051: 譲れないもの



 細く、白い光が差し込んできたかと思うと、かすかに耳障りな音を立てて、牢の扉が開いた。
 暗さになじんだ目には、外からの光はまぶしすぎて、そこにいるのが誰なのか、わからなかった。
 カチャリ、と言う音と共に外されたのは、左手に重く繋がれていた、鎖。

「赤いな……。痕が、残らなければよいが」

 心配そうにかけられた声は、もう、二度と聞くことはできないと思っていた、声だった―――。


「どうした。どこか具合が悪いのか?……いや、すまん。具合がいいわけないな。このふた月の間、ずっと牢に閉じ込められていたのだから」

 牢から出た俺は、彼から少し離れた場所で、爽やかな風に、足元のやわらかい土の感触――牢の冷たい床とは違う――に戸惑っていた。
 風が、ほのかに甘い香りがするのは、どこかで花が咲いているからだろうか。
 季節は、いつのまにか、もうすっかり春になっていた。
 そうだ、アレは、冬の終わりに起きた事だった。
 床から、身体を凍らせるような冷気が這い上がってくる薄暗い牢では、季節の移り変わりなど、知りようもなかったが、確かに、その冷たさも幾分か和らいできていたような、気はしていた。
 それが春の訪れを告げるものだという、思いに至らなかっただけで。

「……いいえ。丈夫なだけが、俺の取り柄、ですから」

 声が、かすれる。
 まだ、どこか、信じられずにいた。

「ふふ……。そんなことは、ないだろう。他の者が聞いたら、嫌味だと思われるぞ?……まあ、思ったより、元気なようで、安心した」

 明るく、快活な笑顔は、ふた月前と、変わりなかった。
 まるで、牢にいたことが、幻であったかのような……。

「俺は、どうして………」

 だが、幻ではない証拠に、鎖につながれていた、左手首には、昼の光の中ではっきりと見て取れる、赤いあざがあった。
 すでに麻痺していて、痛みは感じない。
 そっと、右手で、左手首をさする。
 赤い色は、消えなかった。

「どうして牢から出られたのか、か?それとも、何故私が、お前を牢から連れ出したのか、か?」
「両方です」

 理由を、知りたかった。
 俺は、彼に誰よりも近しく使える、従者だ。
 いや、だった、と言った方がいいのか。
 ふた月前、彼は、謀反を起こした。
 たった一人の、兄君に。
 領主である父君が、病に倒れ、臥せったすぐ後のことだった。
 この国では、長子が後を継ぐのが一般的だ。
 そして、第二子以下は、いずれ城を出て行く。
 彼らが異母兄弟で、いくら弟君の方が生母の身分が高いからと言って、それは覆されない。
 年の離れた彼ら兄弟は、母が違っても仲がよく、兄が領主となりこの地を治めることは、何の問題もない―――はず、だった。
 少しずつ、歯車が狂っていったのは、彼らのせいというよりも、彼らを取り巻く周囲の思惑のせい、だったのだろう。
 俺は誰よりも強く、彼をお諌めしなければならない、立場だった。
 それなのに、何もしなかった。
 彼の心が、どこにあるのか、知っていたのに、何も言わなかった。
 俺は、知っていた。
 彼が、心から兄を敬愛していて、自らが領主の地位に就きたいなどと欠片も思っていない、ということを。

『声が聞こえるんだ。もう顔も覚えていないと言うのに。母の願いを叶えておくれ、と私の腕をつかんで、言われたあの声が―――』

 逃れられない、と息苦しそうに告げられたあのとき、どうして俺は、何も言えなかったのだろうか。
 何も―――。

「両方、か。そうだな。兄上は、私の口から伝えろ、とおっしゃっていたから、お前は何も、知らないのだよな」

 梢が、さわさわと風に揺れる音が聞こえる。
 牢は城から少し離れた、裏手の森の入り口にある。
 彼は、目を細め、蔦の這う城を見上げて、つぶやいた。

「私の愚かしい行為が発覚した後、私は自室に蟄居させられた。それは、兄上から聞いているな?」
「はい」
「それで、いつまでもそのまま、というわけにもいかないので、兄上は私の処遇をお決めになった。領の北のはずれ、ほとんど隣の領に接する森に、大叔父の屋敷がある。若いころから隠居している、変わり者の大叔父だそうだ。会ったことはない。そこへ、行くことになった。……お前と、共に」
「島流し、一歩手前、ですか……」
「そんなところだ。これでも、ずいぶんと甘い処罰だと、兄は家臣たちから責められたそうだがな」
「俺が、一緒なのは、どうしてですか」
「ああ、そうだった。これでは、私の行く末を説明しただけで、お前が牢から出られた理由にはなっていなかったな。どう、言えばいいのかな……。どうしようもない弟への、兄上からの餞別、と言ったところか?」
「……さっぱり、わかりません」
「そうか、わからないか」

 くすくすと、楽しそうに笑われて、俺はますます困惑する。
 それがわかったのだろう。
 彼は笑いをひっこめると、すまない、と告げた後、詳しい顛末を話し始めた。

「大叔父の屋敷へ行け、と兄上に言われた後……こう、付け加えられたのだよ」
「何と……?」
「お前は、この城を追われる身。ここでお前が持っていたものは、何もかも、置いていかなければならない。だが、それではあまりにも不憫だ。愚かな振る舞いをしたとはいえ、お前はたった一人の弟。だから、たった一つだけ、この城から何かを持ち出す……連れて行くことを、許そう」
「……………」
「兄上に、笑われたよ。今度は、間違えなかったな、と」

 うつむいた視線の先に、薄汚れた肌に残る赤いあざが、映った。
 消えないそれは、己の罪のようだと思った。
 夢を見た。
 領主となった彼に、仕える夢を。
 それが罪深い夢だと知っていたのに、ほんの一瞬。
 だから俺は、何も言えなかった。
 言わなかった。

「亡き母の、呪縛などではなかった。母の一族の甘言のせいでも」

 一歩、また一歩と、声が近付いてくる。
 こぼれた声には、聞き違えようがないほどの、苦渋がにじんでいた。

「すこしずつ、距離を置こうとなされる兄上が、恨めしかった。そしてそれ以上に、お前をいつまでも手元に置くことができる兄上が、ねたましかった」

 赤い色を、覆うように、彼の手が重ねられた。
 自分以外の、確かな体温。
 少し低く、でも心地よい―――。

「どうしようもなく、愚かな子供なのだよ、私は。おそらく、今も。それでも、私は、どうしてもお前が欲しい」

 ……手を、そっと掴まれたまま、引き寄せられた。
 左手が、彼の頬に触れる。
 目が、合った。
 逸らすことは、できなかった。

「一緒に来て、くれないか?」

 視界が、ふいに滲んだ。

「馬鹿、ですね、あなたは………。一緒に来いと、ただ一言、命令してくだされば、俺は……っ」

 自由な右手で、次は、俺の方から彼を引き寄せ、抱き寄せた。
 戸惑いも、ためらいも、消えていた。

「ああ、本当にそうだ。兄上にも言われたよ。お前はどうしようもなく愚かだ、とね」

 そんな私に付き合わされるお前は、いい迷惑かもしれないが、と続けられた彼の言葉は、くぐもってよく聞こえなかった。俺が彼をきつく、抱きしめたから。

「どこまでも、あなたと共にあります」


 もう、二度と、間違えない―――。
 しっかりと足元の大地を踏みしめ、彼と、己自身に誓う。
 決して、譲れないものが、何なのか、を。


Fin.

007: 静寂の空間の続きにあたるお話です。


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