夏思う5題
01 ビニール袋の中の金魚
学生向け2階建1Kアパート203号室は、窓を全開にしてもうだるように暑い。
夏の日差しをこれでもかと浴びて焼けた屋根の熱が、全く冷めずに部屋を温め続けているからだ。
部屋の備品であるクーラーは、3日前に壊れて使えない。
わずかに吹いていた風も、さっきからぴたりと止まっていた。
窓だけじゃなく、いっそドアも開け放ってしまうのはどうだろう。
空気の通りがよくなって、部屋の中によどんでいる熱も一緒に流れていって、少しは涼しくなるかもしれない。
こんなクソ暑い中、こんなボロアパートに勧誘も泥棒もやってこないだろう。
夏樹は床を這うように玄関まで進んで行って、建てつけの悪いドアを開けた。
だが、予想に反してそこは無人ではなかった。
「わっ……!」
ドアすれすれの位置に立っていた人物が、ぶつかる寸前にさっと身をかわした。
今まさにチャイムを押そうとしていたらしく、右手が中途半端にあがったままだ。
「なんだ、道秋か。びっくりした」
「……それ、こっちの台詞。夏樹くん、今からどっか行くの?」
あやうくドアにぶつかりそうになったのは、久しぶりに顔を見る、地元に暮らす夏樹の3歳年下の幼なじみだった。
「いや。ドア、開けっぱにしたら、ちったあ涼しいかなって思っただけ」
「不用心だな。危ないよ」
ちょっと見ない間にまた背が伸びた幼なじみは眉をひそめると、夏樹の横をすり抜けドアを閉めて施錠した。
おまけに普段使ってないドアチェーンまでかけてから、お邪魔しますとことわって部屋に上がった。
そこまでしなくていいんだけど……と言う呟きに返事はなく、まあいいかと夏樹も部屋に戻る。
「暑いね。冷房入れないの?」
「壊れてんだよ。大家に頼んでっけど、修理に来るの来週だって」
「だったら、帰ってくればいいのに。実家。その間だけでも」
開いた窓の中途半端に低い格子に手をかけ、おもてを眺めながら道秋が尋ねる。
その口調は普段と変わらない。なのに言い訳するように夏樹は口を濁らせた。
「あー、それは、まあ……バイトとか、あるし」
それは嘘ではないが、本当でもない。
ゼミの教授の事務手伝いのバイトをしているが、大学が夏季休暇中の今は数日間程出てくれればいいと言われている。
つまりほとんど休みだ。代わりのバイトを入れようとは思っているが、まだ決めていない。
「そっか。夏樹くん大学生だし……色々、あるよね」
「まあな。とりあえず、その辺座れば。飲み物くらい出してやるよ。麦茶くらいしかねーけど」
クーラーと同じく備え付けの小さな冷蔵庫を開けると、ひんやりとした冷気が顔に振れた。
このまま開けっぱなしにしたい誘惑をぐっと堪えて、麦茶ポットを取り出し冷蔵庫を閉めた。
道秋の分をマグカップに注ぎ、ついでに自分の分もコップに注いで持って行く。
「悪いがこのウチには客用のこじゃれたグラスなんてねーから」
言われる前に自己申告して、まだ窓辺に立ったままの幼なじみに渡す。
「ありがと」
道秋は口の端を緩めて、嬉しそうな顔を見せた。
よっぽど喉が渇いていたのだろう。汗をかいたマグカップを受け取ると、すぐにごくごくと飲みはじめた。
喉仏が上下する様子がやけにくっきりと見えて、何となく目を逸らした。
もう高校生なんだよな……と、当たり前のことを今さらのよう思って、何故か胸がざわついた。
「……で? 何しに来たの、お前」
夏樹は冷えた麦茶を一気に飲むと、ベッドを背もたれに床の上に座って尋ねた。
連絡なしに勝手に来るなよとは思わないが、道秋の暮らす場所(夏樹の実家がある地域)からここまでは、一応同じ県内とはいえかなり距離がある。ほとんど端と端だ。ちょっと何かのついでに、という場所ではない。
環境の良さを第一に考えて建てられたようなこの大学の周りには、現役高校生を引きつけるようなものは――残念ながらそれは現役大学生にとっても同じだが――何もない。
「様子見に来た。連絡ないし。干からびてるんじゃないかと思って」
ご馳走様とマグカップを部屋の隅のテーブルに置いて、道秋はちょっと迷ったように部屋を眺めてから夏樹の隣に座った。
身長はすでに抜かれてるのに、座高はそれほど変わらないのがちょっと癪に障る。
だからって、隣に座るなよ、なんておとなげないことは言わないが。
「コンクリの上のミミズじゃねーぞ、おれは」
「でも熱中症って、室内でもなるって言うだろ。この室温、軽くヤバイ」
「それは否定しない」
まだ少しだけ冷たいコップに顔をくっつけて、束の間の涼を楽しみながら夏樹は苦笑した。
春にこのアパートを決めた時は日当たり良好な好物件だと思ったが、まさか夏場にこんなに暑くなる部屋だとは思わなかった。
前の住人にも酷使されただろうクーラーが壊れるのも無理はない。
「ここまで暑さに喘ぐはめにはるなんて、ちょっと予想外過ぎた……」
「だったら、いいタイミングだったかな。差し入れ持って来たんだよ。夏樹くんのおばちゃんに頼まれて」
道秋は斜めがけのバッグから、見覚えのある平たい箱を取り出した。
毎年夏になると父親の故郷から送られてくる、そうめんだった。氷を浮かべた冷たいそうめんは、この季節、夏樹の家の定番メニューだ。
「うわー、サンキュー道秋! なんか足りねえなーと思ってたら、今年まだそうめん食ってなかった。あ。でも、麺つゆねーや」
「うん。たぶんないだろうからって、一緒に託された」
バッグから見慣れた麺つゆの瓶も出てくる。400ml、濃縮2倍。夏樹の実家でいつも使ってるものだ。
おそらくストックしてる瓶をそのまま渡されたんだろう。
「わ、悪いな……。麺つゆくらいその辺で買ってくるのに。いや、それ言うならそうめんもだけど。重かっただろ?」
「気にしなくていいって。ついでだし」
「ついで……?」
コンクリートの上のミミズになってないか確認する以外にも、何か用があったのだろうか。
幼なじみは、バックの中から更に何かを取り出した。
「こっちが本命。俺からの差し入れ、今日はこれを渡したくて来たんだ」
夏樹に向かって差し出されたのは、ビニール袋に入った2匹の金魚だった。
ただし見ればすぐにわかるが、本物ではなくおもちゃだ。
「何故………」
受け取った夏樹は首をかしげた。
きっちり口は閉まっているが、ビニール袋にはご丁寧に水まで入れられている。
どんな風にバッグの中に詰め込んでいたのか知らないが、よく水がこぼれなかったものだ。
実物にはありえない透き通ったオレンジ色と水色が涼しげな金魚が、ビニールの中でぷかぷか浮いている。
「本物の金魚は、世話が大変かなと。水槽とかいるし」
「そっちじゃなくて。なんで縁日の金魚が差し入れなんだよ」
「だって、夏樹くん。稲荷神社の縁日に帰ってこなかっただろ。毎年一緒に行ってたのに」
責めるような目で見られ、夏樹はうっと詰まった。
たしかに、約束はしてないが、毎年夏にそうめんが送られてくるのと同様に、幼なじみと縁日に行くのも夏の恒例行事だった。
決して、忘れていたわけではない。忘れていたわけではないのだが……。
「その……なんだ。道秋もほら、そろそろおれ以外に、縁日を回りたい相手がいるんじゃないかなー、と………」
「なにそれ。俺、そんなこと夏樹くんに言った?」
道秋はますます不機嫌な顔で夏樹を見る。
おかしい。何故こんなに幼なじみは怒っているのだろうか。
夏樹としては、さり気なく気を利かせてやったつもりだった。
こう言うことは、小さい時から知っている幼なじみにはかえって言いづらいんじゃないかと思って。
「言ってないけど……。お前、五月の連休ん時、すげー可愛い子と駅ビルにいただろ。ちっこくて、髪がこう、ふわっとした感じの……」
アパートに持っていってなかった夏物の服を取りに行くために、五月の連休に一日だけ実家に帰った。
その時、駅で道秋を見かけた。彼は一人ではなかった。
小柄な女の子と並んで、何かを話しながらつれだって歩く姿は、とても親密そうに見えた。
思わず隠れるようにその場を離れた夏樹は、急いで実家に帰って目的の服をバッグに詰めると、泊って行かないのと言う母親の言葉を背にその日のうちにアパートに戻ったのだ。
「五月の連休……? ああ、沢井さんのこと? 見かけてたなら、声かけてくれたらよかったのに。あれはね、委員会の備品買い出し荷物持ち要員として動員されただけ。それ以上でも以下でもないから」
道秋はきっぱりと言い切った。
どうやら照れてごまかしているのではないらしい。
「なんだ、そうだったのか。おれ、てっきり………」
「彼女だと思った?」
思った。思わない方がどうかしてる。
本人には絶対言わないが、幼なじみのひいき目をぬきにしても、道秋は結構かっこいい。
それにもう高校生だ。むしろ、今までその手の話を聞かなかった方が不自然だったのだ。
これまでにそう言う話を全く聞かなかったのは、単に夏樹に話してないだけだったのかもしれない。
もしかしたら、女っ気のない夏樹に気を遣って、話題にするのを避けていたという線もありえる。
だったらここはひとつ、年上の夏樹が配慮を見せるべきだろう。
気安い幼なじみ同士の恒例行事を、ずっといつまでも続けていくわけにもいかない。
すぐ帰って来られる距離とはいえ、お互い住む場所も離れたのだ。
このままあまり連絡を取らないようにすれば、やがてすこしずつ疎遠になって行くだろう。
さみしいけど――――しかたない。そう思って、夏休みに入っても帰省しなかったのだ。
帰ったらきっと、道秋を誘いにいってしまいそうだったから。
「なんだよ。違うのかよ………」
一気に気が抜けた。
本当は夏樹の顔を見た時から、聞きたくてたまらなかった。あの女の子のこと、好きなのかって。
「うん。違うよ。安心した? 夏樹くん」
「なっ、なんでおれが安心しなきゃいけないんだよ!?」
「俺はほっとしたけど。夏樹くんに彼女がいなくて」
にこっと笑って、道秋がにじり寄ってくる。
「勝手に断言するな」
詰められた分、離れようとしたが、そうめんと麺つゆに阻まれて動けない。
おまけに、右手はコップ、左手におもちゃの金魚が浮かぶビニール袋でふさがれている。
―――どちらも床に置けばいいのだ、と言うことは後になって気づいた。
「彼女がいたら、さすがにコップがひとつってことはないよね」
「う……」
おっしゃるとおりです。
と、素直に認めるのはいくらモテない身の上とは言えあまりに悔しい。
「でもよかった。電話してもメールしてもずっと反応悪いしさ。俺、何かしたかなって……。夏樹くんの大学に押しかけようかって何度も思ってたんだよ。けど昔それやって、すっごい怒られたから。我慢してた」
もう10年以上も前になるが、道秋は保育園を脱走して、夏樹の通う小学校までやって来たことがあった。
自分も夏樹と同じ学校に行くと主張して。
当然それはちょっとした騒動になって、二度としてはいけないときつく言い含められた。
道秋はその時大人に叱られたことよりも、夏樹に怒られたことのほうが印象に残ったらしい。
「なのに、大学が夏休みになっても帰ってこないだろ。縁日はスルーされるし。言わなくてもこの日は夏樹くん帰ってくるって思ってたのにさ。しかたないから、ひとりでヤキソバ食って、たこ焼き食って、イカ焼き食って、ベビーカステラ食って、ラムネ飲んできた」
「よく食うな……」
そりゃデカくもなるよな、と責められていることも忘れて夏樹は感心した。
食べた分全部が身長に回っているんじゃないだろうか。
「他人事みたいに言うなよ。俺、今日、ここ来るまで、すっごい勇気いったんだよ。チャイム押して夏樹くんの彼女が出てきたらどうしようって。でも前もって確認するなんて絶対嫌だったし。この金魚に願掛けるような思いで来たんだ」
ビニール袋の中の金魚が、ちゃぷんと揺れる。
実は生きているから……じゃなくて、腕をつかまれたからだ。
「それは……見当違いの誤解をどうもありがとう」
「本当に、誤解でいいんだよね? 今から彼女の部屋に遊びに行くつもりだったとか言わないよね」
「言わねーよ。つか、何度も確認するな。悲しくなるだろ……」
彼女ではなかったとはいえ、実際に女の子と一緒に出かけていた道秋とは違い、夏樹の方は女の子とつれだって歩いた記憶さえ頑張って思い出さないとみつからないくらいだと言うのに。
夏樹が思わず遠い目をしていたら、幼なじみはつかんだ腕を引き寄せてきた。
「俺は嬉しい。夏樹くんが、俺の知らない誰かのものになってなくて」
見たこともないような真剣な顔で言われて、夏樹は息を飲んだ。
ただでさえ暑い部屋の温度が、何度か上がった気さえする。
つかまれた腕も熱くて。このままじゃビニール袋の中の水が湯になりそうだ。
「放せ……! き、金魚が煮えるだろうがっ!!」
自分でもおかしなことを言っていると自覚しながら道秋の手を振りほどくと、夏樹は歩いて数歩の台所に駆け込んだ。
コップとビニール袋を流しに置いてから、洗いかごに立てかけていたラーメンどんぶりをひっつかんで、蛇口をひねった。
しっかり縛ってあったビニールの口をほどいて、中の水ごと、どんぶりの中にあける。
ビニール袋よりいくらか広くなった水面に、2匹の金魚が涼しげに浮かんだ。
「煮えてなかった?」
くすくす笑いながら、道秋が後ろからのぞきこんでくる。
夏樹は澄まして答えた。
「……まあな」
手にかかった水しぶきをシャツの裾でさり気なく拭いてごまかす。
「けど、困ったな。このどんぶりも一個しかねえんだよ。ラーメン食えねえ」
「だったら今度来るとき、金魚鉢持ってくるよ。それまでは、そうめんがあるからいいよね」
「しょうがねえな……」
急に上がった熱も、ぷかぷか揺れている金魚を見ている内に少しずつ下がっていく。
並んでおもちゃの金魚を眺める道秋は、もう夏樹のよく知る幼なじみだった。
夏樹はほっとして、水の中に指を浸す。
今頃のように、窓の外から風が吹き抜けてきた。
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