう思って、納得したところで、由は、まだ自分が、秋良のマスクをつけたままだったことを思い出した。
ありがとうございましたー、という店員の声を背に、ぞろぞろと店を出た後で、由はマスクを外した。
「はい、コレ。マスク。返すね?」
秋良に、マスクを差し出す。
が、秋良はじろりと睨んだだけで、受け取らなかった。
「………いらん。新しいのをつけるから、それはもう捨てておけ」
そう言って、今買ったばかりのマスクを取り出して、秋良はもとのように顔に付けた。
由は、不満げに声を漏らした。
「えー。なんで? あ……、もしかして、気にしてる?」
「………!」
「オレ、気にしてないよ? 秋良と間接キスでも」
「……っ! いいからっ、それは、捨てろ!!」
えー、でもー、としばらく押し問答が続き、結局マスクを返せなかった由は、仕方なく、再び、自分の顔にマスクをつけた。
「何故、そこで、マスクをつける、狐面……」
「だって、もったいないでしょ。それに、ほら、お揃いだよー」
「……………」
マスクを指して、にこっと笑われて、秋良は再び黙り込む。
「まあ、いいんじゃねえの、あっきー」
「……由は、少しは気にした方がいいと思うけどな、おれは………」
椿が心底どうでも良さそうに、黒狐がどこか疲れたように呟く。
秋良の耳が、ほんのわずかに、赤くなっていることには、誰も気づかなかった。
終。
おまけ。